豊葦原瑞穂国

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豊葦原瑞穂国と書いて「とよあしはらみずほのくに」 と読みます。「葦原が広がり、稲穂の豊かに実る国」というような意味です。日本書紀や古事記に出てくる日本国の美称です。(正確に言うと、古事記では「豊葦原穂国」)

台風19号の災害を受けてから、ハザードマップをしっかり見ておきましょう!とニュースとかでよく聞くようになりました。

例えば、鹿児島テレビ 台風19号 県内の専門家に聞く「ハザードマップの重要性」

ハザードマップは凄い重要なんで、是非見ておいてほしいんですけど、それ以前に、

そもそも我々が住むこの日本という土地(の人が多く住む場所の大半)は、もともと 「葦原が広がり、稲穂の豊かに実るような大湿地帯だったのだ!」ということを頭に入れておいてほしいっす。それに日本の美称が「豊葦原瑞穂国」って、教養として自慢できますし?

日本の人口の大半が住んでる洪積平野ってのは、もともと手の付けられん湿地だったのですよ。そこは大規模な堤防が築かれて始めて人々が暮らせるようになった土地なのです。そういう基盤整備の上に、いまの我々の日常生活があるってことは忘れたら危ないのです ってことは知識として知っておいてよい話ではないかと思います。

ここんとこ読んでる タットマン「日本人はどのように自然と関わってきたのか」築地書館 で、これをうまくまとめた箇所があったので転記します。

日本列島は地質学的な時間尺度では、誕生してから日が浅いので、洪積平野には険しい山地が迫っている。また、列島の地理的な位置に起因するのだが、特に梅雨や台風の季節には、突発的な豪雨にたびたび見舞われるために、山地の斜面から大量の水が洪積平野の河川に流れ込み、河川の氾濫を引き起こす。その結果、河川流域は土砂で埋まってしまうのだ。

 こうした氾濫原に開発された農耕地はくり返し水害に見舞われることになるうえに、流水量の激しい変動によって、大きな河川沿いに建設された灌漑用の堰や堤防、排水溝は鉄砲水のような破壊的な水の作用に晒され、何年にもわたる建設や維持管理の苦労が数時間で無に帰すことにもなりかねない。

 その結果、日本では稲作は湿地を利用せずに、中小河川の流域や広い平野の内陸側の縁に沿った平野で始められた。こうした地域ならば、丘陵地から湧き出る水や中小河川の水を直接利用できる上に、流水量の変動にも対処しやすいからだ。広い低地は水田の開発が行われず、洪水の被害を受けにくい用途に使われた。 

(粗放農耕社会前期 起源600年まで)

ご存知のように、その後労働力の集約ができるようになり、大規模な堤防や灌漑施設が作られ(信玄堤とかね)、我々の祖先は、当時使われていなかった氾濫原を開発し、住み着き、現代ではそこに都市に築き暮らしているわけ。

普段はあんまり意識しないのだけれど、災害とか極限の状態になると、あるいはその対策を考えようとすると、その土地の深層を意識せざるを得ない ってのが、人間と土地との関係性なんじゃないでしょうか。

※参考

引用文の中に、(「粗放農耕社会前期の)日本では稲作は湿地を利用せずに、中小河川の流域や広い平野の内陸側の縁に沿った平野で始められた。 」とありますが、西尾市の場合、 日本武尊に従軍した建稲種命(幡頭神社祭神)の二人の息子が、津平や蘇美を開発した時代 ってのがこれに当たるんじゃないかと妄想していますが・・・

 詳しくはこちら。西尾の古墳時代

当時尾張の国にいた建稲種命(尾張国造とも)は日本武尊に従軍。帰りに船で凱旋中、海に落ちて死んでしまい、漂着した宮崎の岬に葬られました。(幡頭神社の祭神)。

その息子の建津牧命は津平を開拓(上記・志葉都神社の祭神)し、別の息子の建蘇美彦命は蘇美を開拓(蘇美天神社の祭神)しました。

この話、どこまで本当か分かりませんが、ヤマト政権に協力する海人の頭(が海に落ちて死亡って・・・)が幡豆に入植。その後内陸の丘陵の稲作適地(平野は洪水の恐れが高く、広い山間の谷間で水の得やすい小河川があるところ)へと勢力を拡大していった ということを示唆していそうです。

投稿者:

モト

元河川技術者、現在は里山保全の仕事をしているおっさんです。西尾市在住の本好き歴史オタク。

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