文化財は、室町時代の和鏡ですが、もちろん非公開なのれす・・・。
祭神は誉田別命(応仁天皇)と徳川家康。 徳川家康※が祭られたのは江戸時代に入ってからですから、後ほど書く大河内氏つながりですな。 ともかく家康を祭ったので、江戸時代の朱印地は三十五石と、旧吉良荘(このあたり)の神社としては最高だったそうです。
※その関係でしょう。wikiによれば、拝殿の扁額は、徳川家十六代当主、徳川家達によるものだそうです。
江戸末期、この神社の神官に、江戸時代の国学者「渡辺政香」が出たことで有名ですが、正直僕は「国学」ってよく分からないので、ここはパスします。『参河誌』を編集し、学者さんなので本をたくさん集め、それらの本が現在「寺津八幡書庫旧蔵本」として西尾市岩瀬文庫に納められています。とりあえず本好きにありがとね。
ここ寺津の地は「大河内氏」発祥の地で、後にその子孫の大河内正敏という人が、八幡宮の碑を建てたのです。「大河内氏」とか「大河内正敏」って誰だよ〜?
大河内氏は寺津城を根拠にした吉良氏の家老でした。その後吉良氏は衰退し大河内氏は同郷の伊奈忠次(初代関東郡代)に使え、江戸初期この家に麒麟児が生まれたのです。その麒麟児と叔父さんとの会話。
麒麟「ねえおじさん。僕は偉くなりたいんだ。だからおじさんの養子にしてよ。」
おじさん「ほえ?」
麒麟「おじさんの苗字は松平だろ。僕の大河内家は代官クラスにすぎないけど、松平なら徳川家連枝だから、僕の年頃なら、将軍家(徳川家)若君の小姓になれる。そのまま出世街道を突っ走れば、うまく行けば老中だってなれるかもしれないんだ。お願いだよう!」
おじさん「(カッコウの托卵みたいだが・・・。)この子供、自分と叔父の家の家格がちゃんと分かって賢い上、自分で卵売り込みに来るほど押しが強いし、出世してわが家名をあげるかもしれん。よし。その話乗った!君は今日から松平を名乗りなさい!」
ここまで露骨な会話があったかは知りませんが、売り込みはあったみたいですなあ。ともあれカッコウ(大河内三十郎)はモズ(松平家)の養子に入り、竹千代君の小姓になりました。 竹千代君が将軍になるかは微妙な時期もありましたが、なんとか成功。これは三代将軍家光と側近の老中松平信綱の物語です。つまりこのカッコウっ子、政治の天才で幕藩体制を確立した「知恵伊豆」です。島原の乱を鎮圧したことでも有名。
モズ叔父さんの名前は松平正綱といいます。松平氏はたくさんいるので、出身の地名を取って長沢松平氏と呼ばれていたのですが、あまりに信綱が有名だったので、その後は大河内松平氏と呼ばれる家になるのです。ねえモズさん、これで良かったの? まあ雀が心配することじゃないけどさ。(家格の高い家が、家格は低いが有能な若者を養子にするのは、よくあった話です。)
そののち明治時代に、大河内松平氏は、苗字を大河内に戻します。時はすでに徳川氏の時代じゃないので、徳川家の連枝である松平の苗字だと、いろいろあったんでしょうね。 (同様の例、大給松平家・松平 乗謨→大給恒 に改名。)
その子孫として明治11年に生まれたのが大河内正敏さんです。東京帝国大学工学部造兵学科卒業。
造兵学科って楽しそうだなぁ。その後精密工学課に改編されたそうだから、特化した機械工学科みたいな感じだったんでしょうね。兵器造りって、倫理的にどうかはさておけば、エンジニアなら絶対楽しいと思うね。限界の性能を追求するため、予算はある程度無視できるし・・・オスプレイとか機構的には革新的じゃん。 まあその分無理してるから、墜落する危険性高いけどさ・・・当時は富国強兵の時代ですから、むしろ褒められる選択肢だったわけね。
閑話休題。その後帝大の教授になった彼は、やがて理化学研究所の所長になり、研究成果の事業化を目的に理化学興業株式会社とかいろいろ会社を興し、新興財閥「理研コンツェルン」の総裁になります。ここで稼いだ金で広い分野の研究者たちの自由な研究を支え、理研は研究者の楽園とも言われました。 有名人だけあげても、鈴木梅太郎、寺田寅彦、中谷宇吉郎、長岡半太郎、嵯峨根遼吉、池田菊苗、本多光太郎、湯川秀樹、朝永振一郎、仁科芳雄、菊池正士などなど。
が、戦後の大学紛争で「産学共同体粉砕!」と粉砕され・・・ 筆が滑りました。理研は戦前、仁科研究室など原爆研究の中心だったこともあり、大河内所長は戦争協力者として戦犯指定+公職追放。理研グループは解体されました。
そういえば、理研の建築工事の多くを受けていたのが、田中土建工業。社長は田中角栄。
えーと、碑に戻ると「正三位勲二等 工学博士」と誇らしげに書いてありましたから、少なくとも戦前に建てられた碑ですね。戦後公職追放されてからでは、とても建てられないし。