先日所用がありまして、知多半島に行きました。野間という場所に通称「野間大坊」と呼ばれる有名なお寺がございます。
正式名称は「鶴林山無量寿院大御堂寺(真言宗豊山派)」 なんで有名かと言うと、源義朝のお墓があるからです。
源義朝(みなもとのよしとも)は、鎌倉幕府を開いた源頼朝(みなもとのよりとも)のお父さんです。平安時代末期に、平清盛が権力を握るきっかけとなった「保元・平治の乱」この平治の乱で源義朝は清盛と対立、この戦に敗れ都を落ち延びる道中、ここで家人に裏切られ謀殺されたのです。
お墓の周りに木刀が奉納されているんですが、湯殿で入浴中欺し討たれた義朝が「我れに木太刀の一本なりともあれば」と叫んだとされているからです。
が僕はこの話、よくできたフィクションじゃないかと思うですよ。この時代の武士に大事なのは「一所懸命」です。つまり地方の開発領主として先祖から受け継いだ土地を、命をかけて最後まで守り抜き、それを子孫に引き継ぐことこそ当時の武士の本分だったのです(「一生懸命」の語源)。 だから主筋とはいえ、権力争いに敗れた落ち目の主君を匿うことと、裏切っても手柄を立て勝者に所領安堵を願うこと、どちらが地方武士として大事なのかなんて、都で権力闘争をしてきた義朝に分からないはずありません。だから落ち延びた先で身近に刀がない なんてありえなくね?まあ謀殺は確かだったのでしょうが、風呂は大人の事情で「そういう話に」 ってことじゃないのかなぁ・・・
ともあれ、義朝さんのお墓の隣にもいくつかお墓や碑があります。 義朝さん関係者以外のビックネームとして・・・織田信孝のお墓があるんです!あまり知られてないけど。
京で明智光秀により織田信長と長男の織田信忠は打ち取られ、明智光秀も羽柴秀吉に討ち取られました。 秀吉は織田信忠の息子三法師(信長の嫡孫)を担ぎ上げ、天下人の地位へ進んでいきます。それを良しとしないのが、柴田勝家や信長の三男、織田信孝でした。彼らは反秀吉連合を組んで秀吉と戦い、そして負けてしまいます。
秀吉は柴田勝家を破り自害させるんですが、信孝は主筋に当たるんで厄介な相手です。そこで取り込んでおいた信長の次男信雄に、岐阜城にいた信孝を攻めさせ開城させます。城を出た信孝は、ここ大御堂寺の安養院で信雄の命により自害させられます。だからここに彼のお墓があるのです。
ちなみに安養院という当時の塔頭?は、現在も存在しています。時間なくて100m、行けなかったんだけど。
※信雄君はその後徳川家康と組んで秀吉と対立。敗れても許され、改易されても出家して命は救われ、最終的には徳川家康によって大名に取り立てられます(大和宇陀藩)。
こういう人たちのお墓があるんで、野間大坊には頼朝が造営させたという大門や、鎌倉幕府5代将軍・藤原頼嗣の寄進による梵鐘などが現存しています。梵鐘には建長2年(1250年)の銘があり、国の重要文化財に指定されているそうな。さらに後の世では豊臣秀吉や徳川家康の庇護を受けたそうです。
補足:門の前、両脇に置かれているのはたぶん国歌にある「さざれ石」です。
境内とその周りを巡っているとこんなものも発見。良い子は見ちゃいけません!
寺と直接の関係があるというより、古くからある生殖器崇拝でしょうね。まあ真言宗なのでそのあたりはわりとおおらかなんでしょうか?(小屋に張られた神様が、不動明王と愛染明王だと面白かったんだけど、不動明王と弁財天でした)
もう一個面白いものを見つけたのですが、長くなりそうなので次の記事に回します。お寺と直接は関係ないネタです。