生物と無生物のあいだ

※この記事には、誤りがふくまれていますので、眉に唾をつけてお読みください。

新型コロナウイルス、変異で感染力高まるが致死率低下も=専門家

シンガポール 18日 ロイター] – 欧州や北米、アジアの一部でよく見つかっている新型コロナウイルスの変異したタイプについて、感染症の専門家は感染力が強まる一方で致死率は下がっているとの見方を示している。
シンガポール国立大学のシニアコンサルタントで、国際感染症学会(ISID)のプレジデントに選出されたPaul Tambyah氏は、ロイターに対し、世界の一部地域での「D614G変異」のウイルス拡散が致死率の低下と一致している証拠があり、致死性が相対的に低いことを示唆すると指摘。「より感染力があるが致死率は弱まったウイルスの発現は良いことと言えるだろう」と述べた。
同氏によると、大半のウイルスは変異に伴い毒性が弱まる。「ウイルスは栄養を取り、生きていくためには宿主が必要。だからより多くの人に感染するが、感染した人を死に至らしめないのが、ウイルスにとって得だ」という。

REUTERS

日本もコロナウイルスの再感染が広がっていますが、この記事にあるように「感染力はあるが致死率が弱まっている」と良いですね。まあ感染者の増加に伴い、重症者数は増えてきているわけですけど。

この記事が正しいのか、一つの説なのかは分かりませんが、ここで取り上げたのは、この部分が引っかかったからです。

「ウイルスは栄養を取り、生きていくためには宿主が必要。だからより多くの人に感染するが、感染した人を死に至らしめないのが、ウイルスにとって得だ」

生物が生き残るため、あるいはより多くの子孫(遺伝子)を残す、つまりより多くの人に感染させるため、宿主を重傷化し引きこもり寝込ませるのではなく、軽症や無症状で歩き回ってもらうのが上策(笑)。ですから、上記の方向に変化?進化?していくという合目的的説明は理解できる んですが・・・

例:梅毒は細菌によって引き起こされる感染症で、中世ヨーロッパで大流行を起こした際は急性の感染症で感染力が強く、致死率も非常に高かったそう。でも、その後50年ほどの間に変化を起こして病原性は弱まり、進行の遅い慢性の病気に変化したそう。→日本でも、江戸時代には遊郭を通して蔓延し、江戸の感染者は人口の5割とも7割ともいわれている。    PHP研究所「歴史をつくった7大伝染病」より

でもウイルスって生物じゃないんです。生物じゃない、いわば「モノ」が、そういう意思?を持って変異するのか、そして、そのような説明は妥当なのか って思ったのです。

確かに、宿主である人間にとっては、「それが生物で、生物が合目的的な方向への進化によって遺伝子に変異が生じた※」 という説明は分かりやすいです。でも、「モノ」に意思はないですよね。極端な例を出すと、iphoneの進化は人間が改良した結果であり、決してiphone 自体の意思で進化したものではないですよね。

ウイルスが「生き物」なら、話は分かりやすいんだけど。てか「生物」ってなんだろ?まあ実際のところ、そのあたりは言葉の定義の問題であり、現象の説明と言うより哲学の問題に近いのかな。おそらくウイルスは言葉の定義として「生物」ではないけど、「きわめて生物に近いモノ」だから、そのような説明もできる ってことなんかなー。

てなことを考えてたら、自分の本棚に同タイトルの本があることを思い出したのです。

講談社現代新書「生物と無生物のあいだ」福岡新一(2007)

本の中には、まんま「ウイルスは生物か?」 という小見出しもあるのです。

 生物(遺伝子)を巡る研究と、「生物」を巡るやや哲学的?思想的?な論述がうまく融合してて、言葉の定義ではなく、やや思想的な意味で「生物ってなに?」って思った僕は読んでて面白かったので、良かったらどうぞ。 2007年出版の本で、コロナウイルス特需本ではありませんよー。

では紹介として寂しいので、関連した本の一節を引用しておきます。

ウイルスを生物とするか無生物とするかは長らく論争の的であった。いまだに決着していないといってもよい。それはとりもなおさず生命とは何かを定義する論争でもあるからだ。本稿の目的もまたそこにある。生物と無生物のあいだには一体どのような界面があるのだろうか。私はそれを今一度、定義しなおしてみたい。 

結論を端的にいえば、私は、ウイルスを生物であるとは定義しない。つまり、生命とは自己複製するシステムである、との定義は不十分だと考えるのである。では、生命の特徴を捉えるには他にいかなる条件設定がありえるのか。生命の律動?そう私は先に書いた。このような言葉が喚起するイメージを、ミクロな解像力を保ったままできるだけ正確に定義づける方法はありえるのか。それを私は探ってみたいのである。

同著P38

著者は分子生物学を専門とする生物学者だけど、同じ分子生物学を専門としていても、例えば利根川進氏(ノーベル賞受賞者)とはずいぶん違う生物観を持っているんだなあ という印象も受けました。後者の本は昔読んだだけだけで印象だけなんだけど、思考的にもゴリゴリの「生物機械論」的だった記憶があるなあ。

追記:読者のYさんから指摘を頂きました。

「それが生物で、生物が合目的的な方向への進化によって遺伝子に変異が生じた」は間違いです。結果的に適応的な表現形を持ったものが生き残るだけです.なので、ウイルスも生物も、結果的に同じような進化するのは、不思議では無いです。

はい、おっしゃる通りでございます。

僕の進化論の理解が不十分で間違ったうえで書いた記事なので、本当は消去すべき かも。 

でも、上記の誤った説明は「実は正確ではないのだけれど、理解しやすい説明であるため、そのように理解されやすい典型例」だと思います。(そう指摘した当の本人が、見事にそのドツボにはまっているんだから)そんな失敗の事例として残しておきます。

無知を晒すようで恥ずかしいんだけど、自分への自戒も込めてね。 

洪水被害を低減するため、まずは野焼きを解禁したら?

すべての一級水系で住民含めた協議会設置へ
 「国交省だけでなく、他の省庁や自治体、企業、国民1人ひとりの力を結集し、防災・減災の視点を定着させることが重要だ」。球磨川の水害直後に開かれた国交省の防災・減災対策本部第2回会合で、赤羽一嘉国土交通相は力を込めた。 

防災・減災対策本部は1月、国交省が気候変動に伴う水災害リスクの増大に備えて設置した。第2回会合の議題は流域全体で治水に取り組む新プロジェクトの取りまとめ。全国の一級水系ごとに地元を含めた協議会を設置し、2020年度末までに流域治水の方向を固めることが決まった。

多発する“豪雨”にどう立ち向かう? 国交省の「流域治水」に課題山積のワケ ビジネスIT

協議会を立ち上げて、いろいろ協議するのはいいのですけど、それ前に一言。

まず河川敷でジャングル化している樹木を伐採して、洪水時に水が支障なく流れるようにしてください!

洪水(川の氾濫)と言うのは、上流から流れて来る水の塊を、川(堤防に挟まれた間)で下流に流せられる限り発生しません。堤防が壊れたり、 流れて来る水の塊(「流量」って言います)が、 川が流せる水の量(流量:m3/s;川の断面積(m2)×水の流れの速さ(m/s))を超えると発生します。

なので、川の中で樹木が「わさわさ」生えてくると、だんだん川の断面積が小さくなってしまい、流せる水の量が減り、洪水が発生しやすくなるのです。

 いま、川を眺めていると、昔と比較してずいぶん川に木が茂っている というか、ジャングル化してますよね。 まず、あれを切ることで、本来の川の「流せる能力」を取り戻すことが必要じゃないかと。 

某河川の航空写真(google map)。 堤防の間、半分くらいはジャングル化して、相当川の水を流す能力が落ちています。こういう河川は日本中いたるところにあります。

 ここまでの話は、川の流域に住んでいる人も、川を管理する人(河川管理者)もみんな賛成する話です。 と言うか、河川管理者は「こんなに樹木が繁茂しているとヤバいな」とみんな危機感を持っています。では、なぜ伐採しないのか?

ズバリ、予算が無いからです。

「そんなバカな。それって誰が考えても必要経費だろ。予算がないとか馬鹿なこと言わず取ってこい、さっさとやれ」 まさに正論ですが、それができないのが日本と言う国なのです・・・。(僕も河川管理者やってた時、地元の人に言われたことがあります。ホントにその通りだと思うけど、誰の反論もない正論だからって予算は増えないんです。事例は違うけど、日本と言うのはこういう国なのでね。↓)

気象庁ホームページに民間広告掲載へ 背景に厳しい財政状況

気象庁はホームページに民間の広告をはじめて掲載することになりました。専門家は「今後も災害が想定される中、民間資金に頼らざるをえない状況自体が問題で、国は財政基盤をしっかり担保するべきだ」と指摘しています。

NHK

誰もが「国は財政基盤をしっかり担保するべき」に賛成だと思うんですけど・・・

まあそんなこと言ってても仕方がない。与えられた少ない予算で、出来るだけたくさんの河川内樹木を伐採するのはどうしたらいいか考えました。

樹木伐採それ自体は、そんなに大変じゃありません。チェンソーで切ればよろしい。(作業の危険はありますが)でも、川の中に伐採した樹木をそのまま置いておくわけにはいきません。洪水とともに樹木が住宅地に流れ込んだら大惨事になる凶器です。 片付けないといけません。

木を切る以上に多くの予算を必要とするのは、伐採した樹木を安全な場所(例えば処分場)まで運搬する費用と、廃木の処分費です。 予算の大部分をその費用として取られ、伐採できる面積はとても小さくなり、一年に樹木が繁茂する面積にとても追いつかないのが現状かと。

それなら、樹木は河川内の条件の良い場所に集め、そこで焼却処分したらいいじゃないか と思いませんか? これなら処分費はかからないし運搬距離も短くて済みます。 

これって、実は昔、川の堤防の草を刈った時の処分法です。今はできないのですが。

「廃掃法」(廃棄物の処理及び清掃に関する法律)が改正され、野焼きが原則全面禁止されたことに伴い、この処分法は行われなくなりました。理由はダイオキシンの抑制とCO 2 の抑制による温暖化の防止。

その結果、堤防の草刈りに何が起こったかと言うと・・・少し前まで年に2回やってた草刈りが、今や年1回に減りました。堤防の草刈りは、草を刈って堤防法面が目視できるようにし、クラックの有無や陥没、法崩れがないか堤防の安全確認を行うのが目的です。堤防があってヒビが入ってたら、洪水の時堤防が保ちませんよね。

なので、堤防除草の回数は多いほうが良いに決まっています。少なくとも年1回で十分とはとても言えないです・・・でも、無い袖は振れない ってのが現状。

ダイオキシンの抑制やCO 2 の抑制による温暖化の防止と言うのは、もちろん大事な事です。

それでも、これだけ河川災害が頻発し、処分費だって適正に支出されない現状を鑑みると、堤防の点検や川の「流せる能力」を維持していくため、ダイオキシンをある程度排出させても(混じっているゴミの分別をすることで、かなり発生は抑えられると思うけど)、温暖化を進行させたとしても、伐採した河川内樹木や堤防の刈草を焼いて処理し、浮いた処理費を伐採面積や除草回数の増加に使い、洪水被害を小さくできるよう川や堤防の能力を維持していくこと を優先せざるを得ない と考えます。

 寡聞にしてそのような分析は見たことないのだけど、だれか分析してないですかね?