神谷伝兵衛 

神谷 伝兵衛(かみや でんべえ、神谷傳兵衛、安政3年2月11日(1856年3月17日) – 大正11年(1922年)4月24日)は三河国松木島村(現在の愛知県西尾市一色町)出身の実業家である。東京都台東区浅草の洋酒バーの神谷バー、茨城県牛久市のワイン醸造所のシャトーカミヤの創設者。

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西尾市出身の有名人です。てか、 地元でも長らく忘れられていた人で、最近少し騒がれるようになりました。市の広報に取り上げられ(2月16日号)、一色町にある「一色学びの館」で、今日までミニ企画展が開催されていました。          ※以下写真はその企画展で出されていたもの。

でんべえ氏

さて、この伝兵衛氏の業績のなかで一番知られているのは、浅草の門前町に「神谷バー」を創設したこと。神谷バーは浅草の観光地としてそれなりに有名ですよね。(たぶん)

神谷バーでは「電気ブラン」というカクテルを飲むことができます。

電気ブラン

味の好みは人それぞれだと思いますが、個人的評価は 「まずい」の一言。

デンキブランのブランはカクテルのベースになっているブランデーのブラン。そのほかジン、ワイン、キュラソー、薬草などがブレンドされています。しかしその分量だけは未だもって秘伝になっています。

神谷バー デンキブランとは

何せ「薬草」が入っています(笑)わし養命酒嫌いだわ。

しかし当時はこれが日本人好みの洋酒であり、ハイカラなものだったのです。以下、大正時代に都会を闊歩したであろうモボ(モダンボーイ)の記述をお借りしましょう。太宰センセーです。

淫売婦のところから朝帰る途中には、何々という料亭に立ち寄って朝風呂へはいり、湯豆腐で軽くお酒を飲むのが、安い割に、ぜいたくな気分になれるものだと実地教育をしてくれたり、その他、屋台の牛めし焼とりの安価にして滋養に富むものたる事を説き、酔いの早く発するのは、電気ブランの右に出るものはないと保証し、とにかくその勘定に就いては自分に、一つも不安、恐怖を覚えさせた事がありませんでした。

太宰治「人間失格」

いや、今の言葉で言えば、「吉牛とかウイスキーちゃんぽん酒ってコスパいいよね!」って記述だから、ほんとにハイカラなのか、これ(苦笑)。でも 「料亭に立ち寄って朝風呂へはいり、湯豆腐で軽くお酒を飲むのが、安い割に、ぜいたくな気分」ってこれは現代、確実にハイカラでしょうから・・・

まだひっぱります「ブランデーにジン、ワイン、キュラソーをブレンド」って、ちゃんぽんでそれなりの量を呑んだら確実に悪酔いしますね。※神谷バーでは小さなカクテルグラスで提供されますんで問題ありません。しかし強いお酒であることは間違いなし。

閑話休題。バーだけではなく、ワイン販売も手掛けた伝兵衛さん。 でもワインもそのままでは当時の日本人の味覚には合いません。そこで・・・

「輸入ワインにハチミツ・漢方薬を加えて甘みの強いワインに改良しました。」

今度は漢方薬入り(笑)。恐ろしくて呑みたくありませんが、それを「蜂印香竄葡萄酒」として売り出します。蜂印香竄葡萄酒のポスターは、女性がワインを片手に登場するもので、とても美しく魅力的で目を惹きつけました。

ポスター

美しいかはいろいろ意見の分かれるところでしょうけど、PRのセンスはいいんじゃありません?おかげで大当たり!

儲けたでんべえさんは、その後国産ワイン造りにも手を出します。現在の茨城県牛久市にワイン醸造所を造り、それが現在も「牛久シャトー」として残っています。 しかし牛久って、ワインづくりに向いているのかねえ??(向いてるからそこにシャトーを造ったようなんですが、隣のつくば市元住民としてはちょっと不思議に感じるなあ)  

文末に追記あります

そのほか災害対応など様々な社会活動にも巨額の資金を投じ、皇室から銀杯を下賜されているほどなんですが、あまり知られていないのは、 どうもそれらの行為にあまり名前は出していないからみたい。

もちろん地元発展にも尽くしました。愛知県に設立された「三河鉄道」の大株主であり、赤字経営の立て直しのため請われて社長になっています。でも直後に死亡。

三河鉄道関係


彼の死後、三河鉄道は蒲郡まで延伸されることになり、地元一色町松木島には二代目でんべえさんが寄贈したコンクリート造りの駅舎が建ち「神谷駅」と名づけられました。駅名からしても、地元がどれだけ喜んだか分かりますね。

松岡敬二編「古地図で楽しむ三河」より

駅がこのままの名前で残っていれば、少なくとも彼の名が地元で埋もれることは無かったでしょう。 地元の実業家であり、やはり各種社会事業に私費を投じた岩瀬弥助※に匹敵する実業家でしたから。  

ですが、神谷駅は昭和24年に「松木島駅」と改名されているのです。地元に住んでいたわけでもないし、名前が消えれば段々人々の記憶からも忘れ去られてしまうのは仕方がないですね。

しかし、 田舎の人々が我田引水の恩を、駅名を変えるって形で返すような事象が、そう簡単に起こるとも思えません。いったい何があったんでしょう?? 

ここから先は推測ですが・・・神谷家は社会貢献を精力的に行ってきたから、昭和24年という戦争終結直後の時期に、公職追放等でなんらかの処罰を受けたのかもしれません。すると「地域として個人名の駅は具合が悪いし、あんまり顕彰するのもどうだべなー」って、あり得そうなシナリオじゃないかと・・・

※岩瀬弥助は、 集めた古書を元に岩瀬文庫を造ったことで有名です。ですが同時に大成功した実業家であり、伝兵衛と同じように地元「西尾鉄道」の初代社長でもありました。 余談ですが西尾鉄道と三河鉄道は 現在名古屋鉄道の西尾線と三河線の母体となっています。

※2019年12月27日追記 中日新聞によれば、神谷伝兵衛がご縁で、西尾市と茨城県牛久市は、大規模災害に備えた防災協定を結んだそうです。両市の距離が離れていて、同時に大災害に見舞われる可能性が低いことからだそうですが、よい取り組みだと思います。縁は異なものですねぇ。

投稿者:

モト

元河川技術者、現在は里山保全の仕事をしているおっさんです。西尾市在住の本好き歴史オタク。

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