西尾にいた地侍・鈴木氏について

西尾市の資料館にて、 「家康と西尾ー家康領国の時代ー」という企画展が開催されています。入館無料、6月25日までです。

興味深い展示会でしたが、僕が一番注目したのが、平口町や一色町前野を領していた地侍、鈴木氏についての展示でした。

 鈴木家一族の屋敷が今でも当地にあるのか、「鈴木八右衛門家文書」というのが残っているようです。 そこに、当時の領主であった吉良氏、今川氏、徳川氏からの領地安堵状が残っていて、いくつかが展示されていたのです。  一族は激動の三河戦国時代をどのように生き延びたのか 興味を持ちました。

が、ネットを見ても鈴木氏に関する記述はあまりないです。 ここくらいでしょうか。ですので、図書館へ行って調べてきた情報を共有します。 出典は「新編 西尾市史」「一色町誌」「西尾の人物歴誌」です。 すべて西尾市立図書館(本館)の地域本コーナーに並んでます。

西尾市教育委員会「西尾の人物誌」によると、鈴木氏(本家)は、初代藤右衛門、2代弥右衛門貞重、3代八右衛門重直、4代八右衛門隆次、5代八右衛隆政、6代九右衛門(?)重政、7代政弘・・・と続いたようです。  江戸時代には三河国代官、西尾城城代などを務め、伊勢国、出羽国、越後国と所替えののち、江戸詰めとなった旗本だったそうな。

戦国時代の歴史は以下の通り。あちこちから抜き出してきたのを、年表にしてみました。重直くん、忙しいねえ。

一色のどこかにいた2代目貞重に続く3代目重直は平口の屋敷の領有を、次々と変わる時の領主たちに認めさせてきました(一色から平口に、一族の養子にでも入ったのかな?)。

その後なぜか再度一色の海岸近く(前後)に移り住み、そこで新田を開発し、領主に領有を認めさせ・・・といろいろやってます。その間に戦争にも出て、褒賞に領有を認めさせ、加増され・・・まさに、「一所懸命」を地で行っているよう。

「一所懸命」[イッショケンメイ]は、「昔、武士が賜った『一か所』の領地を命がけで守り、それを生活の頼りにして生きたこと」に由来したことばです。これが「物事を命がけでやる」という意味に転じて、文字のほうも「一生懸命」[イッショーケンメイ]とも書かれるようになりました。今では、「一所懸命」よりも「一生懸命」と表記・表現される場合が多くなっています。

NHK放送文化研究所

 ちなみに、平口と前後の位置関係は次の通りです。 今はないけれど、旧河道C(広田川)でつながっていたようなものです。

新編西尾市史より

重直の前後新田領有を認める際、家康の重臣「鳥居忠吉」が登場しています。大河ドラマ「どうする家康」でおなじみですね。

この人がこの地の領主(代理含め)であったという情報はないですが・・・実は忠吉の次男が平口の隣集落(上道記)にある不退院の住職で、忠吉の墓もここと言われていますんで、なんか隠然たる権力があったのかもしれないですね。あるいは矢作川水系水運業組合の親分子分関係だったとか・・・   不退院訪問記はこちら

永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いでは家康に従軍し、今川義元の戦死後、大樹寺(岡崎市)より岡崎城に入った若き主君・家康に、今まで蓄えていた財を見せ、「苦しい中、よくこれだけの蓄えを」と家康に感謝されたという。その後は高齢を理由に岡崎城の留守を守った。
元亀3年(1572年)に死去。長男・忠宗は天文16年(1547年)の渡の戦いで戦死し、次男・本翁意伯は出家していたため、三男・元忠が家督を相続した。墓所は、次男・本翁意伯が住職となっていた不退院(愛知県西尾市)。
鳥居家は三河碧海郡を居としており、ここは矢作川の水運で栄えた水陸交通の要衝のため、船や馬などの経済活動でかなりの富を蓄えていたと考えられている。

wiki

まあ、重直のおかげで鈴木家は激動の戦国時代を生き延びられました。それにしても、その当時の文書が個人蔵としてきちんと残っているって、すごいなあ。

補足。平口の土地を譲られた重直の弟・又太夫の子供が、家康の息子信康に小姓として仕え、信康自害の際殉じた「吉良おはつ」だそうです。(正式名は鈴木長兵衛)

中学生だか高校生の時、部分的に読んだ山岡荘八の「徳川家康」で、おはつの殉死シーンがえらく妖艶・・・つーか詳細は覚えていないのですがBL風に書かれていたような・・・。その衝撃?か、この名前は僕の記憶の中に長く残っていました。そうか、名字から吉良氏の一族かと思っていたのですが、鈴木氏の一族だったんですね。なんかちょっとすっきりしたよ。(いやどうでもいいけど)

「どうなって家康」③松平家隆盛に絡んだ伊勢氏

前回までに、三代目信光まで話をしました。 信光は京都にいる実力者(室町幕府政所執事・伊勢貞親)の被官として勢力を伸ばしました。あとで出てくるので、伊勢貞親という名前は覚えておいてください。

政所とは・・・室町幕府の財政と領地に関する訴訟を掌る職。執事(政所の長官)は当初二階堂氏や京極氏(佐々木氏流)等が任じられていたが天授5年/康暦元年(1379年)の伊勢貞継の任命以後伊勢氏の世襲となった。

wiki 政所

信光は岩津城を拠点としたので岩津松平家(岩津宗家)と呼びます。 じゃあ四代目は、信光の嫡子で岩津松平家を継いだ松平親長なのでしょうか?  じつは、さにあらず。 なのでございます。

 松平親長は長年、京都で金融活動に従事しており、宗家を継いでも京都で活動していました。時はまさに世紀末・・・でありますから、いつも不在の宗家より、在地している一族の有力者がだんだん力をつけてまいります。それが、信光の三男・親忠です。安祥(安城)城を拠点としたので、安城松平家と言いますが、この家が宗家化してまいります。ってことで、四代目は安城松平家の親忠です。

親忠の代には、京都で活動する岩津宗家の親長にかわって、安城家が松平一族の惣領的地位を占めていたとみなされ、親忠が没した文亀元(1501)年の法要では、一族が結束して連判状を作成し、安城家の菩提寺である大樹寺(岡崎市)を守護していくことをちかっている。

画像とも 三鬼清一郎編「愛知県の歴史」より引用  

こういう文書が後世に残っているって、考えてみるとすごいことですよね・・・

さて、安城松平家が名実ともに宗家となったのは、永正五年(1508)に遠江を制圧した駿河の今川氏が西三河に進攻してきたからです。戦乱は数年に及び、岩津城は落城、岩津松平氏は滅亡してしまいました。といっても、親長くんは京都で生きていたとする説もあるのですが。

一方、この戦で名を挙げたのが、親忠の跡を継いだ安城松平の長親くん。この人が五代目になります。

永正5年(1508年)旧暦8月、今川氏親名代の伊勢宗瑞率いる今川軍は大樹寺を本陣として岩津城を攻めた(永正三河の乱)。・・・岩津への救援軍として安祥城の松平長親が井田野に現れると、これを迎え撃った今川軍だったが、長親の戦いぶりに手を焼いて伊勢宗瑞の本陣への肉薄を許すなど苦戦。さらに戸田氏から背後を襲われることを懸念して、今川軍は撤退したという。)もっとも、今川軍の主要攻撃目標は嫡流である岩津松平家であったため、岩津落城を果たしたのを契機に宗瑞は兵を引いたのだとも考えられている。この合戦の結果、岩津松平家は著しく衰退したと考えられる。

しかし、永正の三河の乱の後も岩津親長はずっと在京していたと見られ、永正17年(1520年)3月9日までは生存が確認されるとする見方もある。

wiki 岩津松平家

いや、そんなかっこいい話じゃないとする説もあります。安城松平家の去就は同時代史料からは明らかではないけれど、吉良氏(今川氏宗家)とかかわりがあったから生き延びられたんだ と。

家督を相続した信忠(注・六代目です)の「信」の字は吉良義信の偏諱とみられる。三河吉良氏の本領吉良荘と所領を接する安城松平氏は、吉良氏の影響下に置かれることで、今川氏の爪牙にかかることなく、家を存続できたものと思われる。

新編 西尾市史 通史編1 より引用

ま、まあ、生き延びた方が勝ち なんです!

さて、ここで出てきた、今川氏親(駿河国主)名代の伊勢宗瑞。氏親の叔父にあたるのですが、正式名は伊勢新九郎盛時。出家して早雲庵宗瑞と号します。後世「北条早雲」と呼ばれる人です。この時は今川氏の客将というような立場でした。

さて、この北条早雲なり伊勢盛時、最初に出てきた伊勢貞親と関係あるのでしょうか?実はあるんです。 つまり、「松平家が三河で台頭し、家康につながる支流/安城家が宗家になれた」のは、ともに伊勢氏が絡んでいるんですな。縁は異なものというか。

伊勢新九郎盛時(北条早雲)は、貞親の同族備中伊勢氏の当主で貞親と共に幕政に関与した伊勢盛定の嫡男(一説には盛定の妻は貞親の姉妹であり、貞親と盛時は伯父と甥の関係であるともいう)とされ、貞親の推挙によって義視に仕えたと言われている。

また徳川将軍家の先祖にあたる三河の国人領主松平氏宗家第3代松平信光は、貞親の被官であり、貞親の命で額田郡一揆の平定にあたるなどして勢力を伸ばし、のちに戦国大名化していったとされる。

wiki 伊勢貞親

応仁元年(1467年)に応仁の乱が起こり、駿河国守護今川義忠が上洛して東軍に加わった。義忠はしばしば伊勢貞親を訪れており、その申次を盛定が務めていた。その縁で盛定の娘で宗瑞の姉(または妹)にあたる北川殿が義忠と結婚したと考えられる。文明5年(1473年)に北川殿は龍王丸(後の今川氏親)を生んだ。

wiki 北条早雲

こ松平宗家は五代長親、六代信忠、そのあと七代清康、八代信忠、九代家康と続いていくわけですが、その道筋は決して順調なものではありませんでした。それを見てきた長命の五代長親くんに語ってほしいものです。なかなか数奇な余生?をおくってらっしゃる。

隠退後、入道し道閲と号した長親は、なおも信忠を後見・補佐したが、信忠は力量乏しい上に一門衆・家臣団からの信望が薄く安祥松平家が解体の危機に瀕した。そのため、家老・酒井忠尚(将監)の嘆願により道閲・信忠父子は、信忠の隠居と信忠の嫡子清康への家督継承を受け入れた。
 晩年は福釜・桜井・東条・藤井と新たに分家を輩出させた息子たちの中で、とりわけ桜井家の信定を偏愛する余り、清康の死後に若くして後を継いだ広忠(長親の曾孫)が信定によって岡崎城から追われた際にも何ら手を打たなかった。このために家臣団の失望を招いたという。
 後には広忠と和解、生まれてきた広忠の嫡男(長親から見れば玄孫にあたる)に自分や清康と同じ竹千代と命名するように命じている。後の徳川家康である。しかし、長親の溺愛した信定は広忠の代まで家督に固執して松平氏一族とその家臣団に内紛を引き起こし、結果的には少年時代の家康の苦難の遠因となった。

天文13年(1544年)8月22日、死去。享年72。

松平長親

七代の清康くんは英傑でして、上記の事情により解体の危機にあった安城松平家を十三歳で相続。わずか3年後に敵対していた岡崎松平家の山中城を攻撃。たまりかねた岡崎家当主・松平信貞(西郷信貞とも)は所領と多くの家臣を明け渡し大草に退去します(以降大草松平氏と呼ばれる)。

 清康は岡崎領と家臣を吸収したことで安祥松平家の宗主権を強くします。また、信貞の居城である旧岡崎城を現在地に移し、居城を安祥城から移します。(安城松平氏の居城が岡崎城であるゆえん)新しい岡崎城のある地点は、東海道と矢作川が交差しており、水陸交通の要衝だったのです。

なお、このような安城松平氏の歴史から、同家の譜代家臣として、「安城譜代(安城時代から仕えた)」「山中譜代(岡崎家旧臣)」「岡崎譜代(岡崎に移ってから仕えた)」という分類があるそうです。

そのあとも大活躍し、二十代にしてほぼ三河国を制圧。25歳で隣国・尾張に攻め込みますが、守山城攻めの陣中で側近に打たれ死亡。松平軍は総崩れ、三河制圧も幻と消えました。(守山崩れ)。

清康の嫡男・広忠が跡を継ぐはずが・・・桜井松平氏・松平信定に領地を取られてしまいます。復帰のため、吉良氏、のちに今川氏を頼ります。復帰に成功するも松平家はガタガタ。織田氏による三河進攻に今川氏に援軍を求め、代償として竹千代(のちの家康)を人質として送ることに。 

wiki天文4年(1535年)、広忠が10歳の頃に父・清康が死去し、大叔父の松平信定は岡崎押領を断行。信定を諌めぬどころか黙認という隠居の曾祖父・道閲(松平長親)の姿勢もあり所領を悉く押領し、また広忠を殺害しようと企てるようになった。
天文8年(1539年)、吉良持広の庇護を得て伊勢国・神戸まで逃れ、この地に匿(かくま)われる。元服し、持広より一字を拝領して“二郎三郎広忠”と改めた。しかし同年9月の持広の死去後、吉良を見限り駿河へ
天文9年(1540年)義元の計らいで三河「牟呂城」に移される。信定死後岡崎城を占領した。
天文16年9織田信秀による三河進攻では今川氏へ加勢を乞うも、見返りに竹千代を人質として送ることとなった。

wiki 松平広忠

天文9年(1540年)には、敵である織田信秀に安祥城も占拠されてしまいます、信秀は城代に織田信広(信長の兄)を置いています。

天文16年、今川氏に送られるはずだった人質・竹千代は拉致られて織田氏に送られます。

天文18年(1549年)に広忠が病死。同年、今川(松平)軍が安祥城を攻め城は落城。捕虜となった織田信広と竹千代を人質交換。竹千代は駿河で人質生活に入ります。 あとは・・・大河ドラマをご覧ください。

参考 松平家系図

「愛知県の歴史」より

安祥城訪問記室(牟呂)城訪問記も、よかったら読んでください。