日本でロックダウンはなじまないと首相
首相は、コロナ感染拡大対策としてロックダウン(都市封鎖)を求める声があることについて、海外では都市封鎖をしても感染拡大が抑えられなかったとして「日本においてはロックダウンの手法はなじまない」と否定的な見解を示した。
7/30(金) 共同通信
「日本においてロックダウンの手法はなじまない」という文言が引っかかっています。ロックダウンも明確な定義はないようですが、緊急事態宣言との一番の違いは、「人の移動の制限を要請」や「企業活動(出勤)を減らすよう要請」するのではなく、「移動の制限を命令」したり、「企業活動を禁止する」 つまり「行政による命令の有無」ではないかと思います。
ロックダウンとは
一定期間、対象とする地域で人の移動を制限したり、企業活動を禁じたりする措置をとること。明確な定義はなく、国によって措置の内容は異なるが、・・・
コトバンク
人の移動の制限を「禁止」せず、「制限を要請する」にとどめた場合の弊害の一つはこちら。
丸川珠代五輪担当相は10日の閣議後定例会見で、東京五輪閉幕翌日の9日に国際オリンピック委員会のバッハ会長が銀座を散策している姿が会員制交流サイト(SNS)などで投稿されたことについて「・・・不要不急であるかはご本人がしっかり判断すること」と述べるに留めた。
中日スポーツ
ボッタクリ男爵の銀ブラ。ケシからぬ行為だとは思います。だけど、ドイツ人であるバッハ氏からすれば、「絶対行ってはいけないなら、行政が『行ってはいけない』と禁止を命令するべき。「行かないでほしい」程度ならば、自由で独立した一個人は、自分の頭で考え、行くか行かないか判断すべき問題だ」 と言いたかったことでしょう。
おそらく、これが欧米をはじめとする海外の常識でしょう。だからこそ、欧米諸国は命令や罰則を伴う「ロックダウン」を選択したわけだし、多分それを知っている五輪担当相(というか外務省を含めた政府)としては、この場合はこんな情けないことしか言えない というのが正しい理解なんだと思います。「悔しかったら禁止を命令しろよ。」
これを「命令を出さないと聞かない欧米人と、要請で言うことを聞く日本人」と表現して、日本は「民度が高い」と評価した副総理がいたとか。が、これはあくまで生粋の支配階級の方が、”うちの国民は御しやすいんで”と海外の支配階級に自慢してるだけで、それって本当は「民度が低い」というべきなんだろうね。
麻生太郎副総理兼財務相の4日の参院財政金融委員会での「民度が違う」発言。新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、国民が外出自粛や休業など強制力や罰則のない「要請」に協力し、感染拡大抑制に効果を上げたことを「誇りに思わないといけない」というのが発言の趣旨だったが、
毎日新聞
弊害の2つ目は、「要請」に基づいて国民が自発的に動いた結果だから、行政が責任を取らなくてもよい点です(自発的な行動の結果なんだから、行政を相手に裁判にもかけられない)
このあたりは、難しくなるので、このあたりの記事を読んで考えてください。
ドイツで政策を見て痛感…日本政府が「法治主義」を軽視しすぎという大問題
コロナ対策で浮き彫りに
もともと日本の行政って、海外にも悪名高い「行政指導」・・・法律上従う義務はないが、申請者に行政が出す要請に自発的に従ってもらう魔法の手法・・・がよく使われる国だったんですね。国内では不思議とみんなよく聞いてくれるから、たまにいる聞いてくれない確信犯(会社精算済みの熱海の某盛土業者とか)には、どう指導したらいいかわからない・・・という。まあここまで腹くくって悪事働かれると、通常の行政では太刀打ちできないですが。
閑話休題。これと似た関係で問題にすべき事例があるな と終戦の日の今日、ふと思いました。
先の戦争で特攻に散った人々は全て志願者だったから、多大な犠牲を払った特攻作戦の結果が「無条件降伏と祖国の占領」という惨めなものであったとしても、軍隊や日本政府という巨大な官組織の中で、特攻作戦を実質的に命令、立案、指揮した人々は、誰一人として法的な責任を取らず戦後をのうのうと生きていけた ということを
搭乗員の生命は作戦の遂行のためにはあえて考慮しない、というのが方針であり、この2人が軍令部で顔を合わせたときに、体当たり攻撃の計画が持ち出されたであろうことは、いわば自然なことでさえあった。だが、いくら黒島参謀と源田参謀でも、このような兵器、作戦を公式に持ち出すことはできない。言葉としては「命をくれ、死んでくれ」とは言えても、本当に死ぬしかない任務を命ずることはできないのである。ただ、これにも抜け道はある。体当たりする兵士自身が志願すれば、これを認めることはできないことではない。
なぜ若者たちは特攻隊入りを“熱望”したのか…「いずれ死ぬ身なのだから」日本海軍が“非合理”な自爆攻撃を決行してしまったワケ
『日本海軍戦史 海戦からみた日露、日清、太平洋戦争』より #1
ここで言う「志願者」というのは、断れる雰囲気になかったとか、ほぼ命令だったとか、しょうがなかったとか、その実態はどうあれ、法的には「志願があった」という形式が整えられた ということです。
高級将校の中にも、自刃したり(死ねば免責とか甘すぎね?)、玉音放送後に部下を連れて特攻したり(大元帥の停戦命令に背くのは軍法に違反してるだろ?)、道義的責任をとった(ことになっている)人たちはいるけれど、部下を犬死させたとか、ろくな作戦が立てられない戦争をダラダラ続けたあげくの無条件降伏 の法的責任を取った人はいないんだよね。
かたやアメリカ海軍はどうだったか?
長いですが、以下の文書を読んでください。
日本海軍にとって、最後の組織的な艦隊戦闘は昭和20(1945)年4月の第二艦隊水上特攻であり、その後は艦艇同士の戦闘はなかったが、終戦間際に橋本以行艦長の指揮する伊号第58潜水艦が、米海軍の巡洋艦「インディアナポリス」を撃沈したのが最後の戦果となった。
乗員約1200名のうち約300名が沈没時に戦死し、残る約900名は8月2日まで哨戒機に発見されず、海上にボートも何もなく漂流していた。その後8月7日の救助完了までの間に多くが遭難し、結局300名程度が救助されたにすぎなかった。多くのアメリカ人がこの事件について海軍内部に責任者が存在し、処罰されなければならないと考え、生き残った艦長は軍法会議にかけられ有罪とされた。大戦中にアメリカ海軍が喪失した軍艦の艦長が軍法会議にかけられたケースは他にない。 *
この異例の裁判が引き起こされた最大の理由は、「将兵が死ななくてもよい場所で無駄に命を落としたのではないか?」ということにあった。この問題意識こそ、日米海軍、いや、日米両国の国家と軍隊と兵士の関係における最大の相違点だったのである。
アメリカの国民は、義務として兵役につき、戦争に参加している。同時にすべての兵士は国家に対して、生命の安全に関して最善の努力を払うことを要求する権利を持っている。もし1人の兵士が戦死すれば、その遺族はその兵士の死が“意義ある死”であったかどうか(すなわち、無意味な作戦や無能な指揮による死ではなかったか、また十分な生活と最善の兵器が与えられていたか)を知る権利を持っていた。それがアメリカという国家と国民の契約だったのである。
太平洋戦争における日本軍の反省を記した書籍や雑誌を見ると、個々の戦闘の戦術的巧拙についての評価、あるいは戦略的な総論に偏したもの、または日本人の国民性、というような茫漠としたものなどが多く、将兵の義務、責任、そして権利といったものについての考察は、ほとんどない。
しかし、軍隊の本体が人間の集団である以上、将兵の一人の人間としての権利と義務に基づく立場の確立こそ、精強な軍隊の第一歩であると考えるべきであり、日本軍についてもこの観点からの研究がさらに必要と思われる。
「1人で死ね!」玉音放送を聴いたにもかかわらず特攻機に乗り込んだ司令長官…見送る兵士たちの“悲痛すぎる叫び”
『日本海軍戦史 海戦からみた日露、日清、太平洋戦争』より #2
抜粋ですが、激しく同意です。 医学的な意味はわかりませんが、僕は「一人の人間としての権利と義務に基づく立場の確立」という意味で、緊急事態宣言(移動制限要請を含む)ではなく、法律の命令に基づくロックダウン(移動禁止命令の発令)を望む者です。
コロナ敗戦の結末が、先の大戦の二の舞にならないよう切に願うばかり。てか、二の舞になるんだろうなぁ。「反省だけなら猿でもできる」とは言うけれど、日本の組織は反省しないもんねえ。
*マニア的に言うと、「インディアナポリス」は重巡洋艦という艦種で、この艦種は潜水艦を攻撃する対潜兵器を積んでいないのです。その艦種を敵の潜水艦が出没する可能性のあるところへ単艦出撃(対潜ができる護衛の駆逐艦なしに一隻で航行させること)させる命令を艦長に出した奴が悪く、艦長は悪くないのに生贄の子羊にされたのです。 9月3日まで、これを映画にした「パシフィック・ウォー」がGYAOで無料鑑賞できるから、興味ある人は是非どうぞ。
1945年、太平洋戦争末期。アメリカ軍はマクベイ館長率いる重巡洋艦インディアナポリス号にある極秘任務を与える。それは最終兵器、原子爆弾の輸送であった。マクベイと兵士たちは、日本軍との激しい戦闘を掻い潜りながらなんとか目的地テニアン島にたどり着く。任務を終え安堵に包まれながら次の目的地へ出発するマクベイ一行。しかしその時、艦内に爆音が鳴り響く。橋本少佐率いる日本軍潜水艦の魚雷が艦に直撃したのだった……。