選挙に思うこと。

市長と市議会議員選挙が告示されました。日程的には、告示日が6月18日で、投票日が6月25日。選挙運動が実施されておりますが・・・ 政策というか、議員になってやりたいことを聞いて投票したい僕としては、いろいろ選挙活動に申したいことがあります。

1.選挙での選挙カーと拡声器の使用を禁止にしてほしい。

朝から夜までウルサイ。うるさいことは候補も分っているらしく

「〇〇町の皆様、お騒がせしております。市議会議員に立候補した○○でございます・・・」と拡声器で言ってるくらいだから。当たり前だけど、名前と一票よろしくを連呼するのみで、 誰も政策を言わない。まあ言っても聞かれないだろうから、当たり前だけど。

候補者さんも暑い中(大雨きそうだし)大変だし、こういうのは談合してみんなで辞めるといいと思うな。資金も節約できるしね。一度誰か、選挙カーで連呼するのと、例えば戸別訪問するのとで費用対効果と、ご町内の皆様の迷惑度を検証してみたらどうかね? いや、選挙は汗をかいてナンボ という声もあるんでしょうけど。

名前と、投票よろしく だけで政策も分らないのに、誰が投票を決定するのか? と思うのだけれど、まあこれが有効だからやってるんだろうね・・・※

2.選挙ポスター張るのを禁止にしてほしい。

ポスター

景観を損ねることこの上なし。 僕的には候補者の名前と顔を一致させる必要性がないので、見る必要もない。 つーか、こんなデカイ掲示板、造るだけで税金がかかるでしょうに。各家庭に選挙公報が来るんだから、そこに写真が載ってれば十分じゃないですか?

候補者も、名前をひらがなで表示するか、漢字にするか、どのくらい混ぜるか悩まないでも済むし。

3.選挙公報、HPには瞬時にアップしろよ

HPを見てみると・・・「選挙公報・・・6月21日以降に掲載する予定です。」これが一番大事だと思うのに、なんでそんな時間がかかるかね。そりゃ印刷するのに時間がかかるのはわかる。でもHPなら候補者の写真を撮るときに、各候補からフォーマットを統一した用紙に文書を書いてもらって、データで出してもらったものをそのまま掲示すれば、一人数分でできるのに。文責や公職選挙法に違反しているかどうかは、自己責任でやってもらえばいい。それも選挙に直結するし。

 

※身近にも、「うちの〇〇地区からは何人出てるんだ?」ということを気にする人がいますが、まあそれが普通なのかな。そんなことより僕的には「政策として何をしたいか」に賛成できるかが一番。極論すれば政策に共感すれば、僕は火星人にだって投票します

(立候補の権利があるのかわからないけど。市内に住んでて住所があればいいのかな?あ、でも火星人だとたぶん住所不定だし、成人かどうかの判断がつかないから、だめなんか。)

そのうえで主張がバッティングするなら、若いことと、女性であることが考慮に上がるかなあ。

何せ女性は候補35人のうち4人しかいないですから。候補者の段階で11%ですがな。これが当選者の割合になると・・・いったいどのくらいに減っちゃうんだろ?大体一般的には人口のうち半分くらいが女性だと認識しているので、議員の割合もそのくらいになるといいと思いますね・・・(片方の性別が極端に偏っている集団では、やっぱり考え方も偏ると思うし。年齢構成もしかり)

 

訂正:候補者の中で、女性を3名。女性比率を9%弱としていましたが、正しくは4名、11%でした。訂正させていただきます。

 

西尾の文化財(12) 岡山周辺 【下】

昨日の上編の続きです。

岡山全体図
追加 地理院地図(標高図) 若山古墳のある山は割愛。

④堯雲寺

堯雲寺

堯雲寺

住職のいないお寺です。建物は普通の民家みたいですけど、注意してみると軒先に鐘がぶら下がっているので、お寺かな?とわかります。

なんの変哲もないお寺ですけど、ここには、徳川家康の伯母である俊継尼の菩提寺で、その墓が残っているのです。そんな人が眠っている墓所なのに、無住とは・・・

お墓

上の系図で、□で囲った人ですね。寺の縁起看板によると・・・義安が駿河で亡くなった後※、義定を連れて吉良に帰ってきた。家康はこれを知り、伯母の俊継尼と義定のために瀬戸に200石を与え吉良家を再興させたそうです。「堯雲院殿俊継貞英大姉」

※統一吉良家の当主だったが、今川氏と仲が悪く、今川義元に人質として駿河に連れていかれた。家は弟義昭が継ぐが、徳川家康との戦いに敗れ吉良家はいったん断絶します。なお、この時代の吉良氏は、同族の今川氏とすごく近い親戚関係になっています(今川氏が主君筋)。その勢いで徳川氏ともっと婚姻関係を結んでおけば(無理かな)、もっと発展したかも・・・ま、家柄的には松平家より「格上」なので無理な話かもしれません。あるいはそういう名門意識が、赤穂事件には悪い方向に働いたかもしれません。が。それはのちの話。

本堂裏の感じとか、鎌倉の古刹にも似て?、磨けば風情ある地だと思いますが、惜しい・・・

本堂うら

竹藪の中に小道があり、徒歩なら昨日紹介した岡山八幡宮へ抜けることもできます。あるいは八幡宮の神宮寺だったのかもしれません。

竹藪の道

⑤岡山陣屋跡

さて、先ほど述べた「俊継尼と義定のために与えられた瀬戸200石」ですが、これを統治するため「岡山陣屋」が置かれました(当初は館があったようです)。旗本吉良氏の領地管理の要ですな。今は門構えが残るだけ(再建でしょう)。また、このあたりの地名は「殿町」です。

岡山陣屋跡

義定は瀬戸に200石、鳥羽に300石、合わせて500石与えられたそうです。鳥羽って、西幡豆の鳥羽ですかね?(西尾市内です) その後の吉良氏は息子の義弥の代に3000石+高家職、さらに孫の義冬の時代に4000石となりました。そのあとはね・・・

⑥西林寺

道路を渡って瀬戸にはいります。

西林寺

このお寺も無住ですね。門前にシイの木が残っています。根回り6mほど。この辺りはスギやシイが生い茂る林になっており、このシイが西端に当たるため、西林寺なんだそうな。 この木は市の天然記念物です。

大椎

このお寺の境内(というか瀬門神社の境内なのかしら?)には、南極探検家である白瀬矗(ノブ)氏のお墓があります。

お墓

彼は秋田県にかほ市の出身で、西尾市と直接の関係はありません。南極探検(政府援助が一切ない民間の探検)のあと、莫大な借金を抱えた彼は、全国(海外も含め)行脚して講演を行い借金を返し、豊田市で死去。奥さんは娘さんを連れて瀬戸へ移住し死去。娘さんは両親の墓を西林寺に埋葬して東京へ移住されたそうです。

墓域には、いろいろなものが展示してあります。南極観測船「しらせ」のスクリューの一部(チタン合金製だそうです)、西尾市教育委員会から「吉良の子」らへあてた訓告看板。白瀬氏の南極探検で待機したオーストラリアウラーラ市の看板(の複製)など。

オーストラリアの看板
南極観測船「しらせ」スクリュー(一枚)
吉良の子らへ

白瀬氏の南極探検は資金難で、南極に向かうために購入した開南丸は、わずか200トンの中古帆船で、それに18馬力のエンジンをつけただけだったそうな。現在の200トンクラスの船につけるエンジンは最低でも200馬力はあるそうで、これはほぼ帆船ですな。それで南極まで行っちまうんだからすごいというか、恐ろしいというか。  同じ時期に南極を目指した人たちが、こんな船で・・・と驚嘆した(「ジャップはクレイジーだ」が正解だと思うが)とか、無理じゃね?と判断した政府は資金を出さなかったとか、まあ成功したからあれですけど、確かにクレイジーですなぁ。

が、この貧乏南極探検において、一人の死者も出さなかったのは、南極点にははるかに及ばなかったとはいえ、特筆すべき偉業です。

⑦瀬門神社

不思議な名前ですなぁ。 寺の由緒はよくわかっていませんが、源頼朝が、奈良東大寺の再建のため上洛するにあたり参拝、本殿を修復した そうです。その後、徳川家康が、近くの東条城攻略のため(城主は先ほど出てきた吉良義昭ね)戦勝祈願した とか結構有名人の名前がちらほら。

秋の祭礼で馬駆けをやるそうで、馬具が県の文化財に指定されているそうです。

あと、この神社はどうも弓道に縁が深いようです。拝殿には、的中(弓道で射った矢がすべて的に命中すること)したときに奉納した「金的中」の額がいっぱい奉納されていましたし、さびれていましたが、的を置く的場がありますもの。

金的中
的場
神社から見た城山(矢印・東条城)

てな感じで、岡山探訪を終わります。

西側からみた「岡山」丘陵