本能寺の変で織田信長が亡くなったとき、明智光秀をいち早く倒したのは備中高松城(現在の岡山県)を攻めていた羽柴秀吉だった。3万人を4日間で100キロも動かした「中国大返し」は、なぜ実現できたのか。
「道沿いにエイドステーションを完備していた」秀吉が中国大返しに成功した本当の理由
天下統一をほぼ手中にしていた織田信長が本能寺に倒れ、 紆余曲折の後にその後継者となったのは、当時織田軍の中国地方・方面軍団長であった豊臣秀吉でした。
明智光秀を討つ事で、主役に躍り出ました。 当時、大軍勢を率いていた方面軍団長は、秀吉以外にも各地にいたけど(北陸方面軍団長・柴田勝家や、関東方面軍団長・滝川一益、四国方面軍団長・丹羽長秀など)、なぜ遠方の中国地方にいた秀吉が一番乗りを果たせたのか。それが「中国大返し」の謎でした。
播田 安弘「日本史サイエンス (ブルーバックス)」*は、この中国大返しの可能性について、定量的に分析した本です。 そこでは、運動強度(秀吉軍の強行行軍)とエネルギー消費量の関係を求めるメッツ量を算出し、 そのメッツ量を「兵士に供給しなければいけない米量(おにぎり)」に換算するで、兵站面から、「大返しをするためには、事前に相当な準備が必要であった」という結論を得ています。 他にも当時の天候から、雨中での野営の困難さ等の指摘、海上輸送を使った可能性も指摘されています。なるほど。
が、歴史家ではないので、「なぜ秀吉が事前にその準備ができたのか」については、述べられていません。このような説があるよ と紹介はされていますけどね。
歴史家の間では、中国大返しの困難さを理由に、秀吉があらかじめ本能寺の変を予測して準備していたのではないか、ひいては秀吉が光秀に謀反をおこすように仕向けたのではないかという、いわゆる「秀吉黒幕説」も唱えられているようです。
うーん。個人的には、この説はあんまり納得できないんだよね。秀吉の上司(主君)である信長は、情報戦や謀略に長けた、そして猜疑心の強い独裁君主です。
秀吉はちょっと前に軍令違反を許されたばかりでしたし(北陸方面軍の応援を命じられたが、軍令に違反し独断で離脱した重罪もち。中国方面で大いに働き重罪の償いをしているところ)、信長は直前に目立った落ち度のなかった重臣「佐久間信盛」(秀吉より格上)を粛清してます。そんなタイミングで秀吉が「上司への反乱を予測し、その準備をしていた」とか「同僚に反乱をそそのかしていた」なんてことが信長に知れたら・・・((((;゚Д゚)))) ありえないだろ。
中国大返しの実現には、事前準備は必要だろうとは思いましたが、その理由が「反乱を予測していたから」というのは考えにくい。では?と思っていたのですが、標記記事の「織田信長の出陣準備をしてあったから」とする記事を読んで、なるほどね と思いました。てか、なんでいままで、それ気づかなかったんだろう?とも。以下、引き続き抜粋引用します。
私の専門とする「城郭考古学」は城の考古学的な調査・検討を中心に、文字史料や絵図資料も検討する学融合の方法で、城の総合的な理解を目指します。
城郭考古学の視点から中国大返しを考えるのに最初に注目したのは、兵庫県神戸市兵庫区にあった兵庫城でした。
「道沿いにエイドステーションを完備していた」秀吉が中国大返しに成功した本当の理由
「兵庫城」なんて、聞いたことないですけど・・・
詳しく観察すると、本来あった本丸の出入り口に加え、もうひとつの出入り口をつけ足していたのです。その結果、兵庫城の本丸は出入り口がふたつ並んだ姿になったのでした。
その改修工事を行ったのは、先述したように築城時期からそれほど時代が下らない天正期のことでした。なぜ、わざわざふたつの出入り口を並べるように改修したのでしょうか。
私はこの改修が兵庫城を高貴な人物が宿泊する施設「御座所」にするためで、兵庫城を御座所として入城するはずだった人物は、ずばり織田信長だったと考えています。
本来、城とは防御のためのもの。弱点になりますから、出入り口は必要最小限にとどめるのが鉄則でしょう。 その入口を2つ並べるなんて、特異な使い方をしない限り、確かにありえなさそうです。 その特異とは・・・
室町時代の幕府や管領邸などの高位の武士の館では、館の正面に将軍などの貴人が通るための特別な門「礼門」と、その他の武士たちが通った通用門のふたつの門が並び立ちました。「礼門」は通常は閉めていて、高貴な方をお迎えしたり、館の主が出入りしたりするときに開きました。それが「礼門」を通れる人の権威や身分を象徴したのです。
なるほどねえ。
信長に快適な出陣をしてもらうために、充実した宿泊・休憩・補給ができるポイントを設けることは、信長に出陣を要請した重臣たちにとって必須の業務でした。
まさにこのとき ではありませんが、その前年に、秀吉が配下の武将に、信長の御座所を準備するように と伝えた文書も残っているそうです。
そして、その時織田信長が京都本能寺にいたのは、中国地方への出陣の途中であり、信長を討った光秀も応援軍の先陣として自国領から中国地方に向かう途中だったんですよね。
信長本隊の前後には、光秀指揮下の畿内衆や信忠指揮下の尾張・美濃衆の大軍も進軍していました。信長軍の総数は数万人に達していたはずです。どの部隊も適切な宿泊・休憩・補給が必要でした。
「御座所」は一カ所つくればよいのではなく、信長の一日の行軍距離ごとに整えておく必要がありました。信長が大坂城を出て最前線の備中高松城の包囲陣へ到着するまでの間に、秀吉はいくつもの「御座所」を準備したのです。
兵庫城は、いくつかある御座所の一つであり、秀吉はそれらの御座所群を京都・大阪〜備中高松間に完成させていたとすれば、そして御座所が信長率いる軍団の補給ステーションの役割を果たしていた、とするなら、それを逆方向に使うこともできたわけで・・・
「御座所システム」の通信ネットワークがあって、もともと信長の動座を注視していたため、本能寺の変の情報を秀吉は誰よりも早く、正確に入手できました。光秀の使者が誤って秀吉の陣に密書を届けてしまったという伝説よりも、信長を迎えるために秀吉が構築した通信ネットワークが功を奏したと考える方が、リアリティがあるように思います。
さらに「御座所システム」は、秀吉の中国大返しそのものにも、大きな力を発揮しました。
備中高松城を後にして、わずか四日ほどで姫路までたどり着くには、街道が整備されていることはもちろん、宿泊・休憩・補給のエイドステーションが欠かせません。突然、三万人もの大軍が武器を持って飲まず食わずで陸路を高速移動しつづけるのはとても無理でした。
しかし秀吉にはすべてが揃っていたのです。信長を迎えるために整備した街道を通って駆け抜けられました。信長のためにつくった「御座所」がゆったりとした信長本隊の行軍速度に合わせた適度な間隔で街道沿いにあったので、秀吉軍の全員が快適に宿泊・休憩できました。
「御座所」には信長一行のおもてなし用に食料を集積していたので、秀吉軍の人も馬も十分な食事をとれました。「御座所システム」こそが、秀吉軍が高速で効率よく姫路まで戻ってこられた秘密の理由だったのです。
うん、説得力と根拠がある説だと思うけれど、どうだろう?
*「日本史サイエンス」は、蒙古襲来・秀吉の大返し・戦艦大和の謎に迫る の三部構成で、造船技師が書かれた、エンジニアが「数字」を駆使して謎に迫る、大変おもしろい本です。同書の戦艦大和の謎から「日本の軍艦の致命的な欠陥とは?」をこちらの記事に使わせてもらっています。よかったら御覧ください。