最善を願い、最悪の事態に備えよ

今日は3月11日。あの日から10年目になりますね・・・。

近年、大震災、原発事故、水害、そしてコロナウイルスの蔓延と災害が続き、危機管理対応の巧拙を問われることが多くなりました。 その危機管理の鉄則の一つとして、この言葉を聞いたこともあるのでは?

元は英語の諺(ことわざ)で、ローマの哲学者・政治家セネカの言葉と言われています。

Hope for the best and prepare for the worst.

まず、セネカって誰よ。

ルキウス・アンナエウス・セネカ(ラテン語: Lucius Annaeus Seneca、紀元前1年頃 – 65年 4月)は、ユリウス・クラウディウス朝時代(紀元前27年 – 紀元後68年)のローマ帝国の政治家、哲学者、詩人。

父親の大セネカ(マルクス・アンナエウス・セネカ)と区別するため小セネカ(Seneca minor)とも呼ばれる。第5代ローマ皇帝ネロの幼少期の家庭教師としても知られ、また治世初期にはブレーンとして支えた。ストア派哲学者としても著名で、多くの悲劇・著作を記し、ラテン文学の白銀期を代表する人物と位置付けられる。

ルキウス・アンナエウス・セネカ (Wikipedia)

悪逆で知られる、ローマ皇帝ネロの先生で、ストア学派の哲学者として有名な人ですね。岩波文庫でも数冊の哲学書が出てます。

ところで、主題の言葉は本当に「セネカの言葉」なんでしょうか? もし本当にセネカがこの通りの表現を使ったとすれば、ローマ帝国の言葉である「ラテン語」で表されます。ラテン語は諺(motto)の表現に適した言葉であり、ましてセネカは名文家なので、その場合、この表現はラテン語表記として現代に伝えられていると思うんです。

例えば、「より速く(Citius)、より高く(Altius)、より強く(Fortius)」というオリンピックのモットーが、ラテン語で簡潔に表されているように。まあこれは後世の作ですが。

実際には、セネカは何かの文章の中でこれに類した(長い)言葉を残しており、それが後世の誰かによって「英語の」諺としてうまくまとめられたのではないでしょうか?

と言うことで、少し調べてみたですよ。

確定はできなかったけど、たぶん、セネカが似たような表現の言葉を発していたのは事実で、それを後世の英国人がこの英語表現にまとめた と言うのが真実に近いんじゃないでしょうか。 

※日本にも似たような話があります。有名な「天災は忘れた頃にやってくる」という言葉、寺田寅彦の言葉とされることが多いのですが、本人はそのような言葉を記してはいません。弟子の中谷宇吉郎が「「天災と国防」で全く同じことが、少しちがった表現で出ている。・・・これは、先生がペンを使わないで書かれた文字であるともいえる。」と書いていますが、そんな感じじゃないでしょうか。:「天災は忘れた頃来る」中谷宇吉郎随筆集より

閑話休題。セネカの「道徳書簡集」

①Justin Owingsの記事

以下の英文の最後に、それらしい言葉があります。英語なんで前段を含め 僕の下手な訳を載せましたが、肝心の前段部「…」がよくわからん。誰かお願い!

I’m not positive, but it seems to me that Seneca originated the idiom to “Hope for the best and prepare for the worst” (See the quoted bit below).

The Letters are a quick read at only around 230 pages. If you are interested in some ancient wisdom from a Roman philosopher, you would likely enjoy this book. Below are some passages I particularly enjoyed from the book.
・・・
“Well, I don’t know what’s going to happen; but I do know what’s capable of happening . . . I’m ready for everything.If I’m let off in any way,I’m pleased. . . . for just as I know that anything is capable of happening so also do I know that it’s not bound to happen. So I look for the best and am prepared for the opposite.”

Justin Owings Letters from a Stoic by Lucius Seneca

僕はあまり肯定的じゃないんだけど、セネカが“Hope for the best and prepare for the worst”という言葉を産み出したと言われていますね。(その引用は少し下を見てよ)

手紙(「道徳書簡集 (Letters from a Stoic)」と呼ばれる本)はほんの230ページくらいだから、簡単に読めるよ。ローマの哲学者からの古代の英知に興味があるなら、楽しめるでしょう。以下は僕が本で特に気に入った数節だよ。

いくつかの節は略

この先どうなるかは分からない。しかし、何が起こり得るかは知っている。そしてすべての準備ができている。「何らかの形で許されるなら、うれしいのだが。というのは、私は何かが起こり得るかを知っているのと同様、何も起こらないかもしれないことも知っているから。」だから私は最善のものを求め、反対(最悪)の準備をしている。

②中野孝次さんの本

「道徳書簡集」は茂手木元蔵さんの訳で出版されてたんですけど今は絶版。amazon古本だと15000円だそうです!西尾市立図書館にはありませんでした。代わりに、中野孝次さんの本「ローマの哲人セネカの言葉」「セネカ現代人への手紙」を借りてきて調べてみました。この本は、ドイツで出版されたセネカの「道徳書簡集※」から抜粋した文章を紹介してくれています。  探している言葉そのものは見つかりませんでしたが、似たような言葉はありました。

※中野さんは「道徳についてのルキリウスへの手紙」と訳しています。より正確な訳だとは思うけど、「道徳書簡集」と一緒なのか違うのか、素人にはいろいろ紛らわしいな

・それ故に、どんなことでもあらかじめ予期していなかったことかが我々に起こってはならないのだ。あらゆる可能性に対して我々は予知能力を働かせておかなければならない。どんなことが起こりやすいかでなく、およそ起こりうることは何でも考えておかねばならない。なぜなら、運命がひとたびその気になったとき、繁栄のまつ盛りからでも塵へと引きずりおろさなかったものがあるか?

・内戦も外戦も凌いできた帝国が、なんの衝突もないのに崩壊する。幸運を持ちこたえた国家のなんと僅かなことか。だからこそ人はあらゆることを考慮に入れ、起こりうるあらゆることに対して心を鍛えておかねばならないのだ。

<手紙91>ルグドーヌムの大火から 「セネカ 現代人への手紙」

この辺りの表現から、後半部の「最悪を想定し備えよ」という表現は感じられます。

次に、英語表現について

Hope for the best and prepare (or plan) for the worst

Meaning:Be optimistic but also be prepared for all possibilities.

Background:Around 46 BC, Cicero wrote to a friend saying, “you must hope for the best”; but the first known use of the full expression is in The Tragedie of Gorbuduc by Thomas Norton and Thomas Sackville (1561) which was performed by the Gentlemen of the Inner Temple before Queen Elizabeth I in 1562.

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紀元前46年頃、キケロは友人に「あなたは最高のものを望まなければならない」と書いた。しかし、完全な表現として最初に知られた用法は、1562年にエリザベス1世隣席のもと法曹院で演じられた、トーマス・ノートンとトーマス・サックビルによるゴーボダックの悲劇(1561)にある。

セネカが出てこず、キケロに前半部と似たような言葉があるよとな・・・。そこはまあさておき、英語表現の初出は1561の「ゴーボダックの悲劇」という戯曲じゃないかって。そこまでは追いきれないけれど・・・

まあ、こんな感じのようです。何か知ってる方がいらっしゃったら、ぜひ教えてください。

ちなみに、”Hope for the best,prepare for the worst”をラテン語に翻訳すると”Sperare optima,Parare pessima”という感じになるようです。まあ上記の通り、そのようなLatin mottoは歴史上存在しないのだけれど、なんかそれっぽいですよね。

引用:Latin translation of “hope for the best, prepare for the worst”

堤防構築の作用・副作用(「矢作古川二重堤之跡」石碑)

西尾市今川町の田園地帯の中に、ひっそりと「矢作古川二重堤之跡」という石碑が建っています。

Google航空写真で赤丸をつけた場所に建っています。しかし矢作古川まで、直線距離でも500m以上離れています。これはいったい何でしょう?

上の航空写真の右上から下中央にかけて「矢作古川」「広田川」「須美川」という3本の川が流れているのが分かると思います。矢作古川は大河川で大量の土砂を含んだ水が流れています。(大量の土砂が河床に堆積し、洪水が発生しやすい)広田川は中河川で、菱池という池を水源とする川(前に記事でも取り上げました)。須美川は小河川ですが、やはり大量の土砂を含んだ水が流れています。規模と特性の違う川が合流してくるこの辺りは、洪水の常襲地帯だったのです。

この地を治めていたのは、西尾藩(土井氏)と旗本(吉良氏)です。吉良氏の領地は写真右下の小山より南側であり、他は西尾藩領でした。 少し広域の地形図を表示します。〇に×印で示したところが、石碑の位置です。

黄色のハッチが掛かっているのが吉良領です。ちなみにピンク色の着色は、当時の主要街道(吉良道と平坂街道)です。

吉良領から主要街道が北方の西尾藩領に抜ける場所(①の場所)は、二つの丘陵に囲まれた窪地になっていました。実はこれ、須美川の旧河道です。そのため土地が低く、この辺りで洪水が発生すると、水がここから吉良領に流れ込んだのです。

洪水のたびに難儀を被っていた吉良領の人々は「丘陵の間を締め切ってくれ〜」と思っていました。一方、西尾藩領の人たち(と藩主土井氏)は、洪水が吉良領の方に行ってくれるから「吉良領の人たちには悪いけど、水があっちに行ってくれたので、川西のうちらは助かった。」という状態でした。

この状態が、1686年に動きます。ついに①の場所に堤防が築かれたのです(地元ではこの堤防を「黄金堤」という)。西尾藩土井氏との困難な交渉をまとめたのが、時の吉良家当主・上野介義央。そう、忠臣蔵で有名なアノ人です。

吉良氏は4500石の旗本。土井氏は23000石の大名で交渉は土井氏側有利・・・のハズですが、義央は時の将軍綱吉お気に入りの「出来る子」でしたし、高家筆頭という仕事もしていたので、土井氏側も折れざるを得なかったのでしょう。

それでも、西尾藩側は「堤防工事は一昼夜だけ」「堤防が壊れたら直しちゃダメ」と最大限自領を守るべく条件を付けるんですが(どこまでが事実かは分かりませんけど)、悲願がかなう吉良領の人々は張り切り、すぐに立派な堤防ができちゃいました!

となると、困ったのが西尾藩領の人々。これまで吉良領側へ溢れてたはずの水が、自分たちの方に流れて来るわけですから。

 そこでとられた対策は主に二つ。一つは、吉良領との境にある花蔵寺村です。ここは村を丸ごと囲う「輪中」堤防を築きました。上の地形図で②と書いてある場所です。(詳しくは以前に記事にしたのでそちらでどうぞ。)

もう一つが、「矢作古川の二重堤防」です。矢作古川の西側(右岸側)にはもちろん既設の堤防があったんですけど、その奥にもう一つの堤防を築いたのです。(上の地形図で③と書かれた箇所。)結果として、小焼野・宅野島の集落を含む水田地帯を、実質遊水地にしたんですな。

でも、なぜ既設の堤防の強化を行わず、二重堤防という、集落を犠牲にするような手法を取ったのでしょうか?

この辺りは歴史の本を読んでも書かれていないので、僕の推察ですが、たぶん二つの理由があったんだと思います。

1.ここ(遊水地)で洪水を食い止めないと、下流も低地なので、超大規模洪水になってしまう。

 下のデジタル標高図をご覧ください。いま話をしているのは、赤丸で囲ったあたりなんですけど、矢作古川西側の地(西尾藩領)はここから海に向かってどんどん標高が低くなっていきます。万一赤丸部分で洪水を止められなければ、下流一面水浸しになってしまいます。それだけは避けたかったのでしょう。

もちろん既設の堤防の強化も考えたんでしょうけど、その堤防が切れたら終わりです(まだコンクリートとか重機もない時代ですし)。それより、堤防を二重化し遊水地化することで、より確実に下流を守るという判断をしたのではないかと思います。

2.既設の堤防が再利用できた

二重堤防は、総延長3.3kmと言われています。大堤防を新築で造る大工事なら、2万石クラス大名では過分の負担ですから、必ず記録が残っているはずです。それが市史においても「建造年度不明」。ってことは、大規模な工事ではなかったのかもしれないなぁ。

おそらく二重堤防を「新たに築いた」のではなく、1646年に廃川にした弓取川の旧堤防や微地形を巧みに利用した比較的小規模な突貫工事だったからではないかと・・

弓取川というのは、古来矢作川の本流だったといわれるような大川でした。新田開発のため埋め立てられましたが、廃川後40年程度の1686年頃なら、堤防跡が残っていたのではないでしょうか。「小焼野で矢作古川から分岐し、今川と細池の間を流れていた」ということですから上記地形図の位置とほぼ一致しますし。

遊水地化した二重堤防内の集落ですが、おそらく弓取川なり矢作古川に面した集落として発生したと考えられるため、小焼野の集落は矢作古川の堤防裏。宅野島は「島」とつくような微高地に立地し、集落はある程度水害からも守られていたのではないかと考えられます。そのため二重堤防は長く残され、石碑によれば1933年、ようやくお役御免で平らに均されたそうです。

平らに均された現代の僕らから見ると、「なんでこんなところに二重堤が?」と見えちゃうんですけどね。

石碑裏の解説文