江戸時代の藩経営から、災害リスクの低減策って考えられる?

昨日(3月11日)は東日本大震災から8年目でしたね・・・

当時僕は横浜で大学院生をしてました。 

2011年の3月11日は、金曜日で春休みでした。「今日は学校(研究室)サボって昼寝でもするべぇ」 と昼寝していて(いいご身分ですね〜)跳び起きました。

時間がある身分だったので、その後2回ほど、石巻に津波の泥片付け作業にボランティアで行きました。 その時のイメージは、今でもテレビで視聴することができるんですが、実際は泥の腐ったような 臭いが漂ってたことを、今でも思い出します。

さてさて「東日本大震災」クラスの災害となると、東北の中だけでの助け合いではもちろん人手が足りず、ボランティアや災害復旧で、全国的に人手が必要になります。  

じゃあ、今後、発生が予測される「南海トラフ地震」のような場合、応援の人手はどこに頼めばいいんでしょう? 被害は全国的なんですよね・・・

南海トラフ巨大地震の震度分布 気象庁
(強震動生成域を陸側寄りに設定した場合) 

それでも、震度が大きいのは中部〜九州の太平洋側で、比較的日本海側は震度が小さいようです。 だから、太平洋側の都市は、今のうちに日本海側の同規模の都市と災害時の協定を結んでおいて、いざと言うときはお互いに助け合う体制にしておくといいと思うんですよね。

まあ、南海トラフだけが災害じゃないので、太平洋側と日本海側だけでなく、東日本と西日本と言うような結びつきも大事になるかもしれませんね。いずれにせよ大事なのは分散化。でもそんな結びつき、どうやって探すんだよ〜?

これは思いつきなんですけど、江戸時代に治めていた大名や旗本の本領と、飛び地領に縁がある市町村同士が結んだらいいと思うんですよね。そういう都市同士は、すでに友好都市提携を結んでいるところも多いでしょうし、歴史や文化的にも共通点があるので、平常時から交流しておくことも容易でしょう。

江戸時代の大名って、本領以外に「飛び地領」を持っていることが意外に多かったようです。

桑名藩は柏崎に5万石ほどの領地(飛び地)を持っていた 彦根藩は現在の世田谷区豪徳寺付近に領地の飛び地があり 藤堂高虎も今治藩から津藩に転封になった際に、今治は飛び地としてしばらく領有をしていた

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14131928854?__ysp=5aSn5ZCNIOmjm%2BOBs%2BWcsCDpoJjlnLA%3D

岡山県内には古河藩(現・茨城県内)、挙母藩(愛知県内)、亀山藩(京都府内)などずい分遠くからの飛び地がありました

1 京都守護職、京都守護代、大坂城代などになると京都での生活維持のため近畿地方に飛び地を貰うことがあったようです。
2 知行高あわせ
3 実高が少ないところを元々知行地に宛がっていた大名に対して一部実高が高いところと交換した。
4 縁故の地
5 その他

https://oshiete.goo.ne.jp/qa/2850917.html

飛び地を持つ理由は上記の通りなんだけど、あげられていない視点として 「藩で大規模な災害とか飢饉が起きて本領が大規模なダメージを被った場合、飛び地領がそのバックアップ的な役割を果たした」可能性があるんじゃないか と思ったんです。

まあこれは飛び地領がある結果として・・・かもしれないけど、江戸幕府のエライさんは いろんなことを考えて政治を行っていましたから、あるいは災害対策も頭の隅に置いて各大名の飛び地領を配置したかも、よ?

そもそも、江戸時代の「藩」って、今の都道府県や市町村より独立性が高くて、基本藩内で起きたことはすべて藩内で処理するんです。 そのうえ いまよりインフラ整備は整っていないし、気象予測も化学肥料もないですから、大規模災害や飢饉が発生する確率は、確実に今より高かったはず。

すると例えば、西日本の本領で大規模災害が起こっても、東日本に飛び地領があって、そちらはほとんど被害を被らなかったので、そちらから必要物資を本領に運んだ とか、東日本の領地は冷害で米が不作で飢饉になったが、西日本の本領から米を運んで大事には至らなかった とかそんな事例やノウハウ(運送とか貸し借り清算法とか?)が蓄積されていたという可能性はあり得そう。  

一見、領地があちこちに分散していると、統治費用も余計に掛かるし、年貢の運賃とか代官(家臣)の派遣とか領地経営には非効率的に見えます。が、リスク分散の考え方からすると、この無駄(冗長性)がリスク低減に繋がるという考え方も、現在の企業経営では支持されつつあります。

参考記事 (2019 SECURITY SHOWのHP)

災害対策としてリスク分散が重視されるようになったのはなぜですか。

 東日本大震災では、想定を超える津波被害や地盤の液状化、サプライチェーン(供給網)の寸断、原子力発電所の事故や電力不足などが広範囲かつ複合的に発生しました。自社が直接的に被災しなくても生産や販売に支障をきたすケースが相次いだのです。

 そこで浮上してきたのが「リスク分散」の考え方です。事業拠点や取引先を集中させた方が効率的との考え方が主流でしたが、当該地域で災害が起こると経営への打撃は甚大です。複数地域に分散させれば、目先のコストは増えますが、災害時も事業を継続でき、長い目でみると株主の利益にもつながる、との発想です。

減らせ災害リスク、分散進める企業、コストより非常時の事業継続を重視。[ 2011年7月3日 / 日経ヴェリタス ]

といいつつ藩経営の事例は知らないのですけど、分散された領地を有効に使い、二次被害を軽減させた という事象は、当然あったと思うんですよね。 それを現在の市町村経営のリスク管理策として復活させたらいいんじゃないか と。


例えば、西尾市は、福井県の越前町、岐阜県の恵那市と災害時相互応援協定を結んでいます。これらの都市は、「西尾藩3万7千石の飛び領地だった旧朝日町」あるいは「西尾最後の領主だった大給松平氏の一族が世襲した岩村藩のあった旧岩村町」がもとになっています。これが元ネタですね(笑)。



松江城天守の柱が、寄木細工でできているのはなんで?

あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。 休み中に友達から、標題のような質問を頂きました。僕は歴史マニアかつ城マニア、さらに建築大好きなので「いい質問ですねー」。類は友を呼ぶのか、超マニアックな会話ができてうれしいっす(笑)。

寄木柱って、こんなヤツです。

写真を見て分かるように、この柱は複数の厚い板を「かすがい」という金属製のデカいホチキスで束ねた、「集成材」の柱です。中央に心柱が入っているのですが、本来この規模の柱には使えない小さい材料を有効利用しています。寄木柱については、山陰中央新報 輝く現存最古の寄木柱 が詳しいです。


材料の出所が分かっている他の城の例として、名古屋城を挙げます。名古屋城天守は史上最大級の大きさを誇るため、建築資材もビックです。最大の柱は41cm角。その他の柱も37㎝角。しかもひび割れ防止に樹心を避けて製材しており、天守建造には直径1m以上の巨木を何百本も伐採する必要があったとのことです。    新人物往来社「日本の名城 城絵図を読む」

名古屋城天守の柱であるヒノキ材は、長野県の木曽谷で伐採されたものです。名古屋城は尾張徳川家の居城。一般には尾張一国が領地として認識されているんですが、実は木材の宝庫である木曽も尾張家の領地(飛び地)だったのです。建築資材として、エネルギー源として、当時材木は貴重な戦略物資だったから、徳川家としてそれを押さえる必要があったのです。

ともかく、木曽の山中で伐採された木は川に落とされ、木曽川の上流域で集められ、筏を組み、はるばる伊勢湾まで運ばれました。当時はトラックも電車もないので、大量の荷物は水運で運ぶしかないのです。名古屋城築城に当たっては、さらに海から城まで運河を掘り、それらの材料を城へ運んだのです。後にその運河が「堀川」と呼ばれるようになります。

名古屋城の例から「城の柱を一本の木(巨木が必要)で造る」ためにはどんな条件が必要かが明らかになったかと思います。それは・・・

  1. 領地に材料となる巨木が多数あること
  2. その巨木を運搬するのに適した大きめの川があること

松江城築城にあたってはこの2条件が整わなかったので、入手可能な比較的細い材木を組み合わせ、天守閣の柱に必要な強度を出す技をつかったんでしょう。

先ほどの山陰中央新報の記事によれば、 古建築が専門の三浦正幸広島大大学院教授によると、集成材の柱が、日本で初めて使われたのは1609年造営の出雲大社。豊臣秀頼が施主で、堀尾吉晴が担当奉行の一人だった。次が松江城で、その吉晴によって2年後の11年に完成した。いずれも柱の材料になる大木が乏しかったための工夫らしい。とのこと。

じゃあ、なぜ松江城や出雲大社のある出雲国で、柱の材料になる大木が乏しかったのでしょう。答えはたぶん「古来から出雲国、特に斐伊川流域では製鉄が盛んに行われていたから」です。お?なんか「流域環境」と関係して来た〜。

出雲の製鉄。イメージとしては、映画「もののけ姫」でエボシ御前が運営していたタタラ場を思い出していただければと思います。ああいう人たちが、出雲国との山中で製鉄をしていたんですね。

タタラ製鉄には、大量の砂鉄と木炭が必要です。砂鉄十五トンに木炭十五トンを使って、玉鋼750kgが得られるそうです。(後述書より)木炭を焼くには近くの山で大量に樹木を伐採する必要があります。森林の伐採計画を誤れば、附近の山はたちまち禿山になります。

しかも、砂鉄を得るための「鉄穴(かんな)流し」という手法は、下流の川に大量の土砂を流します。砂鉄を含んだ山を崩し、急流へ落とします。急流で母岩が粉砕され、下流の平場で比重差を利用して砂鉄と砂を分離します。でも母岩に含まれる砂鉄分は多くて5%程度。残りの土砂は川に流れ込みます。 

タタラ場一つで環境破壊しまくり!って感じですけど(「もののけ姫」でもそうだよね)、こんな感じの製鉄場が出雲にどのくらいあったのでしょうか?江戸時代ですが、こんな話があります。

1828年秋、芸州藩北備三郡で大規模な百姓一揆が起こった。高年貢強制取立に反対して、数千人が参加した。 形勢は百姓側に不利となり、挙村逃散、つまり村民全員で他藩領へ逃げ込もうと企てた。代官もこれを知ったが、数千人もの百姓を収容できる藩があるものかと気に留めなかった。しかし次に入った情報で、彼らが百姓をやめ山を越え出雲の鉄山へ行こうとしていることを知って、色を失った。出雲には大鉄山師が、それぞれ数千町歩の山林を擁してたたら製鉄業を営んでいたが、これに関係する労働者数は十万人余と言われた。ここなら数千の百姓も容易に吸収できる。代官は百姓の要求をほとんど容れて、この一揆を治めたという。岩波新書「小判・生糸・和鉄」奥村正二 より

この本は江戸日本の技術史なので、出雲たたらの生産力と生産に必要な人員数を計算し、労働者十万という数字は十分考えられると述べられています。その時分には、現在でも大企業グループの従業員数に匹敵するような膨大な数の労働者が出雲の山中でタタラ製鉄に関わっていたことになります。

これは江戸時代の話なんですけど、733年に書かれた出雲風土記に「以上の諸々の郷の出だせる鉄固くして尤も雑の具を造るに堪ふ」と記述があるくらい、古くから盛んに製鉄が行われてきました。 彼らが営々と山の木々を伐採し、山を崩し大量の土砂を川に流します。この川の行きつく先が斐伊川です。

土砂と砂鉄を大量に含んで流れ、床に溜まった土砂が河床を上げ、ついに斐伊川は天井川になります。結果、洪水も頻発します。神話に出てくるヤマタノオロチは、常に土砂を大量に含んだ暴れ川であるこの川を指すという説もあるくらい。

その大蛇は一つの胴体に八つの頭と八つの尾をもち、目はホオズキのように真っ赤。しかも身体じゅうにヒノキやスギが生え、カヅラが生い茂り、八つの谷と八つの丘にまたがるほど巨大で、腹のあたりはいつも血がにんじでいるとのことです。 古事記の神話より
 

その結果、周囲の地域森林景観はたたら製鉄がおこなわれていた当時ははげ山と言うような景観になっていたのででしょう。

養老孟司 竹村公太郎「本質を見抜く力」PHP新書より

上の二枚の図は、左が現代、右が明治大正期の国土利用です。赤枠で囲った出雲国の辺りは、右の図ですと緑が薄く、左の現在よりかなり森林が荒廃していた様子が想像されます。

この辺りの傍証から、出雲大社の改築や松江城を築城した際には、領内に天守の一本物大柱となるような大木は枯渇していて、 残っていた大木を伐採しても、天井川では筏流しして下流へ運搬することもできなかった。仕方ないので、小さい木を寄木として使う技術を産み出した と言うことじゃないかと思うのです。