飛行機から景色を眺めながら 〜主に愛知県内〜

先日の北海道旅行の帰り、運よく窓際の席に座ることができました。で、何枚か写真を撮ってきたので、それを少しアップしますね。景色を眺めながら、よしなしごとを考えるのは、楽しいひと時です。それが空からの眺めならなおさら。

御嶽山 2019.02.13

御嶽山です。(標高3,067m) ちなみに標高3,000mを超える山としては、国内で最も西に位置しています。2014年9月に噴火し、登山客58名が死亡した災害は、まだ記憶に新しいところ。 今は山頂も雪を頂き何も見えず、 静かなものです。でも活火山です!

矢作川乙川合流点(岡崎)

愛知県は岡崎上空。中央やや上を右から左に流れるのが「矢作川」そのやや下から合流しようとする川が支川「乙川」です。写真の右端、乙川の右岸側に見える緑のこんもりした丘が、岡崎城公園です。

昔の矢作川は暴れ川でしたので、もう少し川幅が広く城に近かったと思われます。例えば、江戸時代に描かれた岡崎のイメージはこんな感じ。

広重「東海道五十三次」岡崎

矢作川に掛かる橋から見た岡崎城っす。背後の山はどこだよ〜(これは広重のイメージなんで、実際にはこんな山は見えませんよ)

と、ともかく上の航空写真の上側から下側を眺める方向です。いずれにせよ、岡崎城と言うのが、矢作川と乙川の水運を押さえるために築かれたことが分かるかと思います。

現在では舟運は東海道や鉄道に変わりましたけど、それらにも恵まれこの辺りは見渡す限りの住宅密集地に変貌しました。まあ岡崎市街のどまんなかです。西尾からみたら、岡崎は大都会(笑)。

それにしても、矢作川を航空写真で見ると「ずいぶん河原の多い川だな」という感想を持たれるのではないでしょうか。

実は矢作川、典型的な「砂河川」としてその筋では有名なんです。土砂供給が多いのね。これでも矢作ダムや多数の発電や利水の堰ができたおかげで砂が堰き止められて供給量が減り、建設用の良質土として大量に掘削された後の姿ですけどね。流域の小学生は「どこに掘削穴があるか分からず危険だから、矢作川に近づく(遊ぶ)んじゃありません」と指導されました。これ、僕の体験談です。

ちなみに矢作川は中下流部に広がる砂の美しさから「美河」とも呼ばれているんだとか。( 定説の無い「三河」の由来の一つだと思います)

白い砂浜とアースワーク
矢作川流域の地質の大部分は領家花崗岩類からなっています。地表の花崗岩は雨や風の影響によって1つ1つの鉱物に分解され、崩壊しやすく流出土砂が多いため、矢作川は典型的な砂河川となっています。
矢作川は中下流部に広がる砂の美しさから「美河」とも呼ばれています。
矢作橋の右岸付近では、昭和44年(1969)に開始された砂の創作活動(アースワーク)が毎年5月に開催されています。

国土交通省 矢作川
佐久島

こちらは三河湾に浮かぶ佐久島(西尾市)です。島の全景が撮影できるとよかったのですが残念。2月22日(ネコの日)に公開される映画「ねことじいちゃん」岩合光昭監督 のロケ地として、間もなく大ブレークする予定です(笑)。歴史のある観光の島でもあります。なお、文化財を中心に歩いた僕の旅行記はこちらをご覧ください。

この島、大まかに言って「へ」の字の形をしてるんですが、その各辺にそれぞれ集落があって、真ん中には何もない(学校、中部電力発電所、JAとかの公共機関のみ)のよね。 集落内は家屋が密集してんのに、なんで空っぽの中央平地を使わなかったのかなあ?

たぶん、中央部の海が遠浅で、生活の糧となる港が造りにくかったんだと思うな。だから中央部に海水浴場がある(写真中央の湾曲した突堤が海水浴場です)が、現代ならもう少しそのあたりを活用してもいいと思うなあ。

内海

中部国際空港のある知多半島。半島中ほどの内海町(正確には南知多町)あたりを撮影したものです。内海ってのは、先日亡くなった哲学者・梅原猛の故郷でもあります。町はずれの山裾に白く映ってる建物が内海中学校なんですけど、その付近に実家があります。もっとも、彼はこの中学には行かず、ココから二時間半かけて名古屋の私立東海中学校に通ったそうですけど。と、遠いなあ。

航空写真を見て「半島のくせにやたら丘陵が多いじゃねーか」と思われたことでしょう。

そうなんです!そのくせ知多半島には大きな川もないので、常に水不足の土地でした。昔はため池で我慢してきましたが(今でもため池は多い)、戦後「愛知用水」事業という大プロジェクトが世界銀行から融資を受ける国策として遂行され、知多半島にはるばる木曽川から水が送られたのです。 むかし「プロジェクトX〜挑戦者たち〜」でも放送されたね。

大きな河川が無く水不足であった知多半島地域への用水運動が愛知用水誕生の端緒である。水不足を溜池で何とかやりくりしていた知多地域は、1947年に大干ばつを受けて溜池が壊滅し大きな被害を受けた。これにより用水設置を求める運動が起こった。このうち、木曽川からの引水を計画したのが篤農家の久野庄太郎と安城農林高校教諭の浜島辰雄である。翌年には地元有志による「愛知用水期成会」が結成された。また久野・浜島は首相吉田茂へ陳情し、国の政策として用水路建設が進められることになった。

1950年には世界銀行による敗戦国復興開発融資を受け、アメリカ合衆国のシカゴに本社をおくコンサルタント E.F.A. (Erik Floor and Associates Incorporated) 社が設計・監理を担当し、進んだ土木技術、建設機械を用いることになる。

wiki「愛知用水」

ちなみにこの水、 知多半島先端の南知多町から海底導水管を通して先ほどの佐久島等の離島にまで送られています。島もずっと水が貴重品だったからね。ん?ってことは、佐久島集落の成り立ちは、歴史的に清水の供給源がどこに確保されていたか に依るのかもしれないな・・・。

ついでに、この用水が工業用水を供給できたことによって東海市に製鉄所が誘致でき、東海市付近の臨海部が工場地帯として発展する源にもなったんだな。

このように恩恵が大きい愛知用水なんですけど、知多半島は逆にこの用水しか頼れる水源がなく、将来に渡りこのインフラを維持せざるを得ないのも確かです。 半島には東海市や大府市、常滑市など日本には希少な、生産年齢人口が増加する若い都市が多いんですけど、将来的には大規模用水の維持修繕・改修費が重く伸しかかってくるんじゃないでしょうか。 流域外から余計なお世話ですけど。

これはおまけ。乗ってたエアバス330の着陸時の主翼フラップの展開状態です (左) 。前後のフラップを展開し、広い「/」の形の翼状態を取ります。 普段はフラップを収納し、狭い「ー」の形の翼状態になります(右)

主翼自体は高速向きのものとし、離着陸時での低速においては不足する揚力を補うため、主翼の最大揚力係数を増す装置が高揚力装置である。高揚力装置は以下のような方法を用いて揚力を増大させる。

キャンバー(翼の湾曲)を増やす
翼は気流を曲げることによって揚力を得ている。そのためキャンバーが大きければ揚力も大きくなる。初期の飛行機はキャンバーが大きな翼型を採用していたが、高速時には空気抵抗と揚力が過大になる。よって離着陸時など低速時のみキャンバーを増やす。

翼面積を大きくする
翼面積が大きければ、揚力もある程度は大きくなる。ただし翼面積が大きいと高速時には空気抵抗が大きくなる。よって離着陸時など低速時のみ翼面積を増やす。

wiki高揚力装置


西尾の文化財(21) 佐久島 八劔神社・阿弥陀寺等

先日機会を得て、佐久島に行ってきました。 標題の神社とお寺は文化財ですので、いつかは訪れるつもりでしたが、「渡船してまで、なかなかね」と灯台元暗し状態でした。船だから思いついて原付バイクで走ってく わけにもいきませんし。

ところが、つい数日前図書館で吉良町史を読んでたら以下のような興味深い記述を発見。

なお、幡頭神社から正面に見える羽豆神社を見通すと、その延長線上に伊勢の山並みが見られるが、それを地図で確認すると外宮に至ることがわかる。この三社が一直線上に並ぶことに、特別の意味があるのだろうか。

宮崎にある幡頭神社佐久島の八剣神社、師崎の羽豆神社は、みな尾張氏の祖である「建稲種命(たけいなだねのみこと)」を祭っています。

伊勢神宮は熱田神宮ともつながるけど、伊勢と三河(吉良・幡豆)とのつながり、なんと面白そうなテーマ。

なるほどね。            ※熱田神宮は江戸時代まで伊勢湾に近接(七里の渡し)

おおー。八剣神社に行きたくなって来た!。

都合よく「朋、遠方より来るあり、亦た楽しからずや」それでなんと「翌日は佐久島へ行きたい」と述べたもう。これって「鴨が葱を背負ってくる」例文かな? いや違います。正しくは「渡りに船」あるいは「求めよさらば与えられん」の好例かと。

翌朝、天気曇天ニシテ波穏ヤカナリ

渡船

ということで島に渡り、西港から寺のある東港を目指します。  島の人口は260人程度。1950年に佐久島村が一色町に合併した際は1600人ほどいたそうで、過疎の島ですね。そこで最近アートの島として売り出し、この日も若い人を中心にそれなりの散策の人もいたんだが・・・

アート・・・ねぇ・・・まあ一言だけ言っておこう。設置したらちゃんとメンテナンスしなさい!塗装が剥げてると台無しだから!

※追記。西尾市報(2018.3.1)によれば、同年2月4日の「黒壁運動」でボランティア140名の手できれいに黒く塗り替えられた街並みやアートが息を吹き返したそうです。行くならきれいなうちがチャンスだ!!

あとは魅力的な飲食店が欲しいところですが、正直島の人口と観光客数から考えると、なかなか厳しいなあ・・・。島の魅力はあり、悪くないとおもいますが、今一つってのが正直なところ。

西港付近(黒壁の残る古い町並み)

おひるねハウス

集落は細い路地が続く

 

 

 

 

 

メインロード(ほとんど家無し)

西集落 崇運寺

 

 

 

 

 

中央部小中学校がポツンと

 

 

 

 

 

 

体験マップ

島の構造はなかなか興味深いです。

それほど大きな島ではないけど集落と港は完全に西と東に分かれ、中央部に何もありません。正確には近代になって何もない中央部に東西を結ぶメインロードが通り、両方から来るのに便利だから小中学校、JA駐在所、中電、診療所ができたという感じです。したがって中央に住宅はほとんどありません。まあ中央部は地形的に港が造りにくかったのかもしれないですけど。wikiによれば

東集落には筒井姓が、西集落には高橋・藤井姓が多く、戦前までは集落間の通婚は皆無に等しかったとされる。

江戸時代の佐久島は他地域に比べて生活水準が高く、幕末時点でも瓦屋根を持つ民家がほとんどだったという           佐久島

ふーん。 ともあれ、お目当ての寺と寺院は東側にあります。

八劔神社(神明社と同居)

拝殿

八剣神社・神明社本殿は格子の中

残念ながら、文化財の本殿は格子の中で様子はわかりません。年一回のお祭りの時には拝見できるようですが。近くに阿弥陀寺もありました。

一応覗けましたが、遠いなあ・・・桃山時代の観音菩薩像だそうです。

西集落に崇運寺、東集落に阿弥陀寺と正念寺と3寺あるのですが、200人規模の島民で、正直これだけの規模のお寺の維持は困難でしょうね・・・

正念寺

と、途中書きかけていた、伊勢(ヤマトタケル関係)と三河(幡豆)とのつながりだけど、古代の尾張氏つながりだけでなく、

  • 吉良の饗庭御厨(あいばみくりや)は伊勢神宮領だったこと。
  • 吉良持広は松平広忠が松平一族の紛争で岡崎城を追放されるとこれを保護し、所領のあった伊勢国に招き入れたと伝わること。
  • 佐久島は吉田(豊橋市)と伊勢神宮の結節点としても栄えた。陸路4日が海路では最短半日で遠江国や三河国など近隣諸国からの参拝者に多く利用されたという。

等の点からも、かなり強固なものだったのではないかと。まあ今の我々が考える交通機関は自動車、トラックや鉄道が主でしたが、明治時代くらいまでは舟運が第一ですからね。

伊勢と三河とのつながりに関しては、ブログ「神社の世紀」さんが「ハズ世界」という概念を打ち出されていて、興味深いです。

 

 

※西尾市の辺りは歴史的には「吉良荘」でしたので、吉良町史は西尾市史でもあります。さらに、たいていの市史が辞書風なのに吉良町史は読み物で読んでて面白い。町史の記事をミステリー風に終わらせていいんす?と思う一方、それはそれでお茶目で大変よろしい。 まず読まれてナンボだしね。(そういう意味では、愛知県史は最悪。)