昔、京都のドミトリーに泊まっていた時、外国人バックパッカーにこう聞かれたことがあります。
「同じ世界遺産の見どころなのに、なぜ寺院は拝観料を取って、神社は無料なのだ?」と。答えに窮しました。建造物や庭などの施設維持に予算が必要なのはどちらも同じですからね。
観光客の観点で言えば、金取る仏より、無料の神が好みですねえ。
が、京都ではないけれど、日吉大社は神だけど拝観料500円がかかります。まあ維持費負担はやむを得ないのですけど、一日何軒も回ると正直結構懐に響くんですよね~。
閑話休題。日吉大社です。
僕はずっと日吉大社を「ひえたいしゃ」と読んでいたんですが、正しくは「ひよしたいしゃ」だそうで(ガーン)。一応言い訳ですけど「かつては日吉社(ひえしゃ)と呼ばれていた」ということです・・・
日吉大社は二神を主神として祀っています。東本宮は比叡山の地主神である大山咋神を祀り、西本宮は大己貴神(大国主神)を祀っています。以降、二神の関係と日吉大社と比叡山の関係は以下の通りです。
西本宮の祭神・については、近江大津宮(大津京)遷都の翌年である天智天皇7年(668年)、大津京鎮護のため大和国大神神社の祭神である大物主神を大己貴神として勧請し、新たに西本宮を建てて祀ったという。これは大己貴神の別名である大国主神の和魂が大物主神であると日本神話に書かれているため、両神が同じ神とみなされたためである。
以降、元々の神である東本宮・大山咋神よりも、西本宮・大己貴神の方が上位とみなされるようになり、「大宮」と呼ばれた。
延暦7年(788年)、最澄が比叡山上に比叡山寺(後の延暦寺)一乗止観院(後の根本中堂)を建立し、比叡山の地主神を祀る日吉社を守護神として崇敬する。そして、延暦13年(794年)の平安京遷都により、日吉社は京の鬼門に当たることから、鬼門除け・災難除けの社として国から崇敬されるようになった。wiki
延暦寺が勢力を増してくると、やがて日吉社と神仏習合する動きが出て、日吉社の神は唐の天台宗の本山である天台山国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって山王権現と呼ばれるようになり、延暦寺では山王権現に対する信仰と天台宗の教えを結びつけて山王神道を説いていくようになる。
東本宮と西本宮を拝見したんですが、より興味深かった東本宮をとりあげます。東本宮はより古い時代の神社の面影を残しているように感じたからです。
こちら西本宮 楼門から拝殿を望む 楼門の正面に拝殿、その奥に本殿があります。
こちら東本宮 楼門右脇から撮影しました
西本宮と同様、楼門の正面に拝殿、その奥に本殿があるのは変わりませんが、主神(東本宮)への参拝道(黄色矢印)を横切るような形で脇神(樹下宮)の本殿(左)と拝殿(右)が配置されています。
格下神の本殿と拝殿を結ぶ線が、格上神の参拝道を横切る(動線が交差する)ような配置は、格上に失礼じゃないかと。 樹下宮の神は東本宮の神の妻だそうですが、それでも少し土地を開削して、動線が交差しないよう配置するのが普通だと思うんだけど。
建設当時に何があったのか、どうして移設工事をしなかったのか、なぜなんでしょう。
また、西本宮と違い、東本宮拝殿の立つ前後で地盤の高さがずいぶん変わっています。これは元地盤をそのまま生かしたのでしょうけど、そのため拝殿に上がるには、かなり急な階段を登らないといけません。・・ 拝殿の位置を後ろにずらして建てたなら、拝殿に上がりやすい(参拝しやすい)と思うんだけど。
それができないのは、東本宮の本殿(大山咋神)の後ろに、もう一つ社があるから。大物忌神社です。この神社は日吉大社の摂社で、大山咋神の父神である「大年神」を祀っているそうです。
うーん、本来、この大物忌神社のある一番奥まったところに、主神大山咋神のいる本殿を位置させ、現本殿の位置に拝殿を置き、本殿と拝殿の参拝道に平行して左に大物忌神社、右に樹下宮の本殿・拝殿を配置させれば、おさまりがよいように思うんだけど、なぜこんな変な配置になっているのでしょう?
そういえば、日吉神社と言えば、猿 ですよね。 境内には神馬舎(馬はハリボテ)と並び神猿舎があり、おサルさんが飼われていますし(神の使い「神猿(まさる)」と呼ばれる)、パンフレットにも 魔が去る、何よりも勝る として縁起の良いものとされてきた と記載があります。
他にも 日吉丸・サルという連想イメージもありますね。 ってことで、日吉神社と猿とは切っても切れない関係なのですが、 なぜ 日吉神社と猿 なのか・・・はよくわかりませんでした。
ただですね、大物忌神社の解説文によると、祭神である「大年神」は、サルの顔をしていたそうですよ。
年神(としがみ、歳神とも)、大年神(おおとしのかみ)は、日本神話、神道の神である。
wiki
『日本書紀』には年神は現れない。『日本書紀』は天皇の即位年を太歳の干支で示すが、太歳は中国で考えられた架空の天体であって年神とは異なる。
大年神は他に多くの神の父及び祖父とされる。
年神は家を守ってくれる祖先の霊、祖霊として祀られている地方もある。農作を守護する神と家を守護する祖霊が同一視されたため、また、田の神も祖霊も山から降りてくるとされていたため(山の神も参照)である。
祖霊神で、山から下りてくる神 というイメージも、猿につながるものがありますね。
ひょっとして、大物忌神社が、東本宮の旧本宮だったとか、元神だったとか、そんなことでもあったのかなあ・・・と。
日吉神社の一番古い形は、山そのもの(パンフでは 八王子山にある「金大巌」という岩がこの神社の始まりの場所 と。)だから、山(本尊)はそのまま拝んで、山から下りてくる猿(神の使い)を大年神として社をつくって祀ってた。やがて神(山)そのもの=大山咋神も社に祀ることになったけど、猿神の社を動かせず、主神の本殿と拝殿の位置は今の位置にせざるを得なかった。そのうち何らかの理由で格下神も祀ることになったけど、場所がなくてその本殿と拝殿は変則的に配置するしかなかった・・・とか。
まあ、僕の妄想なんですけど。 ちょっと面白いかな~って。
金大巌(を祀る三宮と牛尾宮)の崇拝所
その他
何の変哲もないコンクリート製の建物ですが、実はこれ神輿収蔵庫です。湿気を帯びるので拝観はできないそうですが、 日吉神社の神輿といえば、歴史的に有名なんで、残念。
時は平安時代後期、 時の絶対権力者である白河法皇に「あれにはかなわん」と言わしめたのが、日吉大社の神輿を担いて御所に強訴に来る延暦寺の僧兵(弁慶みたいな)どもだったのです。
「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」
水害や運が人に思うようにできないのは当然ですが、それと並び、強大な武力と神威の象徴である神輿のタッグに、中世の政治家(代表たる法皇)はかなわなかったのです。
嘉保2年(1095年)10月、延暦寺の大衆と日吉社の神人が初めて日吉社の神輿を担ぎ出して(神輿振り)、小競り合いで誤って僧を殺してしまった美濃守源義綱を流罪にさせようと要求するため、義綱の主である関白藤原師通がいる都に向け強訴を行なった。朝廷はこれを防ごうと源義綱と源頼治を出陣させて防衛にあたらせたが、その際に神輿に矢が刺さる事件が起きている。延暦寺・日吉社側は死傷者が出てついに強訴を中止して撤退した。しかし、その後延暦寺が藤原師通を呪詛し、承徳3年(1099年)6月に師通が亡くなると、延暦寺はそれを日吉社の神輿の神威であると喧伝したため、朝廷にとっては日吉社の神輿は畏怖の対象ともなっていった。
これ以降、延暦寺および日吉社は度々この神輿を使っての神輿振り・強訴を繰り返し行い、平安時代から室町時代にかけての370余年の間に40数回も行われている。『平家物語』の巻一には、白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と嘆いたという逸話があるなど、絶大な権力を有する天皇ですら制御できない存在となっていた。
その中世的権威(神威)を否定したのが、織田信長の比叡山焼き討ちです。
日吉大社の境内には大宮川が流れており、川にかかる三つの石橋は、まとめて重要文化財になっています。これは一番立派な大宮橋です。
今の基準から考えると河川阻害率が大きすぎるため(洪水の時、橋構造物が流れの邪魔になりすぎる)、この形での架設許可はおりませんが(笑)。