日本の国が中央の大和政権に組み込まれ、律令(法律)を元に国家が運営された時代です。この辺りが三河国幡豆郡と呼ばれるようになった時代です。飛鳥時代から奈良時代にかけて。西暦600年代から700年代くらいを想定しています。
まず、地図をどうぞ
海岸線と河川の位置について
もう海抜数メートルの世界に入りまして、どこが海岸線かは標高図からはわかりません。ゆえに、一色町史に、「一色の辺りは赤埴の里台地は島で、南北朝ごろ陸域化したと考えてよい」という記述と、続福地村誌に「恵験寺は西暦740年に創建だが、当時は海浜の藪沢だった」という記述から海岸線を推定しています。ちなみに、赤埴の里は一色町赤羽、味浜あたり。恵験寺は上道目記町に現存しています。
河川について 現在、上流から流れてきた「矢作川本流」は小島町で「矢作川」と「矢作古川」に分流しています。が小島町より下流の矢作川は江戸時代に造られた放水路で、矢作古川が本川です。さらに現在の矢作古川は支流にすぎず、本流は廃川になった弓取川(おおむね現在の「古川用水西部幹線」)ですから、それを表示しました。
さらに(ややこしい)、小島町の「矢作川」と「矢作古川」の分流は、地形的に明らかに人の手が加えられた形跡があります。このあたりは様々な本の傍証と、地形を見て、旧矢作古川は現安藤川の河道を、現矢作古川の河道を鹿乗川が流れていたと推定しました。
律令時代の幡豆郡
幡豆郡は八つの郷からなっていました。 熊来郷、八田郷、礒泊郷、大浜郷、析嶋郷、修家郷、大川郷、意太郷です。 (くまく、やた、しはと、おおはま、さくしま、すか、おおかわ、いだorおだ)
いくつかの郷の位置は推定されていて、 熊来→久麻久だから八ッ面あたり、八田→矢田、礒泊→津平あたり、大浜→碧南市大浜、析嶋→佐久島、修家→横「須賀」までは有力そうです。あとの大川郷は大河の辺りだろ、意太は木田、大和田と音が似てるぞ という説に従いましたが、よく分からんらしい。
今の感覚から考えると、佐久島が一島で一郷を形成しているのが奇異に感じますが、当時の高速道路は「海」なので、海運で栄えてたのです!漁業もあるしね。
後の時代になりますが、やはり海運が盛んだった江戸時代の佐久島は他地域に比べて生活水準が高く、幕末時点でも瓦屋根を持つ民家がほとんどだったそう(wiki)。海運と水運は、現代の僕らが歴史を見るうえで見落としがちな視点ですね。あ、でも当時佐久島では、水はどうしてたんかな?島に川はないですし・・・
このころの幡豆郡の役所は、まあ一番右下の赤丸(黄丸が隠れてしまった)のあたりにあったんじゃなかろうか?と言われております。
あ、赤丸ですが、当時最先端の技術である「瓦」を使った寺院です。当時の寺院は仏教だけでなく、最先端の知識(医薬学や技術を含む)を民衆に広めるテクノクラート(兼僧侶)を擁すセンターでもありましたので、おそらくそのあたりに人口が集中していたと思われます。
北から寺領廃寺、志貴野廃寺、鳥羽廃寺(鳥羽神宮寺)、寺部廃寺です。いずれも海や河川から比較的アプローチしやすい場所にあります。
いずれも「廃寺」であとは残っていません。ですが、鳥羽の通因寺の客仏が、鳥羽神宮寺の本尊として伝えられています。
奈良の都とのつながり
この時代、この地方から 雲母(当時は医薬品 八ツ面山産出と思われる)、干物(サメ、スズキ、ワガ、ムツ)、生糸(絹)が都へ国税として運ばれていたことが、都の木簡から分かるそうです。
魚ではサメが大変多いそうで、なるほどなあと思いました。今日本でサメを食べる習慣は広島県から山口県の山間部あたりが有名です。なんでか言うと・・・
サメをはじめとした軟骨魚類は、体液の浸透圧の調整に体内の尿素を利用しており、死ぬとこれがアンモニアに代わるため、鮮度が落ちると食べられないとされている。
しかしアンモニアのおかげで細菌類の発生が抑えられ、腐敗のスピードは遅くなる。このため、冷蔵技術の発達していない時代には、山間部で食べられる唯一の海の幸だった 野食ハンマープライス
人の足(と手漕ぎ船?)で大和の内陸部まで運ぶんだもの、サメが重宝されるわけですな。味はどうだったのかなぁ?
持統太上天皇行幸
この地方のこの時代最大のトピックと言えば、702年(大宝2年)に、持統太上天皇が三河に行幸されたこと!「天皇の三河行幸は後にも先にもない」 って太上天皇は文武天皇に譲位してるので、天皇とは違うと思うけどな・・・最高権力者ではあったけど。
にしても、来た時期と行程がすごいんす。
701年「大宝律令」制定
702年10月8日三河行幸 11月18日尾張国 17日美濃国 22日伊勢国 24日伊賀国 25日 藤原京へ帰京 12月22日「崩御」
大宝律令は、日本史上初めて律と令が揃って成立した本格的な律令です。それをやり終え「やれやれ」の時期になぜか三河に一か月以上滞在。メインの滞在場所として豊川市御津町あたりに仮宮があったとされています(地図範囲外)。
で、帰ってすぐお亡くなりに。三河行幸の目的は不明。やり手の持統さんは人生の最後に、三河で何をやってたんでしょうか?記録がない時点で、すごく怪しいですね。まさか同時代の行基が発見したと言われる三谷温泉で湯治・・・ないよねえ(笑)※
さてさて、目的は不明なんですけど、その持統太上天皇行幸時におつきの高市黒人(たけちのくろひと)が詠んだ歌が万葉集に残っています。「何処にか 船泊てすらむ 安礼の崎 漕ぎ廻み行きし 棚無し小舟」 安礼の崎は御津あたりって言われてます。
また、この時の歌と明示はされていないけど、万葉集には同じく高市黒人が歌った「四極山うち越え見れば笠縫の島漕ぎかくる棚無し小舟」という歌もあります。
で、幡豆の山中に「四極山(しはつやま)」があるんです。見にくいですが、地図の右下、青△で示したところが四極山(204m)。だから、「四極山・・・」の歌をここと同定する説もあるんです。御津あたりから尾張を目指すなら、船で沿岸を通るでしょう。で、四極山を通り過ぎた半島の先に幡頭神社があるんで、ここに寄って海を眺めたのかもしれませんな。写真には写ってませんが、左手側には「梶島」もある!
「四極山うち越え」なんで、山から見たわけじゃないでしょうが、四極山からは?
少し内陸なので、木々を切ったとしても高々200m標高で海は見えるのかなあ?確かめようにも、現在ちゃんとした道はないみたい。残念。
いささか東にずれますが、三ヶ根山(321m 幡豆山塊最高峰)からだと三河湾はこう見えます。参考までに。
※長い補足。
律令制度ができるまで、矢作川流域が三河国、豊川流域が穂国として、それぞれ三河国造・穂国国造(地方豪族)が一円を支配していました。律令制度ができたときに穂国は三河国に合併され、国司は中央から派遣となり、地方豪族は郡司に格下げされました。
三河国一宮である砥鹿神社(とがじんじゃ)は社記によれば大宝年間(701年-704年)文武天皇の時に天皇の病を鎮めるための勅使が派遣され本宮山の神を迎え創建されたとされています。タイミングは持統天皇の行幸と一致しています。
砥鹿神社の祭神は大己貴命(おおなむちのみこと 大国主)。話が見えてきたぞ?
オオクニヌシといえば、出雲大社の神様で、天津神(天皇の祖)に国土を献上したことから「国譲りの神」とされています。 まあ神話はきれいに出来てるけど、実際のところ出雲国造が「大和朝廷に従うのヤダ!」とゴネたんでしょう。大和朝廷だってその昔、越前の豪族に乗っ取られたかもしれんし(継体天皇)、弱みもあったでしょう。それでも大和側は頑張って、相手(の祖先)を神に祭ることで統一を完成させました。
穂国の国造も嫌がったんだな。で、親大和の三河と穂国を合併させちゃうことにした。今の市町村合併でもある話だろうけど、新しい国名は三河とするけど、新三河の国府、一宮、総社、国分寺および国分尼寺は、穂国に(現豊川市)置くことに。「名を貰うけど実はあげるから、妥協してくれよう」。でも貰った実は酸っぱかったようですね。んで、ついに持統太上天皇自ら親征。{徳川家の支配を確実にするため家康老躯を押して「大阪夏の陣」へ出陣」の天皇家版。多分大きな戦にはならなかったんだろう。「祖先を神に祭ったるから妥協せえ、なんやまた大国主か~。も~うち、かなわんわ~」とバアさん曰く?