野間大坊(2) 三景艦

そもそも野間大坊ってなんでしたっけ?と言う方は、その1を読んでおくれ。そっちが普通の神社訪問記です。

今回は、その野間大坊で見つけた面白いものについて。それは艦オタの話。

これはね、「三景艦」の主砲弾です。すごいですね〜。

というか、「さんけいかんのしゅほうだん」 と聞いて「おお、 なんでこんなものがここにあるのだろう? 」と反応できちゃう人は、相当重症なんで気を付けましょうね。

結論を先に言うと、 「三景艦」 と言うのは、日清戦争当時の日本の主力軍艦です。

「日本三景」ってのがありますでしょ、松島(宮城県松島町)、天橋立(京都府宮津市)、宮島あるいは厳島(広島県厳島神社)の三つ。その地名を取った、三隻の軍艦「松島」「橋立」「厳島」の主砲弾がここに飾られているのです。 日本三景の名を取ったので、 総称して「三景艦」。

日清戦争の主な海戦である「黄海海戦」で、日本海軍は清国の北洋艦隊(北洋水帥)と戦いました。(清国軍といいつつ、清国の直隷総督兼北洋大臣かつ北洋軍閥首領である李鴻章の私兵 というのが正確かもしれません)

当時「眠れる獅子」と恐れられてた清帝国ですが、清帝国の 為政者「西太后」は「日本も怖いけど、 軍閥でもある李鴻章の半ば私兵の北洋艦隊の増強にお金を費やすのも考え物だわ」 と思ったのか、北洋艦隊増強に充てる予算をネコババして「円明園」という庭園を造ってしまいました。

ってことで、 北洋艦隊の軍艦は当時の一流ではなく二流艦ではあったのですが、それでもその主力艦「定遠」「鎮遠」は排水量7000t、30センチ連装砲二門を持つ強力なドイツ製軍艦でした (後の日露戦争時の日本の戦艦「三笠」排水量15,000tの主砲も 30センチ連装砲二門ですから) 。それに主要部の装甲はめちゃくちゃ厚い不沈艦です。

こんな感じの船です。(オタキング宮崎駿・画)

宮崎駿「宮崎駿の雑想ノート」 旗艦「定遠」

対する日本海軍は、 これに対抗するためフランスに3艦の建造を発注します。でもこっちはこっちでもっと金がない。 30センチ砲を凌駕する 32センチ砲を載せる・・・のはいいんですが、 排水量4200t の船に 32センチ砲 を1門だけ載せたのです。こいつで定遠の装甲をぶち抜こうってわけ。 日本に引き渡され、 「松島」「橋立」「厳島」 と命名されます。

日露戦争後の日本海軍の思想に「百発百中の一砲、よく百発一中の敵砲百門に対抗しうる」っていうのがありますが、実はもっと前から日本海軍はそういう発想だったんですね。というかそれが日本の国力の限界だったわけです。それでも頑張って3隻造りました。こんな船です。

宮崎駿「宮崎駿の雑想ノート」 「厳島」 (旗艦松島のみ主砲を後ろに配置)

で、小型艦に載せた巨大な主砲の「百発百中の一砲」 効果はどうだったのでしょう?

砲のサイズに対して台座となる船が小さすぎ、32センチ砲(主砲)を旋回させると船が傾きすぎ、それでも打つと船の進路が変わちゃったそうです。台座が動いちゃったら、主砲打っても当たらないわね(笑) 。

実は船を造るとき、フランス側が「さすがに砲に対し船が小さすぎるんじゃね?※」って忠告してくれたのですが、押し切って造っちゃったそうな。「バランスいい船より戦力のみ重視」ってのも日本海軍の悪癖(笑)。

てなことなので、実際の戦闘ではほとんど主砲を打つことはなく、副砲として装備した英国製の12センチ速射砲※を打ちまくったそう。で、余った主砲弾がこのお寺の境内に祭られていると・・・

この時の英国製の速射砲というのがアームストロング砲。 「定遠」「鎮遠」 の主要装甲部は一発も打ち抜けなかったそうですが、装甲の無い一般部をスクラップ化したそうです。 砲の信頼性が高かった?のか、以後建造される日本の戦艦は、 アームストロング 社をはじめとするイギリスへ発注されることになります。

対する日本側は旗艦松島に鎮遠の主砲弾が一発あたり、 大穴を空けられ大破。結果を見る限り日本側の射撃は正確だったようですが、当たったのは小口径の砲が多かったので、清国側は被弾数の割に軽微な被害で抑えられたようです。(艦隊としては数隻沈没しているので、全体の死傷者数は清側の方が多いです)

「松島」  被弾13発・死傷113名 大破
「厳島」  被弾8発・死傷31名 小破
「橋立」  被弾11発・死傷13名 小破

「定遠」  被弾159発・死傷55名 中破
「鎮遠」  被弾220発・死傷41名 小破

※軍艦においては、装備する主砲とその台座となる船の大きさ(排水量)をどう考えるかと言うのは大事な視点なのです。大きな砲を打てば反動もでかい、それを吸収するための大きな船体が必要になるのです。

 昔読んだ本の中に「戦艦大和がすごいのは、それが 64,000t という巨艦であることではない。むしろ46cm砲を9門も積んだのに、船体をその大きさに抑えられたことがすごいのだ」という一文があったことを思い出しました。 こういうことなのかな〜。

*追記  三景艦や定遠・鎮遠、そして黄海海戦について、さらに詳しく知りたい方は、 戸高一成「海戦からみた日清戦争」角川新書2011または「日本海軍戦史」角川新書2021 をオススメします。 日清戦争の海戦及び当時の造艦思想になると、手軽に入る本がなかなかないですから。 

ちなみに僕が持っているのは後者ですが、これは旧著三部作(日清、日露、太平洋戦争を扱った)の合刊らしいです。海戦や軍艦に興味がある方なら、合本で1700円はお買い得なんじゃないかなあ。

著者は言わずとしれた大和ミュージアムの館長さん。この人、多摩美大出身なのかあ(以外でした)。日本艦船の鳥瞰図集を安価に出してくれないかなぁ・・・

投稿者:

モト

元河川技術者、現在は里山保全の仕事をしているおっさんです。西尾市在住の本好き歴史オタク。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください