半田運河さんぽ

知多半島の付け根にある、半田の運河沿いを中心に散策してきました。

半⽥市は、江⼾時代から醸造業や海運業などで栄え、商業や製造業を中⼼に発展してきました。こうした歴史を今に伝える4つの象徴的な⾒所として、半⽥市の観光は、「⼭⾞・蔵・南吉・⾚レンガ」といわれています。また近年では、歴史的な建築物などを⽣かした、新たなスポットやイベントも年々増加しています。
四季折々、様々な魅⼒あふれる半⽥市にぜひお越しください。

半田市観光協会

このあたりは、もともと半田湊を拠点とした廻船(海運)で栄えたまちでした。まちの特産品は「酒」。造った酒を大消費地江戸に捌いていました。でも半田湊が十ヶ川からの土砂で浅くなり大型船の運行に支障をきたすので、元禄年間に十ヶ川河口に開削したのが半田運河のはじまりです。

 下の写真が現在の半田運河。使われていないので、土砂がたんまり堆積していますけど。海が近いから、潮の香りがします。

あるとき、江戸で握り寿司を見た半田のとある酒造家が、「酒造りの副産物として出る酒粕で酢を作ったら、すげー売れるんじゃね?」  とひらめきました。

当時は米を原料にした米酢で酢飯を造っていたのですが、酒粕を原料にした粕酢は米酢より安価で寿司に合ったので大ヒット。彼は大儲けできたし、安価な粕酢により握り寿司は庶民に人気の食べ物になったそうな。

彼の名前は中野(中埜)又左衛門。彼の会社は現在も同族経営で続いており、その会社を現在「ミツカン」と称します。押しも押されぬ大手食品メーカー(酢を中心に)。我が家には二本ありましたが、このマークの酢やポン酢は大抵のうちに一本ぐらいあるんじゃ?

wikiの解説を読んで知ったんだけど、三本線に丸(環)でミツカンと読む。とか 「金のつぶ」納豆も、この会社の製品なんだね。大手納豆メーカーでもあるわけだ。

「味ぽん」などで有名なミツカングループの売上高は約2400億円(2021年度)。国内外の工場や営業拠点に勤務する社員は約3800人にのぼる。
「食酢のシェアは家庭用で7割、業務用でも5割といわれており、業界のトップに君臨しています。また、ミツカンでは代々、創業家一族の中埜家の当主が経営の舵取りを担っており、同族経営の非上場企業です」
「2006年まで公開されていた高額納税者ランキングには、半田市の上位に中埜一族がずらりと並んでいます。ちなみに1999年の前会長の納税額は約8億5000万円で、これは愛知県のトップ。全国でも6番目に高額でした」(経済部記者)

ミツカンお家騒動の内幕 創業家から追放された元娘婿が「離婚成立後も中埜姓を名乗るワケ」

ともあれ、こんな経緯でミツカンの本社ビルはいまも、半田運河沿いにあるのです。意外とこじんまりとしてるな。

株式会社Mizkan(ミツカン)は、調味料と納豆を主力製品とする株式会社Mizkan Holdings(ミツカンホールディングス・非上場)傘下の大手食品メーカー(事業子会社)である。資産管理部門の株式会社中埜酢店などと「ミツカングループ」を形成している。愛知県半田市中村町二丁目6番地に本社を置く。
・・・
江戸時代中期の1804年(文化元年)、中野又左衛門により尾張国知多郡半田村(現在の愛知県半田市)で酒造業として創業。以後、1923年(大正12年)に株式会社化する。連結売上高は1千億円を超えるが株式非上場企業であり、中埜家による同族経営が維持されている。
・・・
当地では日本酒の製造が盛んであった。酒造後に残る酒粕を用いて酢を作り、これは米を用いた酢より安価であったため、江戸時代の庶民の間に寿司が普及する要因となった。1887年(明治20年)、三本線に丸をつけたロゴ「三ツ環(ミツカン)マーク」を商標登録。
・・・
日本における醸造酢のシェアは高い。第二次大戦後、加工・チルド食品に参入し、1964年(昭和39年)に瓶詰めの味付けポン酢の元祖となる「ミツカン味ぽん」・・・を発売。1997年(平成9年)に朝日食品工業を買収し、納豆の製造・販売に参入する。酢の発酵技術を使用した納豆の「金のつぶ」シリーズは、首位のタカノフーズ「おかめ納豆」に次ぐシェアを占めた。

wiki

運河から一本入った通りは、昔のつくりの家や倉庫が並んだ小路になっています。新しい家も景観に配慮して建てられているようで。

ぶらぶら歩くと、中埜一族の中埜半六邸や、清酒「國盛」を醸造している中埜酒造の酒の博物館なんかがあります。

google mapより借用

こちらは無料の酒の博物館で、日本酒の試飲もできるんだけど、僕はドライバーなので無理でした。せっかくだから、一本大吟醸を買ってきたよ〜。

「中埜酒造」ってくらいだから、ミツカンの中埜氏となにか関係があるのかな・・・

中埜酒造㈱は、弘化元年(1844)、小栗富治郎によって創業されました。この初代小栗富治郎が、中埜酢店(ミツカン)の創業者中埜(野)又左衛門から、酒造権(酒株)を譲り受けたときを創業年としているのだそうです。
・・・文明開化の時代を迎えてさらなる発展を願い清酒「國盛」と命名しました。

houzanの気ままな人生3

ふむふむ。ちなみに初代中埜又左衛門はここで酒造権を譲り渡したことになっているんだけど、四代目の中埜又左衛門(代々この名前を襲名するそうな)は甥と丸三麦酒醸造所を設立し、ビール製造に参入。実家が造り酒屋だけに(常滑の盛田家)・・・?

受け継いだ五代目中埜又左衛門が赤レンガの近代的なビール工場を建設。丸三麦酒をカブトビールに改めたそうな。  今も残る「半田の赤レンガ建物」がそれね。

ま、地方のビール会社なので競争には勝てず、最終的にはビール事業は売却されたのだけれど。

1900年(明治33年)のパリ万国博覧会で金牌を受賞し、当時は東海地方で最大のシェアを誇った。
1906年(明治39年)12月に根津嘉一郎が譲受して日本第一麦酒株式会社となり、1908年(明治41年)に加富登麦酒株式会社へ改称する。1922年(大正11年)に帝国鉱泉株式会社と日本製壜株式会社を併合して日本麦酒鑛泉株式会社に改称する。1933年(昭和8年)7月に大日本麦酒株式会社と合併し、1943年(昭和18年)に企業整備令の適用で、半田工場を閉鎖してカブトビールの製造を終了する。
2004年(平成16年)1月、市民団体「赤煉瓦倶楽部半田」がカブトビールを復刻するプロジェクトを企画。同年3月、製造委託先を南知多町の知多麦酒株式会社とすることを決定。

 wiki

いまではこの赤レンガ建物内で、復刻した明治カブトビールと、大正カブトビールが買えるそうです(各600円)。再び、僕ドライバーなんで、呑んでないですけど・・・

うむー、このあたりは、電車で行ったほうが、飲むに良さそうです😂。

吉良氏の菩提寺

西尾市内の五つの寺で十一日から、「西尾お寺イベント 本堂が夢ステージ」が始まる。コンサートや寄席などを予定し、テレサ・テンさんの「時の流れに身をまかせ」「つぐない」の作詞を手がけた荒木とよひささんも出演。市民有志らでつくる実行委の永井考介会長は「歴史ロマンあふれる寺の本堂を舞台に、地元アーティストや落語家の演奏、寄席を楽しんでほしい」と話す。 (角野峻也)…

お寺の本堂が夢ステージ 西尾で11日から催し、コンサートや寄席など

これは中日新聞の記事(導入部)で、続きは有料会員でないと読めませんが、西尾のお寺でイベントがあるようです。(中日新聞9月1日付朝刊掲載)

コンサートは特に興味ないのですが、続く記事の(歴史的?)部分に関心がありまして。

西尾市内の寺院数は270を越え、全国の市町村で二十番目の多さ。全国有数の「お寺のまち」であること。この資源を生かし、文化振興の風を吹かせようと企画された。

西尾にお寺が多いということは、文化財巡りをしているとよく分かります。気になったので、過去に西尾の寺院数と宗派別の取りまとめ記事を書きました。(出典;昭和60年版「愛知県宗教法人名簿」)

真言宗6、日蓮宗9、浄土宗156、浄土真宗90、曹洞宗17、臨済宗14、黄檗宗1、その他4、単立6  合計303

にしても、全国の市町村で20番目とは、やっぱりかなり多いですね。

イベントのうち、市にゆかりのある中世吉良氏、近世吉良氏、東条吉良氏の菩提寺を舞台にした「菩提寺コンサート」が9月〜11月に上町の実相寺と吉良町の華蔵寺、花岳寺で開催。市内在住のピアニストやオペラ歌手ら計15組が出演する。

長い前置きをすいません。

ここからが今回の主題。西尾にある「吉良氏の菩提寺」は、実相寺、華蔵寺、花岳寺なわけですけど、実際誰のお墓があるのか、そこを現地調査してみました。

①実相寺

吉良氏のお墓は、残念ながらありません。  昔はここの墓地か、塔頭(付属寺院)に墓があったと思いますが、戦乱やらなにやらで失われたのでしょう。  吉良氏の開祖に近い吉良満氏の創建とされています。  以前の訪問記はこちら

☆少し、松並木の松枯れが気になりました。マツクイムシじゃないといいのですが。

②華蔵寺

吉良家墓所  吉良義安から義央の継嗣義周まで吉良家六代の墓が残る・・・案内板より

具体的には、吉良義安とその夫人、吉良義定、吉良義弥、吉良義冬、吉良義央と夭折した次男次女、そして養嗣子である吉良義周のお墓があります。(末尾に吉良氏の系図を載せておきますので、参照しながら読んでください)

時代的には、徳川家康〜綱吉時代の吉良家当主とその家族。なので「近世吉良氏の菩提寺」というのですね。

ところで、上の写真をよく見ると手前2つ(写真手前左右)と、奥の方の墓の形が違うなあと思いません?

手前の2つは忠臣蔵で有名な吉良上野介義央(手前右)と、後継ぎである養子義周(手前左)の墓です。長方形の墓石の上に屋根が載っており、奥の先代各位の墓とくらべると簡素ですよね。  時代の違いかとも思いましたが、同時代と思われる、義央の夭折した次男(三郎)の墓も奥の方の形と同型なので、この説は当てはまらないでしょう。

忠臣蔵の悪役にされましたので、世をはばかって形式を簡素なものに変えたという可能性はどうでしょうか?討ち入りのあと、吉良家は断絶させられており、資金難で簡素なものしかできなかったのかも。

あるいは、これは当時のものではなく、後世に遺徳を偲ぶために建てられた記念碑的なものかもしれません。領地吉良では、義央は名君として後世まで慕われていましたし。

そもそも、義央の遺体はここではなく江戸の萬昌院(移転統合して、現在は東京中野区にある萬昌院功運寺)に葬られました。江戸常駐の高家職である義央は、生涯に一度しか領地に戻っていませんから、それほど吉良の地に執着していたとは思えません。また、養子義周は赤穂浪士討ち入り後に諏訪に流罪とされ、諏訪湖畔の法華寺に葬られています。

と、書いてて思いましたが、高家となったのは義央の祖父である吉良義弥の代からですから、そもそも江戸常駐の方々の墓がここにあるは不自然ですねえ・・・

と思いいたり調べてみると、これらはすべて墓ではなく「供養のための石塔」だそうな。

慶長5年(1600)に吉良義定によって父義安の遺徳をしのぶため建立された華蔵寺は、吉良家の菩提寺と定められたという。高家に任ぜられた義弥が本堂西側の小高い平坦地に父・義定の供養のための石塔を建てて以降、歴代吉良家当主の石塔と子供たちの石塔をその周囲に建てて墓所を形づくった。このうち、義定・義弥・義冬・義冬の息女の4基は江戸の大名家の石塔によく用いられる東伊豆産の安山岩製の宝篋印塔である。・・・この墓所は義弥が墓所を定めて、国元の菩提寺として以来の景観を今にとどめており歴史的価値の高いものである。

華蔵寺吉良家墓所      西尾市

まあ国元の菩提寺。 言われてみれば、そういうものなのでしょう。でも、これ「墓」って書かれると、誤解すると思うけどなあ。

華蔵寺の訪問記はこちら、と池大雅の襖絵についてはこちらです。

③花岳寺

墓があるのは、  吉良尊義、吉良満義、吉良持廣三人です。  墓なのか、供養の石碑なのかはわかりません。      案内板によると以下の記載があります。

尊義公・・・父満義公とともに東條に入り東條吉良氏を興す。(花岳寺)塔頭霊源寺の開基也、霊源寺殿と号す。

満義公・・・京都館にて卒去、寂光寺殿と号す。

持廣公・・・華岳寺殿と号す。

号から、尊義と持廣は実際ここに葬られたのかもしれないですねえ。ですが、この二人は東条吉良家の初代と七代ですんで、その間の人々の墓はどこにあるんでしょう・・・  最初の方は京都(室町幕府)駐在もしていたでしょうが、応仁の乱以降は、領地にいたと思うんだけれど・・・

花岳寺の訪問記はこちら。関連記事、寺宝の天皇宸筆と東条松平氏の記事です。

歴代吉良氏の家系図を貼っておきます。緑が華蔵寺、赤が花岳寺に墓のある人々です。