いやあ、久しぶりに本を一気呵成に読みました。 学生時代(若いころ)は、そういう経験は結構あったのですけど、おっさんになるとなかなかそこまで「頑張って読んじゃう」本ってないですね。
この本は 先ごろ亡くなった立花隆の評伝で、僕が立花隆のファンだから良書だった という理由が多分に影響しているんですが。以下しばらく書評ではなく、一読者としての僕の立花史観です。
立花隆という人の評価は、一時期「知の巨人」ともてはやされたけれど(実際すごい人)、でも晩年はニューサイエンス系に走っちゃった、ちょっとヤバめの人 という印象じゃないでしょうか。
ただまあ、彼はもともと神秘系・ニューサイエンス系の話が好きな人で、でもその奥底の自分の感覚は押し殺し、冷静な筆遣いで、ノンフィクション作家として事実を淡々と記述していった人。だけど、ところどころに抑えきれない感情が漏れてしまう と感じていました。 言い換えると 一見論理的、合理的に動いているように見えるし、本人もそのようにふるまおうとしているけど、その本質は感覚的・本能的に動いてしまう人。
読者として一番それを感じたのは、「宇宙からの帰還」と「精神と物質」という二冊の本の間に感じた落差です。 インタビューに前者は「Yes!と興奮して書いている」のが分かるけれど、後者では「え・・・No・・・と困惑しながら書いている」という強い印象を受けました。筆ののりが全然違うから。
宇宙から地球を眺め、それを境にものごとの捉え方・感じ方が変わった、アメリカの宇宙飛行士にインタビューを行ったものを纏めた「宇宙からの帰還」。冷静にインタビューをまとめているのだけれど、精神的な質問の際に、著者の力がこもっているのが分かります。
一方、ノーベル生理学賞を受賞した利根川進との対談集(「精神と物質」)で、「精神現象が物質的原因にすべて還元できるか」という問いに対し、明確にYesと答える利根川と、それに抵抗を示す著者の困惑感。
実は先ほど書いた「一見論理的に動いているように見えるし、本人もそのようにふるまおうとしているけど、その本質は感覚的・本能的に動いてしまう人」というのは、僕が自分自身をそのように認識している言葉 です。つまり、僕は立花さんのそういった部分と「近いものの見方」を持ち、共感していたのかもしれません。・・・「田中角栄研究」とかの分野は全く興味がなく未読ですが。
そもそも、彼の初期の著書である「思考の技術・エコロジー的発想のすすめ」と「文明の逆説」という本は僕に多大な影響を与え、この二冊が、のちに僕が数理生態学を学んだ理由の一つになってたりします。・・・ああ、これじゃファンじゃなく信者じゃねーか。
まあ、そんな信者としての僕の目から見て、武田徹さんのこの本は、自分が立花隆という人に感じていた感覚と共感できる部分が八割、「そうなんだ、知らなかった」と感じた部分が二割、 僕にとって「パレートの法則」に乗っ取った良本だったということでしょう。なによりこの本を読了後、立花隆の本を再読してみよう。武田徹の他の本も読んでみよう と夜中にアマゾンで何冊かポチらせた力量を持ってた(笑)。
書評としては身もふたもないですね。もう少し書いてみると「著書を読み解き、立花隆という人はどんなことを考えていたのか、(僕にとっては)抑えるべきところがしっかり押さえてあったし、それがどの本のどんな記述から、武田さんがそのように解釈したのか がしっかり書かれ検証が容易ところ」 が良だと思います。これはノンフィクションの基本 でしょうけど、きちんとやるには大変な労力が必要でしょう。
以下、武田さんご自身が書かれた紹介記事です。
『田中角栄研究』『宇宙からの帰還』『脳死』など、ジャーナリストとして膨大な著作を残した「知の巨人」こと立花隆は、なぜ晩年、あえて非科学的な領域に踏み込み、批判を浴びたのか……。
「立花隆は苦手だった」…それでも「知の巨人」を描く決心をしたのはなぜだったのか? 武田 徹(ジャーナリスト、専修大学教授)
立花と同じくジャーナリストを名乗り、教員として大学で教え、科学技術論やジャーナリズム論など、近い分野で仕事をしてきた武田徹が「苦手だった」と語る理由とは何だったのか?
その「苦手だった」立花に接触を試み、それから間もなく訃報を受けた無念から、立花隆というジャーナリストに向き合って描きだした渾身のルポルタージュ『神と人と言葉と 評伝・立花隆』(中央公論新社)の「まえがき」より一部抜粋。
あと僕自身が考える立花隆の思考の特徴として、ラブロックのガイア仮説にはまったように、本質的に「世の中をできるだけ少数の、できれば一つの統一したものの見方で総覧したい」という気質があるように思います。別にそれ自体は珍しいことではなく、「世界システム論」とか「統一場理論」とかそういう考え方はいろいろあります、なによりすっきり見え大いなる魅力です(僕もその魅力に取りつかれてる)。 でも「統一したものの見方」は取りこぼしたもの(例外や見落とし)も多く、そこを突かれると科学的には弱いよ~。