「後柏原天皇宸翰御消息 はく少将宛」 国の重要文化財なんですが、そもそもなんて読みますか?、中身はなんですか?
まず読み方は、「ごかしわばらてんのう・しんかん・ごしょうそく はくしょうしょう・あて」
中身は、西尾市のHPによると以下の通り。
吉良若狭守義冬(吉良上野介義央の父)の寄進の品。
天皇直筆の書を宸翰(しんかん)といい、本宸翰は後柏原天皇(1464~1526)が左少将(のち神祇伯)の白川雅業(まさなり)に宛てた消息(手紙)である。
出奔遁世をしようとする雅業をたしなめ、念仏三昧は老年になってからでよいではないか、使命をわきまえ神祇伯家の伝統を保つために一心に尽くすべき、と諭す。天皇の高い見識と年若き廷臣への情愛に溢れた文言が雄渾な筆致と相俟って心を打つ。
本文は女房奉書に擬した散らし書きで書かれ、短い文を改行しながら右上から左下へと散らして書かれ、紙がいっぱいになると小文字で行間に書き足されている。吉良家と姻戚関係にあった大炊御門(おおいみかど)家から吉良家に贈られたものとみられる。
あんまり西尾市と関係ない(笑)。
要するに「牛飼い家業なんかヤダ!オラ東京さ行くだ!!」とどこかで聞いたような駄々をこねる若い幾三お坊ちゃまに、主筋の長老が「わがまま言うんじゃねえ。家を継げやコラ。」と送った手紙ってことだ。いつの時代も、同じような葛藤があって、微笑ましいねぇ。
国の宝(重要文化財)に指定されてますけど、当人達にしてみれば、「人に見せたくない内容の手紙だから、捨ててくれよう!」 と思っているだろう(笑)。
今の世で言えば、歌舞伎の家元に生まれた子が、「歌舞伎なんていやだい」と、ロック歌手を目指しているところに本家の団十郎が訓告の手紙を送ったって感じ?
どういうロジックで説得しているのか、是非現代語訳を見たいものです・・・。雅業くんは結局、出家は諦めて家を継いでいるもん。まあ恐れ多いから訳は出ないよな。
がぜん興味が出てきたので、関係人物とかまとめて表を造ってみました。これをみて下司の勘繰りを進めます。
右から、「天皇家」「吉田家」「白川家」「本願寺」の家系図になっています。縦軸は上から下に時代が流れています。
後柏原天皇は、「天皇家」の第104代ですね。雅業くんは、後に更生して(笑)、白川家11代当主になります。
さて、この白川家というのは、天皇家の子孫(源氏)の家柄です。当時は皇族男子が臣籍降下と言って、苗字を与えられ皇族から臣下に下ることがありました(天皇家に苗字は無く、臣下には有る)。「源氏物語」で、天皇が「光君」(第二皇子)の元服に際し源氏の姓を与えられ「光源氏」が誕生しますが、あれが典型的な臣籍降下です。
白川家は、第65代の花山天皇の孫が臣籍降下したので、天皇家との血のつながりはどんどん薄くなっていくんですけど、世襲家業として「皇室の祭祀を司る」神祇官という役所の長官(神祇伯)を務めていました。しかも「皇室の祭祀を司る」特殊な仕事であるので、神祇伯を務めている間は「王」を名乗ることができたのです。ゆえに、神祇伯とか白川伯王家と呼ばれる名家だったのです。
そんな名家に生まれたお坊ちゃんが、出家遁世(出家して世を捨てること)を考え、天皇が「ダメだぞ!」と手紙を書いたのは、1507~1509の間だと言われています。(19歳とか20歳のころ)雅業青年に何があったのでしょう?
以下は下司の勘繰りです。
1.応仁の乱で、天皇家(檀家)は疲弊の極致。
京都は応仁の乱(1467-1477)で壊滅的な被害を受けていました。当時の天皇は後柏原天皇の父、後土御門天皇の時代ですが、皇居も公家の邸宅も丸焼け。目端の利く公家さんは地方に難を逃れ、各地の大名の庇護を受けました。でも、天皇は都を離れられないので、足利義政の屋敷に同居してました。死んでも朝廷にお金がなく、葬式ができたのは40日後だったとか。金欠は後柏原天皇の代も続き、この人は在位21年目にやっと即位の儀式を行うことができたそう。そのくらいお金も権力もございません。 そんな金のない家の祭祀を司る(檀家みたいなもんだ)のはねえ・・・
2.伝統あるけど窮屈な家を継ぐの?・・・出家して自由になりたい?・・・あとなお母さんの実家は、新興コンツェルン総帥・本願寺門主さまだ。出家すれば・・・
雅業くんのお父さんである資氏は1490年神祇伯を辞しています。その時雅業くんは2歳。幼過ぎて継げないから大叔父の忠富さんが後を継ぎます。直系の雅業くんは、将来大叔父の娘と結婚して忠富さんの養子としてその跡を継ぐ道がすでに引かれています。
1501年、父親の資氏さんは出家しています。「あー自由でいいよな、親父は!」と思ったのかもしれません。その親父は1504年に死去。
ところで、雅業くんのお母さん(資氏さんの嫁)は、本願寺中興の祖、8世蓮如の娘だったのです。 蓮如さんのおかげで、真宗本願寺派は、破竹の勢いで信者を増やしています。しかも後を継いだ9世・実如はお母さんの同母兄(蓮如氏は精力絶倫で、5夫人に27子)。この人もやり手で、後柏原天皇の即位の儀式は、足利幕府と実如氏(本願寺)からの寄付で賄われたほど。
「母方の伯父」というのは、強力な後見人なのです。雅業くんがどうだかわかりませんが、僕だったら信仰のためというより、新興イケイケ企業の近しい親族であることを利用し、宗教界でがんばろーと出家します(笑)。
3.家業が斜陽だぞ。
家は世襲の神祇官の長官なんですが、お祖父さんとお父さんの代の神祇官の次官に、「吉田兼倶」という天才がいたのです。この時代は白川家の神道以外に両部神道とか伊勢神道も流行ってたんだけど、この兼倶は、それとの対抗上、神祇官の神道を換骨奪胎し?あらたに吉田神道(唯一神道)ってのを立ち上げたんですな。
それがよくできてて、吉田兼倶は後土御門天皇に講義したりしてます。天皇は信者だったという説もあります。長官である神祇伯も、伯家神道(白川家神道)を打ち立て対抗していくんですけど、何せ相手は「天才」ですから、徐々に伯家神道は廃れていきます。
下司ならここは絶対出家するとこ。ですけど後柏原天皇からすれば、「オイオイ、勝手言うんじゃねーぞ。そもそも家に縛られると言えば、天皇家なんてその最たるものじゃねーか!お前ひとりだけ抜け駆けは許さんどー!!!」という気にもなりますよねえ。「許さんどー」にもいろいろな書き方、読み方ができるわけで(たぶん)、公式にはこのように書かれます。
「使命をわきまえ神祇伯家の伝統を保つために一心に尽くすべき、と諭される天皇の高い見識と情愛に溢れた文言が雄渾な筆致と相俟って心を打たれた」 良い子の雅業くんは出家をあきらめ、白川家を継いで頑張りましたとさ。 めでたしめでたし。
僕なら行間を読みたいところ・・・。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
雅業王
生没年:1488-1560
父:神祇伯 資氏王
義父:神祇伯 忠富王
初名:雅益
1500 従五位下
1500 侍従
1501 従五位上
1501 左近衛少将
1506 正五位下
1509 従四位下
1510-1560 神祇伯
1510-1518 左近衛中将
1512 従四位上
1515 正四位下
1518 従三位
1522 正三位
1522-1526 信濃権守
1529 従二位
1536 正二位
1539-1544 信濃権守

元河川技術者、現在は里山保全の仕事をしているおっさんです。西尾市在住の本好き歴史オタク。