ごーまんかましてよかですか?
なぜ、老人は敬う(うやまう)べきなのでしょう?
ぶっちゃけ、相手が尊敬できる人間かどうかは、その性別や年齢とは無関係でしょう。 若くて尊敬できるひともいるし、年老いて唾棄すべき人間もいます。 逆もしかり。
そのうえで、老人一般を敬うという合理的理由ってなんだろ?例えば、老人は労る(いたわる)べき ということなら、よく分かるのですが・・・
敬う(うやまう) ・・・相手を尊んで、礼を尽くす。尊敬する。
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労る(いたわる) ・・・㋐弱い立場にある人などに同情の気持ちをもって親切に接する。気を配って大切に世話をする。㋑労をねぎらう。慰労する。
「敬老の日」を国民の休日と定めた、国民の祝日に関する法律によれば、敬老の日とは「 多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」とあります。
敬愛(けいあい)・・・尊敬し、親しみの心を持つこと
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親しみの心を持つ ・・・ねえ、うーん?
それはともかく僕としては「老人(全般)は多年にわたり社会につくしてきた」という命題自体、真だとは思えません。
もちろん、個人(特定の老人、例えば現・上皇)なら、そのとおり敬愛の念を抱くこともあるでしょう。しかし、老人全般とするなら・・・フィクションだろ・・・ま、「みんな長年、社会(憂き世)で生きて来られ、お疲れさま」とする労り㋑の念を持つあたりが妥当なところじゃないかと。これだと「敬老の日」じゃなくて「労老の日」。語呂悪いけどな😂。
仮に先の言葉が真だとしても、同じ論理で「若人はこれから多年にわたり社会につくす存在」と言えます。だとすると、ただ行為実施の順序に違いがあるだけで老若は同格じゃないかと。 そこに敬意の差があるとは思えないのですが。
と言うと、その順序が重要なのだという視点もあるでしょう。「後進は、この時代を築き上げた先達に常に敬意と感謝の気持ちを持つべきである」とかね。これならたしかに、「敬老」が意味を持ちます。
でもそれは「この時代を是と捉える」暗黙の前提がないと成り立たない議論ですよね。「この時代を否」と捉えている若人であれば、「老人共、俺たちにこんな時代を残しやがって」と感じ、とても敬老の意なんて持てないでしょう。 是と捉える若人は、敬老の意を持つのでしょうけど。
この時代を是と見るか、否と見るか の違いは、それぞれの人の根本的なものの見方の違いなので、議論しても相手の見方を納得の上変えさせられるようなものではないでしょう。そして、両者とも一定数が国民として存在しているはずです。
もっと砕けた言葉(極論)に言い換えると、「お父さん、お母さん、僕をこの素晴らしい世に産んでくれてありがとう」という人もいるでしょうし、「チキショウ彼奴ら、頼みもしないのに、俺をこの憂き世に生みやがって」という人もいるでしょう。ということです。両方有りえるだろうし、この見方を変えさせるのは、困難だよね☆
この考えが正しいものとすると、特定の見方(価値観というべきか?)で国民の祝日の意味付けがされているのは、あんまり良くないんじゃないかなと・・・ま、お題目はなんであれ、祝日はありがたいもの・・・ではあるけれど。
というようなことを、「敬老の日」に感じた違和感として、まとまっていないのだけれど、もやもやと考えていました。
☆見方を変えるのは困難 なはずなのですが、「人は社会を変えられないが、自分の社会の見方は変えられる、だから、後者のような見方の人が、前者のようなものの見方ができるようになれば、楽に生きられる」と解くのが「自己啓発本」です。 僕としては、本を一冊読んだくらいで変わらねーよ と馬鹿にしているのだけれど、ある程度本が売れるってことは、見方って簡単に変わるものなのかな?
ついでに脱線すると、「この時代を是と見るか、否と見るか」というような狭いフレームワーク思考に囚われて悩むのが駄目。そんな狭いフレーム思考から自由になれ というのが仏教思想というものだと、僕は認識しています。