もし日本海軍が『米・アトランタ級防空巡洋艦』の対抗艦を建造したなら

という妄想を実体化してみました。

上、アトランタ級軽巡洋艦(米)・架空防空艦・酒匂(日)

アメリカ海軍の「アトランタ級軽巡洋艦」といえば、第二次大戦中の防空巡洋艦として有名な船です。 およそ6,000tの船体に、対空対水上戦に使える5インチ(12.7cm)両用砲を連装砲塔にして6基(12門)搭載していました。☆

他にも、40mmや20mm機銃を搭載し、対空能力に優れていた上に、魚雷戦の指揮艦としても使えるよう魚雷発射管を装備し、対潜水艦装備として爆雷投下軌条まで持っていたのです。

日本の軍艦で、アトランタ級軽巡洋艦のカウンターパートとなるのは、「阿賀野級軽巡洋艦」です。日本海軍の対アメリカ戦術である「艦隊決戦」に忠実な対水上戦闘特化艦のため、実戦では「時代遅れで使いづらい」という評価でした。

画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: %E7%9F%A2%E7%9F%A7-1024x237.jpg
阿賀野型経巡洋艦

船体はおよそ6,500t。対水上用15.2cm平射砲を連装砲塔にして3基(6門)、と魚雷発射管を載せていました。高角砲は8cm連装高角砲2基(4門)。

以下、架空戦記です。

1942年(昭和17年)6月、日本海軍はミッドウエー海戦で主力空母4隻を一気に失い、その時の戦訓で、空母を守る防空艦の必要性が叫ばれるようになりました。

当時建造の進んでいた阿賀野級軽巡洋艦ですが、最後の4番艦である「酒匂」の起工は開戦の影響もあり遅れていました。

その間に、酒匂をアトランタ級に匹敵するような防空艦に設計変更し直そうという計画が持ち上がりました。 船体と艦橋は既存の設計を流用すれば、新造より短期間で設計変更できるだろうと見込まれたわけです。

ただし、防空艦といえど対水上戦もできるよう魚雷設備は必要でしたし(防空駆逐艦秋月の事例)、対潜水艦設備も充実させてほしい(改造防空巡洋艦五十鈴の事例)・・・要するに、防空だけに偏るんじゃなく、いろいろ使える万能艦にしてほしい・・・ ようやく1942年11月佐世保工廠で起工。

まとまった兵器設計は以下の通り。

対水上戦闘用・・・ 10センチ連装高角砲6基(12門)、61センチ4連装魚雷発射管(予備魚雷含め魚雷8本)

口径わずか10cmの砲が、対水上戦闘で役に立つかな? 相手が駆逐艦ならなんとかできるかも。砲門数と速射ができるから、それ以上でも上部構造物に被害は与えられる? 魚雷もあるし、まあそれで頑張って!!

(日本軍駆逐艦)照月は(アメリカ軍駆逐艦)カッシングを主砲長10cm連装高角砲で破壊し、巡洋艦を含む7隻に160発を発射した。

第三次ソロモン海戦

対空戦闘用・・・10センチ連装高角砲6基(12門)、五式40mm連装機関砲2基(4門)六式25mm3連装機銃8基、単装機銃18基(合わせて42門)

機銃は3連装のほうが単装より有利だろ と思いがちですが、実際はそうでもなかったようです。単装を設置するなら、できるだけ防御鋼板とか考えてあげると良い感じです。

九六式二十五粍機銃の照準には、銃座についた機銃員が機銃の照準器を操作して敵航空機に狙いを付ける「銃側照準」と、別個に設けられた機銃射撃指揮装置を用い、3基から4基の二十五粍機銃を遠隔操作して敵航空機に火力を集中する「従動照準」が存在した。この従動照準方式は九五式射撃指揮装置によって行われた。
戦艦、巡洋艦、空母などの大型艦艇では従動射撃を行える装備を施したが、駆逐艦以下の小艦艇では銃側照準に頼るケースが多かった。単装機銃の照準器は環型照準器のみであるが、艦に向かって突入する敵機に対しては見越し角をつける必要が薄く、連装・三連装よりも旋回や俯仰の早い単装機銃は好まれた。ただし(単装は)銃架に防盾などは設けられず、戦闘時の損害は大きかった。

九六式二十五粍機銃

対潜水艦用・・・爆雷投下軌条2条、爆雷投射装置2基(爆雷56個)、8cm迫撃砲、レーダー+対戦爆弾搭載水上機(零式水偵11型甲)1機

史実として、レーダーを搭載した零式水偵(11型甲)や、磁気探知機を搭載した零式水偵(11型乙)を含む対潜哨戒・船団護衛水上機部隊がありました(第四五二海軍航空隊)。磁気探知機は、潜水している潜水艦も感知できました(1機あたりの索敵可能範囲は130m程度と極めて狭いため、編隊を組んで低空捜索)。

ただし、小型機である零式水偵では、磁気探知機を搭載すると、磁気に悪影響を及ぼす機銃や爆弾などの鉄製品は一切搭載することができなかったそうです。レーダー搭載機は、浮上している潜水艦なら探知でき、こちらは対潜爆弾も装備することができました。アンテナは胴体後部左右にE型のタブレットアンテナと、主翼右前縁に八木アンテナだそうです。 参考: 高木清次郎ほか「海軍水上機部隊」光人社NF文庫

当時はすでに日本に制空権がないので、軍艦に載せた鈍足の水上偵察機は、長駆洋上偵察という使い方はなかったでしょう。とすれば、対潜哨戒(攻撃)機として1機、レーダー搭載機を載せてみました。(軍艦模型には、飛行機が映えるんで!)載せるなら1機でも搭載レーダーの整備や爆弾搭載のため、飛行機の整備スペースが必要になるはず。まあ、呉式2号5型カタパルトで発艦できたか知らないけど・・・飛行機にはレーダーアンテナを表現してみました。

「8cm迫撃砲」ってあんまり聞いたことのない対潜兵器かもしれません。対潜兵器の主力である「爆雷」は、通常艦尾から落としたり(投下軌条)発射したり(投射装置)します。つまり、水上艦が前方に潜水艦を発見しても、潜水艦が艦尾にくる位置へ移動するまでは攻撃ができなかったのです。潜水艦は逃げる時間、攻撃する時間が持てます。

そこで、英国は1942年に「ヘッジホッグ」という前方投射装置を開発し米国もこれを装備するようになっていきます。日本は1944年末から「8cm迫撃砲」を前方投射装置として使ったのだけれど、残念ながら海防艦にしか装備せず、しかもその弾丸は「音響弾」だけ。脅しにしかならなかったのでした・・・

と、ともかく、模型では艦橋前に搭載しています。ここがこの装備の定位置のようです。

正直、日本海軍の対潜攻撃は、その攻撃戦法も技術も、英米と比べて非常に遅れていたんだけど、とりあえず模型の装備は頑張ってみた(笑)。

海軍も本砲を一部簡略化した上で三式八糎迫撃砲(さんしきはっせんちはくげきほう)の名称で制式採用し、横須賀海軍工廠で製造した。陸戦隊に配備した他、音響弾を発射する対潜威嚇用の兵器として海防艦などに装備した。

九七式曲射歩兵砲

ヘッジホッグの生みの親は、イギリス海軍本部 イギリス海軍省の小部門DMWD(多種兵器研究開発部)だった。科学者・海軍将校・退役軍人が中心の組織で、真剣な目的意識をもった奇人変人の集まりだった。
第一次世界大戦の対潜戦の分析結果に基づく、従来の対潜爆雷に替わる対潜攻撃兵装として開発・研究が始められた。

ヘッジホッグは、単純に海中投下するそれまでの対潜爆雷とは異なり、発射器より一度に24個の弾体を投射する、多弾散布型の前投式対潜兵器である。着水後沈下する弾体が1発でも水中目標に命中すると、その爆発に寄って生じた水中衝撃波によって残りの弾体も信管が作動し、投射した弾体全てが誘爆する。このため、通常の対潜爆雷に比べて1発当たりの炸薬量は小さくとも、目標となった潜水艦は投射した弾体の炸裂に包まれることになるため、それまでの対潜爆雷に比べて総合的な命中率が高く、対潜水艦戦の飛躍的な向上をもたらした。

ヘッジホッグ

主砲である10センチ連装高角砲6基は前後に3基ずつ配置し、94式高射装置も前後に2つ搭載することで、前後の砲塔群で別個の目標を射撃することができるようになっています。

ということで、工事にかかったのですが凝った作りのうえ、工廠は被災艦の修理と現役艦の改造が優先され、完成は遅れに遅れ、ようやく1944年(昭和19年) 11月末に竣工。巡洋艦として日本で最後に竣工です。(実際にそうでした)終戦まで残すところ、あと半年強。

竣工後は同時期に旗艦を失った第三十一戦隊の旗艦となります。第三十一戦隊は潜水艦を積極的に発見・攻撃するための対潜機動部隊でした。理由としては、本艦の対潜水艦装備が任務に適していると思われたこと、当時すでに日本近海の制空権はアメリカ軍に奪われており、対潜部隊とはいえ、強力な対空戦闘能力が必要とされたからでもあります。

とはいえ実態は深刻な燃料不足のため満足な訓練すらできない状態。昭和20年4月に、沖縄に特攻する戦艦大和以下の第二艦隊の対潜援護に出た以外は出撃の機会もなく、その後は日本海側に退避し終戦を迎えました。

(改造防空巡洋艦五十鈴、第三十一戦隊、第十一水雷戦隊の戦歴を参考)

長良型軽巡洋艦の2番艦。完成時は高速軽巡洋艦として水雷戦隊の旗艦に適した優秀な艦であり、1944年9月14日には防空巡洋艦として改装された。

五十鈴

第十一水雷戦隊 は1944年12月 阿賀野型軽巡酒匂を旗艦としたが、燃料不足のため満足な訓練もできなかった。 1945年(昭和20年)4月1日、第二艦隊に編入される。直後の坊ノ岬沖海戦で第二艦隊は主戦力を喪失する。5月下旬には日本海に回航され、舞鶴周辺で待機した。また第十一水雷戦隊と第三十一戦隊の艦艇で5月20日付で海上挺進部隊部隊が編成され、軽巡北上や駆逐艦に人間魚雷回天が搭載された。7月15日、十一水戦は解隊された。

水雷戦隊

第三十一戦隊は、豊後水道を通過する海上特攻隊を援護するため、呉鎮守府麾下の呉防備戦隊や応援部隊と共に対潜掃討を実施する(坊ノ岬沖海戦)。 以後は待機部隊として第11水雷戦隊司令官の指揮下に入った。
坊ノ岬沖海戦で主力艦艇を失った第二艦隊が4月20日付で解隊されると、第三十一戦隊は再び連合艦隊直属となった。
本土決戦準備が進められる中、同年5月20日に第三十一戦隊を基幹として海上挺進部隊の軍隊区分が設置され、本土決戦時の敵上陸船団攻撃任務に充てられることになった。しかし、燃料不足で行動は極めて制限されていた。同年7月15日には最後の水雷戦隊である第十一水雷戦隊(新造駆逐艦の練習部隊)が解隊されたため、第三十一戦隊は日本海軍で唯一、駆逐艦以上の艦艇多数を擁する水上戦部隊として終戦の日を迎えた。

第三十一戦隊

☆初期のアトランタ級では、5インチ連装砲を8基(16門)搭載していたんですけど、流石に積みすぎて復元性が悪かったのと、「近接する敵機対策にもっと機銃を積みたい」という要求から、中期以降の艦では、6基(12門)搭載に改められました。また、防空艦といいつつ、1,2番艦は日本の戦艦を含む艦隊との砲雷撃戦第三次ソロモン海戦)で傷つき沈没してます。

投稿者:

モト

元河川技術者、現在は里山保全の仕事をしているおっさんです。西尾市在住の本好き歴史オタク。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください