東京五輪開幕まで10日となった13日、選手、関係者が生活する東京・晴海の選手村が正式オープンし、各国・地域の選手団を受け入れる準備が整った。新型コロナウイルスの再拡大で東京都に緊急事態宣言が発令され、首都圏1都3県と北海道、福島県の会場が無観客となる厳しい状況を踏まえ、通常なら行われるセレモニーなどはなく、異例の静かな開村になった。
五輪選手村、静かなオープン コロナ禍異例、式典なし
いやあ、いいニュースだなあ って思いました。ここね。
「通常なら行われるセレモニーなどはなく、異例の静かな開村になった。」
たかが選手の宿舎の開設に際し、いちいち式典なんて必要無し。事務手続きだけ粛々とやればよろし。金と時間の無駄遣いしなくてよかった。
どうせ無観客なんだし(「五輪関係者」と称する人々が臨場するそうだが)、密を避けるため、開会式もやめたらいかがでしょう?誰もボッタクリ男爵の話とか聞きたくないだろ。 そもそも「開会式」なんて式典、運動競技にまったく関係ないし。
というか、僕、式典って大嫌いだから、これを機にいろいろやめてほしいな。
社会人になったからは少なくなったけれど、学校時代ってやたら式典がありますよね。入学式、卒業式、始業式、終業式、体育祭には開会式・・・個人的には、全部いらない。まあ好きな人もいるだろうから、有志でやってくれと思います。
僕は、入学式とか卒業式で「感極まる」経験がなかったし、そもそもいい記憶ってないもので。てか、おとなしく流されながら、心のなかでいつも毒づいてたよう。
生徒一人ひとりに卒業証書を渡し(時間の無駄)、きれいに見えるよう教師が怒鳴りながら事前練習を繰り返す卒業式(中学)、 「見に来られる来賓の方に立派だと褒められるよう」指先まで手を伸ばして入場行進の練習を繰り返す体育大会開会式の練習(これも中学だ)。胡散臭い選手宣誓(ルールさえ守れば、勝敗を争う競技に「正々堂々」って余計だよ) 主役は俺らのはずなのに、一体誰のための式典なんだよ・・・、行進や開会式は、競技と全く関係ないだろ、練習するなら競技の練習をしろよ・・・とか。
それにさ、こういう場所で披露される来賓挨拶とかって、中身のない形式的なものですよね。 そんな話聞くのも時間の無駄だし、面倒だから全部文書にして、壁に貼っておけばいいのに。 あるいはそういう無意味な時間に耐える訓練なのか(半ば真面目にそう思ってた)。
でもさ、主役である僕らが、そんなくだらない話を聞いてあげるのに、なんでこっちがお礼をしなきゃならないんでしょう(「起立、礼、着席」と司会の人が声かけるよね)? 会社でプレゼン研修受けると「話者はプレゼンの最初に『本日は○○について話をさせていただく機会を与えていただき、誠にありがとうございます』と言って始めましょう」と習ったんだ。とすれば本来式典の場合は誰がお礼をすべきか・・・
ありゃ、ただの愚痴で終わってしまったなあ。これではまずいから、歴史から、僕が「これが『式典』と言われるものの本質だ」と感じたエピソードを抜き出して終わりにします。 式典ってそもそも、アスリートのためにやられるものではなく、体制のためにやられるものなのです。だれが体制なのかは、いろいろあるでしょうが。
古代中国で、漢王朝の初代皇帝となった劉邦という人、この人の出自はまあ、ゴロツキみたいなもんで、非常にガラが悪かったようです。(人望はあったんだけど)
そんな出自もあって、彼は堅苦しい礼儀作法を重んじる「儒家」が大嫌い。「口先だけの役立たず」と思っていたようです。あるときは酔っ払い、儒家のかぶる帽子を奪い、そこにオシッコしちゃったり。まあお行儀わるい。
でもねえ、回り回って、その劉邦が中国全土を統べる皇帝になりました。とはいえ、皇帝の出自がその程度だから、にわかに諸侯(高級貴族)になった連中も、作法とか知らない奴ばかり。 宮中で勝手に酒盛りしたり、酔って喧嘩したり好き放題してました。(いや、別に悪気はなかったと思う)
「流石にな〜」と思ってた劉邦。ある日、儒学者が「私が皆を教育します」と名乗り出、その教育の後、皇帝の御前でとある式典が執り行われました。 儒者にキビシイ教育を受けた諸侯たち、ビシッとした態度で式典に望み、無事に式典が終わって劉邦はこう言ったそうです。「わしは今日、初めて皇帝が偉いものだと知った」