麻辣刀削麺

暑い日が続きますね。今日ふと「辛いラーメン食べたい♡」という気分になり、たまにランチを食べに行く、近所の中華料理店逸品楼 へ行きました。

ここは麻婆豆腐がおいしくて、ランチ行くと麻婆定食ばかり食べてるんですけど、今日は担々麺の気分・・・ ラーメンとご飯もののセットを頼みますか。

 メニュー見ると、もちろん担々麺もあるんだけど、「麻辣刀削麺」ってのも。なんだこれ。

「麻辣麺」ってのは知ってます。辛いの大好きな四川省の料理です。担々麺に似てるけど、もうちょっと辛い みたいなイメージ。

麻辣味(まーらーあじ、マーラーウェイ)は花椒(かしょう、ホアジャオ、中華山椒)と唐辛子による中華料理の味付け。四川料理では麻婆豆腐など多くの料理に使われている。
舌がヒリヒリするような唐辛子の辛さである「辣味」(らつみ、ラーウェイ)と、花椒の舌が痺れるような辛さである「麻味」(まみ、マーウェイ)の二種類の異なった「辛さ」により構成される。味を形容する漢字が異なるように、中国語で「麻味」というと日本語の辛いを意味する「辣味」と区別される。

wiki

ああ、この店の麻婆豆腐が旨い って感じるのは、「麻辣」の味付けに近いからなのね。一般的に日本で食べるのは、もっと日本人好みの味だもの。それはそれでおいしいけど。

「刀削麺」も知っています。山西省の料理ですよね。 小麦の塊を刀で削って麺にして、「ほうとう」みたいな「パスタ」みたいな短麺です。まあ、この店で「削ってる」とは思いませんが。

    石毛直道「文化麺類学ことはじめ」 より引用

四川「麻辣」と山西「刀削」の融合麺。 俄然興味が出てきたので、今日はこれを食べることにしました。 

ランチ(11時~)のラーメンセットは、「麻辣刀削麺」+「中華飯」+「杏仁豆腐」を選んで850円(税込)。 ここの杏仁豆腐は、インスタントじゃないからおいしいんだよね♡。 にしても中華料理店って、ボリュームの割にお値打ちでいいわぁ。

来たのがこちら。盆には黒酢が載ってるんだけど、何にかけるんだろ?

うっ麻辣麺、この色だと半端なく辛いわ・・・。それとひき肉は入ってないんだな。食べてみると・・・うーん、辛い。むせかえるほど。これは確実に明日腹壊すなあ。

で、味はいかが?・・・うーん。これは日本人向けの味じゃありませんね。もちろん現地より辛さ控えめにしているだろうけど。そっちっぽい味付けです。

旨い?・・・正直分かりませんでした。でも、またしばらくしたら食べに来ると思います。そんな気になる味だし、何度か食べるとはまりそうな予感もします。(パクチーをはじめて食べた時の感じがそうでした)

あ、中華飯のお味は「普通」です。辛い麺のお供には、甘めの中華飯は悪くないですけど。

ネットで調べてみたら、ちょっと前に日本で流行した・・・のかな。四川の「麻辣」と山西の「刀削」を日本で融合させた料理らしいです。 

しびれブームの中、新たな料理に注目している人たちがいます。その料理は「麻辣刀削麺」。
・麻辣という四川特有の味
・刀削麺という山西省発祥の麺料理
が融合した日本発祥の独自の料理です。以前、四川省から来た友人に麻辣刀削麺を食べさせたことがあるのですが、
四川にはない、なにこれおいしい!!と絶賛していました。

2018年9月30日 次世代の四川料理!麻辣刀削麺マニアおすすめの3店舗

「台湾ラーメン」みたいに根付くのでしょうか? ちょっとハードルが高いような気もしますけれど。

*中華料理なのに、+100円で韓国冷麺や冷やし中華が選べたりするの、いいっすね。中国系の人の経営する店って、こういうところ緩くて好きです。

三河の海の玄関口、大浜

碧南市の大浜地区に行ってきました。今はひっそり静かな大浜漁港を有する町。ですが

昔は大浜湊といえば、三河でも随一の交易港だったのです。

大浜漁港は、南北朝時代(1336年~)から海運の要所としてその名が出てきています。
  米、酒、みりんなどの物資の集散地として、海上交通の重要な港として発達しました。当時は、水上輸送を仲介し、年貢の輸送・保管・販売や旅館を兼ねる問屋であった問丸があり、当地随一の港でした。(当時の問丸の存在がはっきりしているのは、伊勢の桑名、大湊、駿河の沼津ぐらいです。)

大浜漁港の概要  愛知県

現在の西尾市のあたりは昔は幡豆郡といい、幡豆郡には饗庭、津平などに、伊勢神宮領である御厨がありましたから、大浜港はその年貢を納めるための積出港でもありました。それをもとに発展したのかも。 

ともかく、交通の要所だし交易で人が集まる場所なんで?いろんな施設ができます。例えば1339年という早い時期に、大浜港のほど近い高台に「大浜道場」(現・称名寺)という時宗道場が開かれた記録が残っています。 

当時の大浜は三河湾に突き出た半島の先端だったらしく、風光明媚だったのか「大浜の称名寺」って歌の世界では有名なようでして、足利将軍家の歌道師範である飛烏井雅康(1499)や冷泉為広(1513)、連歌師宗牧(1544)などが、伊勢国から船で知多半島を経由してこの大浜港に着岸し、称名寺を訪れています。

 大浜の 波路わけぬと 思ひしに 早彼岸に 舟よせてけり

波路を超えて船で大浜までやってきて、連歌にゆかりの深い称名寺の本尊阿弥陀仏の前で休んでいると、早くも彼岸に達したように思われる   飛烏井雅康

新編 西尾市史 通史編1 より

この現代語訳、ちょっと意訳しすぎじゃないかなぁ・・・ 

そんなこんなで1543年、この称名寺でとある連歌会が催されました。主催者は、大浜を支配していた岡崎城主の松平広忠。徳川家康のお父さんですな。 その時に広忠が詠んだ「めぐりはひろき 園のちよ竹」という句をもとに、寺の住職が家康の幼名として「竹千代」を献上したそうな。

そう、「竹千代」命名の寺なのです!

これ以外にも、大浜や称名寺は徳川家(松平家)と結構縁が深いんですな。まず松平家初代、松平親氏は、時宗の僧侶として諸国放浪中の時、時宗であるこの寺で厄介になり、親氏の親はここで亡くなったそうな。

次に、家康の曽祖父である松平信忠、松平家を相続したけど、うまく一族をまとめることができず、早期に引退させられ称名寺で出家。ここで亡くなりました。  

そんな経緯だからか、寺には徳川家祖廟なんてものがありました)  

敷地内には東照宮もありました。あまりぱっとしない建物だけど。個人的には最近のものでしょうが、茶庭がよく手入れされてて好感持てました。

本題に戻ります。徳川家康も、嫡男・信康を切腹させる際、いったん大浜に蟄居させたり

天正7年(1579年)8月3日、家康が岡崎城を訪れた翌日信康は岡崎城を出ることになり、大浜城に移された(『家忠日記』)。その後、信康は遠江の堀江城、さらに二俣城に移されたうえ、9月15日に家康の命により切腹させられた。享年21。

wiki

本能寺の変で伊賀越えした際には、伊勢国から船に乗り、大浜港近くの大浜稲荷社に上陸し、岡崎城に帰ったと伝えられています。 なお、この稲荷社は曽祖父・信忠が創建。

   

参考文献: 碧南市「『どうする家康』-碧南と徳川家康との関係」

そういや、織田信長の初陣は、敵対する松平・今川家支配の大浜の焼き討ちでしたなあ。

伊勢とのつながりと言えば、近くの海徳寺には、重要文化財の阿弥陀如来坐像があるのですが、こちらの仏像は山門の仁王様と共に、明治時代の廃仏を逃れて伊勢からやってきたものだそうです。 なかなか立派な建物。

ほかにも西方寺など、立派な寺が立ち並んでいます。 下の写真は、西芳寺の前にある「碧南市藤井達吉現代美術館」の館内から撮影した西方寺です。

この地区を散策したい場合は、 「大浜まちかどサロン」(藤井達吉美術館前)で「大浜てらまち散歩地図」を入手してから歩くと便利です。 

本当は、達吉美術館で開催されている 「生誕160年 清沢満之の世界展」を見て、清沢満之とはどのような思想家ぞや?(晩年は西方寺副住職) ということを記事にしたかったのですが、さっぱりわからんかったので、大浜めぐりでお茶を濁した次第。 勉強して、何かわかったら記事にします・・・

清沢満之ほど知名度の薄い、それでいて、これほど重要な人物は、ちょっといないのじゃないでしょうか。 司馬遼太郎

展示会を見れば、彼がどのような人生を送ったのかという伝記(歴史的事実)は分かるんだけど、司馬さんが触れているのは、もちろん彼の思想の中身のことだよね。ま、それを展示会で分かろうとするのは傲慢かな。連本でも買って読んでみまーす。