7月11日に完成した、西尾城の二の丸丑寅櫓と土塀を見てきました!
西尾城は妙な城で、本丸には神社(御剣八幡宮)が鎮座し、二の丸が城の中心となり、御殿や天守閣がありました。その二の丸の丑寅の方角(北東)を守る櫓が、今回再現された写真中央の櫓です。そこから右手に延びるのが、今回復元された土塀で、この塀の右側に天守台があります。
写真左側には二棟の建物が見えていますが、手前が二の丸の表門である中柵門(ちゅうじゃくもん)、奥が本丸の丑寅(北東)櫓です。 二の丸と本丸で少し高度差があるのが分かりますね。 ついでに写真手前の道路は、堀の跡地です。 過去と比較するとこうなります。鳥観図なのが残念ですが・・・
櫓の形態とかがだいぶ違うのは古い資料なので、時代考証が進んだってことで。google航空写真も参考までに。二の丸御殿の跡に、京都から旧近衛邸の一部が移設されてます。
というかこの櫓の復元に際しては、今回採用された学者の復元案(江戸初期・望楼型・下見板張り)に対し、市民案(江戸中期・層塔型・漆喰の白壁)での復元を求める声もあったみたいです。
(詳しくは 戦国きらら隊・【西尾城復元②】三浦教授案に「待った」をどうぞ)
そこの議論には触れないけど、すでに本丸丑寅櫓が望楼型・下見板張りの形で復元されている以上、上の写真を見れば、二の丸の櫓を層塔型・白壁で復元する案はあり得ない(僕の美的センスでは)と思うんで、これで良かったんじゃないかな。 個人的には、白一色の姫路城天守閣はケバくて嫌いだし(笑)
櫓は特に言及するところはありません。土塀の方は、途中で屏風折れが設置されています。まっすぐな塀だと相対する敵を狙撃しにくいので、わざと塀を「く」の字の形に折って方向を変え、狙撃しやすくしてるんですね。
興味深いですが、こんなものが西尾城に本当にあったのかねぇ?
塀には、鉄砲と弓で敵を狙撃するための穴が開けられています。「鉄砲狭間」「矢狭間」と言います。西尾城の場合、その比率は二対一(本丸・西尾城郭覚書)。塀は外部から引っ張って倒されないよう、支えの柱が付いています。
屏風折れの部分で写真を撮ってきました。
こちらは、矢狭間(左)と鉄砲狭間(右)の比較。
鉄砲と弓の特性の違いで、狭間のサイズも異なっています。
先ほどの塀の先には、天守台まで復元されています。(なぜこの写真、傾いてんだ?)
ゆくゆくは天守閣も復元されると、見栄えがしていいですね。天守の復元については、以前の記事「西尾城天守閣について (マニア向け?)」をどうぞ