かかみがはら航空宇宙博物館 (名鉄株主優待利用旅2日目)

どうせここまで来たので、御嵩散歩だけでなく、翌日「各務原」にある航空宇宙博物館に寄っていくことにしました。 可児市のABホテルに宿泊。少し可児市にも触れます。

可児市は人口10万弱の都市ですが、駅前は非常に寂しいです。名鉄新可児駅とJR可児駅が隣接して建っているというのに、何もなす・・・おそらく前回記事で書いた歴史的経緯から、駅が市街地から離れた地点に設置された名残もあるかと。ルートインやABホテルのようなビジネスホテルも、駅から500m以上ほど離れた市街地に建てられています。 でも、その「市街地」自体も、これが10万都市の市街地かと思うくらい寂しい・・・。

可児市は高度成長期に名古屋のベットタウンとして人口が急増したらしく、郊外にニュータウンがつくられた、典型的な多極構造都市になっているようです。(駅はちょうど市の真ん中あたり)

都市構造可視化計画

これだと市民のメイン交通手段は自家用車でしょうから電車はあまり使われず、したがって駅前も寂しいまま(電車通勤者も駅から郊外の我が家まで遠いから、駅前でイッパイという気にならん)ってことでしょうね。

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翌日、名鉄の「各務原(かかみがはら)市役所前駅」で下車し、コミュニティバスで博物館に向かいます。 とんでもない方向に向かうバス。 実は駅と博物館の間に飛行場があり、それを迂回するルートになっているようです。 

各務原飛行場・・・ゼロ戦の試作機の試験飛行やるのに、名古屋の三菱重工業大江工場から各務原飛行場まで機体を分解して牛車で運んだ っていうあの飛行場だよね。

零戦と各務原/ゼロ戦の秘話と各務原

でも現在はここが「航空自衛隊岐阜基地」とは知らなかったなあ。考えてみれば、岐阜県内にある飛行場ってここだけだから、まあ当然そうなるのだけれど。

いろんな飛行機やロケットが展示されているのだけれど、僕が興味あるのはプロペラ軍用機と水上機(ここでは飛行艇)だけなんだよな。ジェット機(特に戦闘機)はエンジンの力で無理やり飛んでる気がしてどうも好きになれないす。それに比べれば、プロペラ機は「頑張って飛んでる」感が出てるから好き(笑)。宇宙開発には興味ないし。

US-1

屋外展示の新明和US-1救難飛行艇。飛行艇って船+飛行機みたいでいいよね♡。日本は戦前から飛行艇開発が非常に盛んで、新明和工業の前身である川西航空機の制作した「二式飛行艇」は当時の世界の技術水準をはるかに超えてたっす。 

大型高速で充分な防御火器を装備した本機は連合国パイロットから「フォーミダブル(恐るべき)」機体と呼ばれた(英国航空評論家ウィリアム・グリーン)。・・・防御が弱かった一式陸攻などに比べると遥かに連合軍にとって危険な相手だった。B-25ミッチェルやB-17といったアメリカ軍の大型陸上機を積極的に追撃して撃墜した記録もある。その攻撃力から「空の戦艦」などとも呼ばれた。

wiki

空の戦艦、いいわ~。

戦後、新明和工業って名前を変えてやっぱり飛行艇作ってますが、US系の特徴として「波高3メートルの荒天洋上でも離着水できる」とか性能がすごいんですよね。その秘密がこれ。波切板。それに船体形状も美しい。※この表現は個人の感想であり、効果・効能を示すものではありません。

まあ、マニア的には面白いんだけど、ハイスペックすぎてお値段も高く、今は後継機の存続が危ぶまれてたりもしますね。 あー日本企業にありがちな話~。 

海自「US-2」存続危うし? 日本が誇る飛行艇“値段高すぎ”問題 輸出も振るわず八方塞がりに

こちらが一番見たかった 三式戦「飛燕」です。当時の飛行機は原則的に採用年(皇紀)の下一桁を取って〇式って名付けていました。皇紀2000年=昭和15年だから、この機体は昭和18年採用ですね。 機体は「川崎航空機岐阜工場」でつくられました。(今も各務原飛行場に隣接してます。)

日本のプロペラ戦闘機は普通、エンジン部がもっと太くてごついのですが、この機体は流線型の非常にスマートな姿をしていますよね。こいつがそのエンジン。飛燕は当時の日本で唯一の量産液冷戦闘機だったのです。 

一般的な日本の航空機エンジンは空冷で、効率よく冷却するため放射状にシリンダーを配置した星形エンジンになります。 

だからエンジン部を流線型にできないんですよね。ここが流線型にできると空気抵抗が大きく減り、同じ馬力でもより高速飛行が可能になるので、戦闘機としては有利です。ラジエター分重くはなるけれど。

陸軍はその性能に大いに期待して、飛燕を大量生産しました。

でもね。飛燕のエンジンはダイムラーベンツのエンジンをライセンス生産したもの(だから飛燕がドイツ空軍のメッサーシュミット戦闘機に似てるのは偶然ではない)、当時の日本の技術水準ではドイツ流の精緻なエンジンを「まともに」制作することが困難でした。大量生産しても「エンジンなし機体の墓場」状態に。

少ない完成機体も前線の整備兵は見慣れぬ「液冷エンジン」をうまく整備できず、「飛ばねぇ戦闘機はただの鉄くずだ」状態だったんです。

もったいない。エンジンだけ慣れた空冷エンジンに変更。それなら飛ぶだろ!

はい、それが五式戦闘機(通称)。って昭和20年採用ですか・・・戦争終わっちゃうよ。(空冷でも大馬力エンジンがなかなか作れなかったという切実事情がありまして・・・)

時間的猶予の無い急な設計であるにもかかわらず意外な高性能を発揮、整備性や信頼性も比較にならないほど向上した。五式戦闘機は大戦末期に登場し、また生産数も少ないために実戦での活躍は少ないが、末期の日本陸軍にとり相応の戦力となった。離昇出力は1,500馬力と四式戦闘機には及ばないものの空戦能力・信頼性とも当時の操縦士には好評で、アメリカ軍の新鋭戦闘機と十分に渡り合えたと証言する元操縦士も多い。

wiki

つまり、飛燕はエンジン以外の機体そのものの設計も素晴らしかった ってことですね。

ところで、先ほど写真で紹介した空冷星形エンジンですが、「三菱ハ214エンジン」といいまして、陸軍が川崎航空機に開発を命じた「キ91」に搭載される予定だったエンジンの試作機だそうです。「キ91」はアメリカ本土爆撃ができる四発重爆撃機として計画されましたが、たとえ材料がそろったとしても、日本の工業力では完成できなかったでしょうね・・・(注:いわゆる「富嶽」ではありません。富嶽計画は中島航空機で六発)

ところで、零式艦上戦闘機(ゼロ戦)と飛燕の操縦装置が展示されていたのですが、

三菱航空機 零式艦戦
川崎航空機 飛燕

アナタがパイロットだったら、どちらの計器類の機体に乗りたいですか? 僕だったら川崎がいいです。川崎のはメイン計器(正面)の周りが緑、黄、赤と塗り分けらています。これはおそらく、パイロットが一瞥して別の計器と誤読しにくくさせるための仕掛け(塗分け)だと思います。ユーザーフレンドリーですよね。三菱の方はそういう配慮がまったくないなあ。

追記。「模型でたどる日本軍用機の発展史」みたいな展示もあります。だいたいわかったんだけど、中になんだこれ?って機体がありました。これ。

時代は1933年、92式重爆撃機とあります。右隣にあるのは1935年96式陸攻(正確には民間払下げされ、世界一周飛行をしたニッポン号)ですが、それと比較して、なんという巨大さと前時代的(大げさ)な設計であること!

これ調べてみると、1920年代の(非力な)大型エンジンで、台湾からフィリピンのコレヒドール要塞を爆撃するため、ドイツのユンカース大型輸送機の設計を買って重爆撃機に作り替えた機体らしいです。わずか6機しか作られず、製作中に時代遅れになったので(そりゃそうだ)実戦では使われなかったのだけど、マニア心をさそう機体だねえ。

波形外板で覆われた全金属製4発エンジンの同機は全長23.2m、全幅44mもあり、当時、世界最大の単葉陸上機でした。その全幅は後に開発されたアメリカの「超空の要塞」B-29爆撃機よりも1m大きく、日本の軍用機としては近年開発されたC-2輸送機の導入まで最大クラスとなります。なお、このG.38型の巨大さは、スタジオジブリの映画『風立ちぬ』の劇中でも描かれています。・・・ 同機は旅客機から爆撃機に改造したことにより、最大速度は225km/hから200km/hに落ちていたものの、航続距離は2000kmを維持しており(G.38は最大3460km)、爆弾も通常で2000kg、最大で5000kgまで搭載できました。
 武装も7.7mm旋回機関銃8挺と20mm旋回機関砲1門を装備しており、当時としては強力なものでした。その後、同機は「九二式重爆撃機」として制式化され、静岡県浜松市にあった陸軍飛行学校で実用審査や飛行訓練に供されます。
 しかし、巨大ゆえに離着陸時の操縦が難しく、特に着陸時は斜め下側の視界不良がひどかったため、それを補うよう機首下には接地距離を目測するための長い棒を装着していたほどでした

民家で見つかった大きなプロペラ→日本製「幻の巨大機」だった! ジブリ映画にも登場90年前の姿とは 乗りものニュース

戦後の飛行機コーナーです。一番奥にはJAXAのSTOL実験機「飛鳥」(実物)も見えますね。

1989年(平成元年) – 各務原市が飛行実験を終えた飛鳥を獲得し、飛鳥を中心とする航空宇宙博物館の建設を構想。総合計画に盛り込まれる。建設場所などが決まる。

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帰りに、各務原市役所前駅での待ち時間が20分ほどあったので、駅北側にある「学びの森」公園に立ち寄りました。銀杏並木が有名だそうですが、今の時期はダメね。

駅前なのにすごく広々とした公園で、晴れたら気持ちよく時間が過ごせそうです。実際、小さな子供やペットを連れた家族連れがたくさん来ていました。

各務原市、都市計画やるねえ と思ってたら、ここ旧岐阜大学農場跡地なんだそうです。「当時から受け継がれた広い芝生広場にある大イチョウがシンボルツリー」だとか。 あ、だから「学びの森」って名前なんですね。

御嵩散歩 (名鉄株主優待利用旅1日目)

岐阜県可児郡御嵩町。 名古屋鉄道広見線の終点です。 せっかく優待で「片道無料」なら一番端っこまで行くのがいいよね(貧乏症なので)。  さらに、広見線が廃線になるかもしれないから というのも。廃線決まればマニアが押しかけてくるし、その前の静かなうちに。

西尾(8:00)→金山(乗り換え)→犬山(乗り換え)→新可児(乗り換え)→御嵩(10:01)

行ってみたら、御嵩は僕的には非常に興味深い土地だったので、その魅力も紹介します!なお、参考文献として御嵩町教育委員会「図録御嵩町の文化遺産」に頼っています。中山道みたけ館の2F(郷土館)でわずか1000円で購入可。御嵩マニアは必携!

愛知県犬山市から岐阜県可児市を通って岐阜県御嵩町までを結ぶ名鉄広見線。その一部区間が廃線の岐路に立っています。・・・廃線が検討されているのは新可児から御嵩までの約7.4キロの区間です。・・・名鉄は、この区間で毎年約2億円の赤字を抱えています。
2025年度までは沿線の御嵩町と可児市が毎年あわせて1億円を支援しますが、施設の老朽化も進む中で、名鉄は今の枠組みでは「路線の維持が難しい」と伝えていました。・・・今後の選択肢は2つ。沿線の自治体がさらなる負担を受け入れて存続するのか、廃線してバス路線に転換するのか、ことし6月に結論が出る予定です。

名鉄広見線 新可児〜御嵩間が“危機” 沿線自治体の“さらなる負担”で存続か 路線バスに転換で廃線か 6月に結論へ

僕は電車に乗って旅するのが好きなので、廃線は残念だなと思います。と同時に株主としては、毎年一億円も名鉄が赤字を負担してる路線なら、さっさと廃線すべきだとも思います。(僕の地元にも西蒲線という同じ状態の路線があります。思いはありますが、現状を考えると、うーん廃線やむなしかと・・・)

かつては栄えた御嵩と名鉄広見線の小史

せめて、広見線が「盲腸線」でなければ、廃線にはならなかったと思うのです。

盲腸線(もうちょうせん)とは、公共交通機関において営業距離が短く、かつ起点もしくは終点のどちらかが他の路線に接続していない行き止まりの路線のこと。

wiki

例えば御嵩駅を通る路線が名古屋鉄道広見線ではなく、JR中央本線だったら。廃線危機にはならなかったでしょう。鉄道や道路はネットワーク化してナンボな世界なんです。 

そして、歴史を紐解くと御嵩に中央本線が通る可能性も十分にあったのです。

まず、江戸時代の五街道の一つである中山道は、御嵩町を通っていました。御嵩は中山道49番目の宿場町として、そして願興寺の門前町として大いににぎわっていたのです。

今でこそ岐阜県東部(東濃という)の中心地は多治見ですが、当時は御嵩でした。明治時代には可児郡(現御嵩町、可児市、多治見市の一部)の郡役所、東濃四郡を管轄する御嵩警察署・裁判所と監獄、県東部で最初の旧制中学(県全体でも四番目)が置かれてたのです。

でも明治17年ごろ、中山道沿いに鉄道を敷設する計画が持ち上がった際、可児郡は猛反対。結局、国鉄(中央本線)は可児郡を通過せず多治見を通るルートで開通(明治33年)することになります。

 が、鉄道開通による経済・文化のもたらす力は予想以上。「やっぱり鉄道が必要」ということになり、地元で私鉄を設置します。それが「多治見から広見」と「広見から御嵩」までの路線。これが現在のJR太多線と名鉄広見線の前身です。

あの時、国鉄を誘致しておけばなあ・・・ 

御嵩の著名寺(「願興寺」「愚渓寺」)

願興寺の創建者は、なんと「伝教大師」と伝えられています。天台宗の開祖最澄ですね。 そんな大物がこの地まで来たんだろうか・・・古代からの主要街道が走っていたので、ありえるかも・・・(前掲書によれば、発掘された瓦の調査から、それ以前から寺があったのではないかと)

戦国時代に建てられた本堂は令和8年まで大改修中で見られませんが、たぶん金土日はお寺に電話予約すれば宝物館の仏像を拝観させてもらえます。

正確には拝観というより法要?です。 住職さんによる読経(般若心教)と拝観者の健康祈願、それに仏像の解説、そのあと拝観という感じ。盛りだくさん1時間くらいで一人の場合1000円。

 住職さんとお話しながらの拝観だから、博物館のように「好きなだけ見て終わり」という形ではありません。(小心者なので、しんしんと冷える宝物殿で老住職にあまり時間を取らせては申し訳ないと・・・。)

 第三週日曜が願興寺デーで、この日は11時から予約なしで拝観できるようなので、じっくり見たい人はその日を狙うと吉かもしれません。(確認はしてないので、要確認ください)

平安時代を中心とする仏像が所狭しと並びます。 重要文化財が23体。ご本尊(如来)は秘仏なので厨子の中ですが、脇仏(日光・月光菩薩)、四天王像、十二神将がすべてそろい、さらに釈迦と脇仏(文殊・普賢菩薩)、阿弥陀如来の坐像と立像。

何度も大火に遭っているそうですが、まだ表面の金箔が残る、驚くべき美しさです。プロポーションも素晴らしい。 「これだけの仏がこんな地方にある!」という感じ。大混雑の京都へ仏像見に行かなくいいっす!

ご住職によれば、「まだまだある」そうで、 恐るべきポテンシャルを持ったお寺です。

御嵩町教育委員会「図録御嵩町の文化遺産」より
御嵩町教育委員会「図録御嵩町の文化遺産」より

愚渓寺は町の北部にあります。北へ向かうと、御嵩富士が綺麗です。

このお寺の開祖は義天玄承(臨済宗)という僧侶です。京都龍安寺の開山者でもあります。

京都・龍安寺は石庭(石と砂だけで構成された象徴的な庭)で有名ですね。エリザベス女王が来日時に絶賛したとか。

中根金作「京の名庭」より

実は愚渓寺にも「臥竜石庭」があります。「図録御嵩町の文化遺産」によれば「義天は龍安寺に迎えられる以前、愚渓寺においてこうした石庭思想のもと「臥竜石庭」をすでに作り上げていた」とのこと。つまり、京都・龍安寺石庭の原型が、この庭ではないか と言ってるのです。ふむー。

まあ愚渓寺は途中で移転しており、そういう意味で言えば、これは義天作の石庭ではないけれども・・・

僕自身は「龍安寺石庭」が騒がれるほど素晴らしいのかよくわからんのですけど、ぱっと見て気が付くのは、龍安寺の庭は、塀で近背景をバッサリ切り落とし視線を石庭に集中させのに対し、愚渓寺は石庭の向こうの回遊式庭園にも視線が行ってしまう構造になっていることかな。

僕の感覚では、龍安寺は余計な物を思い切って削ぎ落したように感じました。言い方を変えれば「より洗練されてる」。「余計な物を削ぎ落す」庭の方が、禅修行する場の庭としてはふさわしいようにも感じました。

回遊式庭園は立ち入り禁止ですが、周遊道のわきに仏像?がぼこぼこ立っているような感じ。となると、善財童子の仏話をもとにしたのかも??

華厳経の入法界品には、善財童子が五十三人の善知識を尋ねて真実を求めてゆく旅の物語がえがかれています。
この五十三人というのが、東海道五十三次のもとにもなっていると言われています。

臨済宗円覚寺

キリシタン遺物

御嵩町の東部、中山道の謡坂(うとうざか)に「七御前」と呼ばれる古い墓地があったそうです。昭和56年に道路建設に伴いこの墓地を移転工事してたら・・・中世の五輪塔などに下に、十字を刻んだ石碑が3点発見されたそうな。

それを契機に、謡坂や小原を中心に相次いで隠れキリシタンに関する遺物が発見されたそうな。

それらの遺物のいくつかは、中山道みたけ館の2F(郷土館)で展示してあるので見ることができます。 中で一番興味を引いたのは、謡坂にあった幸福寺(曹洞宗)跡で見つかったという「南無阿弥絶仏」という石碑の写真。それと、この石碑の下から「子育て観音像」が見つけられたとのこと。この文脈では「子育て観音像」って「御子を抱く聖母マリア」ですよね。

「図録御嵩町の文化遺産」に書かれた「この地方でのキリスト教受難のあゆみ」によれば、(当時の可児郡域は、尾張藩領です)

寛文元年(1961)可児郡塩村でキリシタン信徒の捕縛行われる 尾張藩切支丹奉行を創設

寛文4年 謡坂村にあった曹洞宗の寺院「幸福寺」突如廃寺になる

寛文7年 尾張藩、幕府へ「領内信徒ほぼ絶滅」と報告する  

とあります。

その幸福寺跡地に「南無阿弥絶仏」碑か。発見者によると「石碑は全文字が地上に出てた」そうなので、江戸時代に建てられた碑ではないと思いますが(キリスト教が禁令のうちは、少なくとも「絶仏」部分は土中に隠すよね)なかなか興味深い。

できれば現物を見たいと思い、郷土館の方に場所を聞いてみたのですが、「少し山奥で道もない。簡単に行ける場所ではない」と。せめて謡坂と小原まで、御嵩駅(観光案内所)でレンタサイクル借りて行ってきました。

案内所のお姉さん、「レンタサイクルで謡坂まで行きたい」って言ったら絶句してました。「急坂ですよ!」行ってみて実感しました。電動自転車じゃなかったら僕も諦めてた。 そもそも謡坂って、上り坂があまりに急で、旅人が歌を謡って苦しさを紛らわせたところからきてたそう!納得。

途中にある「和泉式部の墓」(百人一首に出てくるヒト)
中山道謡坂石畳(峠部分・・だと思います。先は断念したので)
謡坂マリア像(迫害に耐えた先祖の慰霊と地域の平和を願う)
小原 キリシタン関連はともかく、「隠れ里」ではありますね

江戸時代に寺が廃寺になれば、何かの記録が残ってて、調べもあるだろ とおもい御嵩町図書館の郷土資料コーナーを一通り覗いてみましたが、これ以外の情報は見つけられませんでした。まあ禁教に関係ある寺なら廃寺関係資料は抹殺されたのかもねぇ。

おまけ 田舎の外食(昼食)

御嵩町で見つけた街中華にて。 ランチセット800円 すごい量でしょう。

多めのご飯、ミニラーメン、から揚げ、漬物、油揚げとはんぺんの煮物。

僕は岐阜や長野の田舎暮しが長いのだけれど、 そのあたりでは「外食と言えば大量(チェーン店除く)」「名店と言えば当たり前に大量」というのがデフォルトなんですよね。けっこう日曜定休だったりもする。

あとそういう店では、ラーメンは茹ですぎ、ご飯は柔らかめ というのもままあること。年寄りが多いからかなあ?まあ久しぶりで懐かしいもてなしだったです。ゲフー。