先回からの続きです。先回は、「一切衆生,悉有仏性」から「山川草木悉皆成仏」への変容において
①「成仏の可能性がある(仏性)」と「成仏する」と差はどこから来たの?
②「衆生」ではない草木、山や川がどうしで成仏できるようになったんだ?
という二つの疑問を上げました。・・・回答にならないまでもそのあたりを追えればと。
①「成仏の可能性がある(仏性)」と「成仏する」と差はどこから来たの?
先回、大本の仏教の根本思想は、「輪廻から逃れたければ、仏教修行をして解脱(悟りとか成仏)しなさい。」だと書きました。これは大乗仏教以前の「部派仏教(小乗仏教)」の考えなんですけど、これだといろんな事情で修行できない人は救われる(成仏)できないのでしょうか? それに、修行の末に確実に解脱できるわけじゃないですよね? 答えはいずれも「はい、出来ません」だと思います。
え、それは凡夫にはひどすぎる・・・ってことで、修行できない人にも救済の道を開く手段が考えられていきます。(大乗仏教)
修行によって悟りまで到達するのは凄く大変だし、相当の知的能力と意志が必要とされる「難行」だが、それらが十分でないものには、「信じる」ことを根本とするもっと容易な方法ー念仏を唱える(称名という)「易行」という方法もある 「十住毘婆沙論」
この段階(中国浄土教)では、本当は難行(修行)が尊いのだけど、それができない人は易行(信じて念仏を唱える)もあるぜ というくくりですが、まあこれなら凡夫も救われるかも・・・。
ところが、これが日本に伝わるととさらに発展し、仏(阿弥陀如来)が善人悪人を問わず誰でも成仏させて下さる というさらに過激な思想に変容します。つまり、「衆生は修行して成仏する(衆生仏性)」という自力救済色が強かったものから、「仏を信じ念仏を唱えれば、誰でも成仏できる(衆生成仏」の方向へと変化していったのです。(浄土宗、浄土真宗)
※そこまで根本思想が変化したものを、同じ「仏教」と言ってしまうのは、仏教の奥深いところと言うべきでしょうが、一方で乱暴だとみることもできます。(「救済」思考が現れた大乗経典は、すべて釈迦とは無関係な偽経 という説もあります。江戸時代の思想家富永仲基)
まあ仏教内部でも、さすがにその思想は極端じゃね?という揺れ戻しもあり、もう少し当初の「修行重視に戻るべき」「あるいは修行そのものが仏道」と考えたのが、「禅宗」の位置づけなのかと。しかしここまでくると、「信じるものは救われる」というか、ほぼキリスト教の「救済」と変わらない気が。救ってくださるのが阿弥陀如来かGODかだけの違いだけ・・・みたいなもちろん差異はあるけどね。(実際、司馬遼太郎氏が戦国時代の日本でキリスト教が受容された要因として、救済思想の強い一向宗(浄土真宗)の広まりが、その重要な素地にあったのではないかと書かれています。)
②「衆生」ではない草木、山や川がどうしで成仏できるようになったんだ?
インドから中国に仏教が伝来した際に、そこには孔子・老子・荘子の思想(形而上学)があり、特に伝来初期には老子の思想的観念を利用して仏教を解釈したので、その考え方が入ったからじゃないのかとのこと。
まずは・・・次の二つの議論を読んでみてください。
東郭子(東)が荘子(荘)に尋ねた。「道といわれるものはどこにあるのかな」荘「どこにだってあるよ」東「はっきりきめてくれると、いいんだが」荘「オケラやアリの中にあるよ」東「なんと下等なものだね」荘「アワやヒエのなかにだってあるよ」東「なんとまたいよいよ下等になったね」荘「瓦や敷瓦にだってあるよ」東「なんとまたいよいよひどいね」荘「大便や小便にもあるよ」東郭子は黙ってしまった。
雲門和尚はある僧から「仏とはどういうものですか」と問われて「乾いたクソの固まりじゃ」と答えられた。
前者は、荘子 秋水篇にある問答です。 後者は「無門関」という禅宗の公案集にある問答でいずれも有名なものなんですけど、この二つは「道の思想」「仏教(禅)の思想」の違いは有れど、同種の思想を持っているように思われます。 すなわち、万物に「道」あるいは「仏(仏性)」は存在する というような。
そもそも中国の思想では「子、怪力乱神を語らず」と言うように、「死後の世界」「前世「来世」というものにほとんど関心を示さないのが特色だそうです。すなわち、輪廻とか衆生という理論にあんまり関心がないのですね。
だから、このような思想をもって仏教を解釈すれば、草木山川だって、等しく成仏できるのではないか となりそうですな。
てなことで、「衆生成仏」の思想がインドから中国へ、そして日本へ伝わり土地に適応していく中で、いつしか「山川草木成仏」という形に変容して来たもののようです。
もっとも、同じ草木成仏と言っても、中国仏教ではあくまで「有情のものが成仏するのにあわせ、はじめて無情のものである草木も成仏できる」という依存関係があるのに対し、日本では、中国由来の依存説と草木それ自体が仏性を持ち、自ら成仏できる」という両説が並立しており、日本の方が、より草木の仏性を認める説が強いようですが。
やや未整理ですけど、いろんな本を読んで「こんな感じかな」ってまとめてみました。本当はもっと複雑なんだけどね。 詳しいことが知りたい人は、以下のような本を読んでみてください。
- 末木文美士「草木成仏の思想」
- 南直哉「超越と実存 「無常」をめぐる仏教史」 →草木成仏を扱う本ではありませんが、一人の人が統一した視点で描いた仏教史(あんまり仏教臭くない)で、非常に読みやすいです。
- 司馬遼太郎「このくにのかたち一(日本と仏教)」「街道をゆく17(島原・天草の諸道)」
- 金谷治訳注「荘子」 岩波文庫では4分冊です。知北遊篇は第三分冊です。
- 西村恵信訳注「無門関」 この公案に無門さんがコメントつけてんだけど、なかなかひどくて笑っちゃいます。こんなコメント書くなら、この公案を載せなきゃいいのに。