西尾の鎌倉時代

鎌倉時代は1185年~1333年、鎌倉に幕府が置かれていた時代です。

僕が習った当時は、源頼朝が征夷大将軍に任じられた1192年からが鎌倉時代だったんですけど、今は少し時代が遡り、頼朝が全国に「守護・地頭」を置くことが認められた1185年からと言うのが有力な説のようです。

ともあれ、鎌倉時代とは、政権が貴族(院・公家、新興貴族としての平氏)から、武士(源氏)へと移ったことから始まります。地方統治においても、貴族の荘園管理を請け負っていた下官から、守護・地頭へと権力が移って行った時代です。

1185年。三河国に初めて守護が任命されました。この時任命されたのは、安達盛長という頼朝の信頼の厚い御家人です。

蛇足ですが、1184年に任命された最後の三河国司は頼朝の弟・源範頼です。この人は平氏が滅亡した壇ノ浦の戦いに、三河守範頼として源氏軍の総大将を務めました(後誅殺)。

守護に任命されたものの、重臣である盛長氏は鎌倉に留まり、三河国には配下を派遣したようです。それでも三河の国に七つのお堂を建てました(三河七御堂)。

配置は東三河に6つ(蒲郡市2、豊川市1、鳳来町1、豊橋市2)、西三河に1つです。このことから、まだ当時の三河の国の中心は、東三河にあったと考えられています。東三河に建てられたお堂は現存しませんが、西三河のお堂は現存しており、それが吉良町饗庭にある「金蓮寺弥陀堂」です。建物自体は鎌倉時代中期と言われていますがね(国宝)。主要部材が古いことは間違いありません。

源氏の統治する鎌倉幕府は3代で絶えます※が、一応源氏と血のつながりがある貴族を将軍に迎え、執権北条氏が実権を握ります。 「源氏が絶えたら権力を朝廷に返せ!」と迫ったのが後鳥羽上皇。まあ言われてることも一理ある。この乱を「承久の乱(1221年)」と言います。

旧主筋(上皇:引退した天皇)の挙兵に鎌倉武士は動揺しますが、北条・ドーラ・政子が「このバカ息子ども!空賊として朝廷にこき使われてたアンタらを、無き頼朝さまが空賊政府をおったて日の目を見られる世にしてくれたんだ。明日のオマンマを守りたいなら、上皇方を討ってきな!」と活をいれ、空賊連合側が勝利しました。『吾妻鏡』によると、ドーラ政子の発言ではなく、バカ息子代表の安達・パズー・景盛が政子の声明文を代読したとも。ちなみに景盛は三河守護・盛長の息子。任せた相手を見れば、三河国が鎌倉幕府にとって大事な土地であることが分かりますね。

承久の乱の結果、守護・地頭の権限が強化され、源氏の一族・かつ北条氏の親戚である足利義氏が、新たな三河守護職および額田郡、碧海荘、吉良荘の地頭職に任命されます。この三地域は、矢作川中下流域にあたります。

義氏君は、地頭職が散らばっているので、中心となる額田郡の矢作宿(岡崎市)に守護所を構えました。やっぱり本人は重臣として鎌倉の幕府にいたんだけど。ここは鎌倉街道(後の東海道)と矢作川が交わる交通の要所でもあります。

んで、吉良荘を治めるため、矢作川・弓取川にほど近い台地に西条城(西尾城)を築いたとされます。義氏君は三河守護職に任じられた時、伯母のドーラ政子から源氏重代の刀「髭切丸」を渡されたそうな。んで、その太刀を西条城に移設した八幡宮に祭ったので、今も「御剣八幡宮」として西尾城址にあります。でも名刀は、現在はもうここにはありませぬ。

えーと、義氏君は足利氏の本拠である足利を嫡子・泰氏に継がせ、長男・長氏に吉良荘を継がせます。泰氏は母親が時の執権北条氏の出なので、足利の家を継ぎ、この家系から、次の室町時代を開く足利尊氏が登場します。

額田郡、碧海荘は足利一族に与え、やがて地名を取って彼らは斯波氏、細川氏、仁木氏等を名乗り、力をつけた彼らは、その後三河守護を担っていきます。

足利長氏は吉良長氏を名乗りました。吉良氏の初代です。 長氏は当時の矢作川を境に吉良荘を二つに分け、西条と東条としました。息子の満氏に西条を与え(在・西条城)甥の経氏に東条を与えます(吉良駮馬の地に東条城を築く)。どちらの城も、水運に近く、一方吉良荘を一望でき、水害の恐れのない高台に位置していますね。

また、別の息子・国氏に今川の地を、一族の公深に一色の地を与えます。それぞれ(西条)吉良氏、(東条)吉良氏、今川氏、一色氏の始まりです。

このように、矢作川流域は中下流を足利一族で固めました。なかでも足利本家との近さから「別格」の家柄とされたのが、吉良荘地頭職の吉良氏と碧海荘地頭職の斯波氏でした。(その割に吉良氏は両家の仲が悪く、雄飛できなかったんだけど・・・)

そ、そのころの地図がこちら。矢作川を遡れば、三河守護所にたどり着けます。

鎌倉時代

また関連系図を載せておきます。足利氏が、執権である北条氏と近しい親戚にあったことが分かります。北条氏は同輩である有力御家人の粛清に熱心でしたから、これは家名存続のための重要ポイントでした。この後も足利本家の当主は、代々北条氏から正妻を迎え家名防御に努めますが・・・

系図(見にくくてスイマセン)

時は流れ、吉良氏を継いだ満氏は、北条氏と有力御家人との間の最後の抗争である霜月騒動(安達泰盛と北条執権家の執事・平頼綱)で安達泰盛に味方し敗れて自害。同じく足利本家の家時(尊氏の祖父)も巻き込まれ自害。ちなみに安達泰盛はパズー・景盛の孫にあたります。みんな三河に縁があるねえ。

それから。吉良満氏さんは、吉良氏の菩提寺として実相寺を創建しています。寺の開山式には、京都は東福寺を開山した聖一国師(円爾)を招きました(一日住持とも)。

国師というのは、高僧に対して朝廷から贈られる諡号の1つで、日本には40人弱しか与えられていないはず。その人を片田舎に呼んじゃうくらいだから、当時の吉良氏は凄い権力を持ってたのです!

 

※三代で絶えた源氏の最後の将軍実朝。その妻が、夫の菩提を弔うため京都に建てたのが遍照心院大通寺。同名のお寺は現在も京都にありますが、一度廃寺になり、その塔頭が寺名を受け継いだものです。

妻が寄進した大通寺本尊とされる阿弥陀如来坐像は流転の末、吉良吉田の専長寺に伝わっています(重要文化財)

西尾の平安時代

平安時代。平安遷都の794年~鎌倉幕府成立1185年あたりまでの時代です。地図をどうぞ

平安

この時代には、いよいよ「吉良荘」が誕生します!

海岸線の推定について

「西暦799年三河国に崑崙人が漂着。綿の種をもたらす」  場所は天竺町の天竺神社(赤丸)ではないかと言われています。

「西暦859年 清和天皇即位に際し、三河国に「悠紀斎田」を置く」その斎宮に祭った神社が、野々宮の野宮神社(赤丸左の緑丸)と言われています。

即位礼に関係のある水田が海に接する(災害を受けやすい)ことはないでしょう。 だから少し内陸にあると考えました。天竺神社は現在でも川に近いので、漂着したのは海ではなく川の河口と考えれば、そんなにおかしくないかと。

吉良荘(荘園)の成立について

飛鳥・奈良時代の律令制度では、土地は国のものでした。それを百姓に貸し出し(口分田)、租税を納めさせていました。これを班田収授法といいます。

理想的には、百姓Aが死んだらその土地は国に返却され、百姓Bに貸し出されるはずなのですが、なかなかメンドくさい。実際には父から子へ引き継がれ、さらには売買されている事例もあったようです。

さらに、租税が過酷(おそらく温暖化による旱魃が多発したこと、国司の圧政がひどかったこと(都では国司の売官行為が行われ、国司は元手を回収するため頑張ってネコババしてた。隣国尾張国の国司の横暴を訴える訴状が残っています)などから、百姓は口分田から逃亡したりして、口分田は荒れていきました。

これはいかん。やる気を取り戻させないと・・・朝廷は、743年に墾田永年私財法を出し、開墾した土地は開墾主の物じゃ!と法律を出します。しかし零細百姓には資本がありません。 結局有力貴族や社寺が逃亡した百姓を集めて土地を開墾したり、中小地主が国司の圧政を避けるため、土地を有力貴族や社寺に寄進し、それらの土地が「荘園」になっていきました。

国司は数年で変わるので、むしり取って交代。あとは「野となれ山となれ」となりやすいのです。荘園と言う個人所有になれば、持続的に年貢を取りたいですから、多少年貢は緩いんじゃないかな・・・

朝廷も「土地は国のもの」という建前を諦めて、「皇室の領地を造る」ことを考えたのでしょう。 878年に、「清和天皇の皇女に、幡豆郡内の荒廃田100町を孟子内親王の一身田として与えた」ことが記されており、幡豆郡の荘園化はこの辺りから発していると考えられています。

時は流れて(記録がない) 1159年。吉良荘を管理する下司から、荘園の主に当てて服を献上する手紙が残されています。 このころの荘園の主は「藤原氏(九条家)」で、下司の平弘陰は平氏の一門です。当時、赤羽(地図■で示す)に城があり、城主は平遠衡と言ったそうです。この遠衡と弘陰の関係は分かりませんが、時の三河国国司は平頼盛※(平清盛の異母弟)でしたから、その縁で吉良荘で仕事をしていたのかもしれません。

もっとも律令時代の幡豆郡がすべて藤原氏の私領「吉良荘」になったわけではなく、公領「土馬保(とばほ)」や、伊勢神宮領「蘇美御厨」「饗庭御厨」「角平御厨」なども存在していたようです。

文化面

平安末期に、三河国の主な神社をまとめたものが、「三河国内神明帳」です。そこには8つの神社が記されています。その場所を示したのが、地図上の緑丸です。

正二位羽利大明神・・・現・幡頭神社
正三位内母大明神・・・現・伊文神社
従四位下熊来明神・・・現・久麻久神社
従四位下斎宮明神・・・現・野宮神社
従四位下津牧明神・・・現・志葉都神社
従五位下磯泊天神・・・現・磯泊天神
従五位下蘇美天神・・・現・蘇美天神社
従五位下草佐天神・・・現・鳥羽神明社

詳しくはこちらにまとめてあります

 

※平家一門は壇ノ浦の戦いで滅びたとされますが、この平頼盛は清盛の異母弟なのに戦後も源頼朝に厚遇され生涯を終えました。三河国司のあと尾張国司を務めたときに平治の乱が起こり、敵の御曹子である頼朝を捕獲しましたが、清盛に助命を嘆願。戦後は人脈を生かして頼朝の為に働き京で死去しました。

まだ平氏の勢いがあったころ、第80代高倉天皇が京都の平頼盛の屋敷で亡くなりました。高倉天皇は清盛の娘(徳子)と結婚し安徳天皇を生んだ人。西尾市内には、高倉天皇と徳子を祀る高倉神社(地図上□で示す)があります。しかも境内にある修法寺には「白鳳時代」とされる、市内で最も古い仏像が安置されています。そんな古い仏像、高貴な人でないと持てませんよね。頼盛が平氏ともゆかりのあるこの地に高倉天皇と徳子を祀ったと考えるのは、どうかなあ?