西尾市上道目記にある、授法山不退院を訪れました。浄土宗西山深草派。
パッと見た感じ、特にどうと言うことのないお寺です。が、このお寺は、三河地方の戦国時代の歴史に、いろいろ関わっているのです。
戦国時代の三河の英傑と言えば、まあ徳川家康でしょう。 家康の小さいころ、徳川家(当時はまだ松平家ですね)はガタガタでした。先代の当主広忠が横死し、幼君家康は駿府の今川氏の人質状態。岡崎を中心とする松平氏の所領は、ほぼ今川氏の植民地と化していました。
その当時の松平家臣団を取りまとめていたのは、鳥居忠吉という人物でした。
天文18年(1549年)に清康の子で主君・広忠が暗殺されたため、その後は新たな幼主・竹千代(後の徳川家康)の身柄が駿府に預けられ、岡崎城は今川氏の管理下に置かれた。
この間、岡崎の治世は今川氏から派遣された城代による統治よりも、忠吉と阿部定吉らとの実務によって成り立っていた。だが、収穫などの富は今川氏への分配が多く、松平党は日々の暮らしにも困窮する。そんな僅かになった収穫であっても、家康が帰参するであろう将来に備えて倹約・蓄財に心血を注いだ事で知られる。阿部が死去すると忠吉の下に、松平家臣団は一段と結束する。貧しさに苦しもうとも、いざ合戦となると、命を惜しまぬ戦いぶりを見せつけた。その忠誠心は後世まで「三河武士」として名声を高めるが、当時の彼らの姿勢や意識は、家康を想う忠吉によって植えつけられた。 wiki鳥居忠吉より
テレビドラマで、桶狭間の合戦後若き家康が岡崎城に戻った際、老臣に蔵に案内され、蓄えていた財を見せられ、「じい。今川の占領下の苦しい中、よくこれだけの蓄えを蓄えてくれた!」と泣くシーンがありますが、この老臣が鳥居忠吉です。家康は、その財をもとに三河統一を果たすという・・・
鳥居家の領地は岡崎市渡町。一説には「矢作川の水運で栄えた水陸交通の要衝のため、船や馬などの経済活動でかなりの富を蓄えていた」とされます。
話が不退院から飛んでしまいました。長々と鳥居忠吉の話をしてしまいましたが、その鳥居忠吉の墓が不退院にあるのです。忠吉の次男がこの不退院の第六世住職だった縁です。
さらに、徳川家康の異母妹・市場姫は、西尾・八面山城の城主 荒川義広に嫁いだのですが、近隣だったこともあり?荒川義広と市場姫の墓もこの寺にあるそうです。まあ家康も、妹の墓が忠臣の縁者のお寺にあれば、安心したということもあるのかな。
いずれにせよ、徳川家と縁の深いお寺と言うことで、江戸時代は徳川家から寺領を貰っていた、由緒あるお寺だったのです。
徳川家、荒川家、鳥居家の関係を図にしてみたぞ。□で囲った太字の人物の墓が、このお寺にあるのだ〜。
しかーし。実際に訪問してみてもどれが誰の墓やらさっぱり分からん。
お寺の墓地って通常、一番奥待ったところに歴代住職のお墓があるんだけど、鳥居忠吉さんは、住職の縁者だから、その並びにあるんじゃないかな? ってことで、これに比定!(違ってても知らんよ〜)
その近くの古そうなお墓を、荒川義広と市場姫に比定しました。周りは荒川一族や家臣の墓じゃないかと。
ちなみに、鳥居忠吉の三男が、有名な鳥居元忠です。重臣の子として、人質時代から家康の近臣として使え、最後は伏見城の城代として、関ケ原の合戦に先立ち戦死しました。
で、この鳥居元忠くん、遠江国の弘忍寺を移築し、上町にある実相寺を再興しているのです。
実相寺は、吉良氏の菩提寺として建てられたのですが、織田信長の焼き討ちにあい焼失しています。主家である徳川氏は、三河統一の過程で吉良氏(荒川氏)とも争うものの、近しい姻戚関係&いろいろ助け合った仲でした。さらに荒川義広は不退院で、元忠の父・忠吉の近くに眠る近しい間柄??なわけ。
そんなこんなで、元忠くんは、実相寺を再建してくれたのかもしれないのですね。