岡山 小一時間散歩

以前にも紹介しましたが、またふらふらと一時間ほど「岡山」を散歩してきたので紹介します。 (岡山県じゃないよ。西尾市吉良町岡山ね。)この丘陵のふもとにお世話になっているバイク屋がありまして、すり減ったタイヤの交換の間にお散歩した次第です。  まあ僕の生活圏内にある名所、みたいなとこです。

岡山は、幡豆山地が西側の平野に突き出した丘陵の先端部です。現在は交通の便のため掘割りされ道路(42号)が通されているので、独立丘陵のように見えます。 google mapの航空写真で、「スカイウェイブ21」と「黄金堤」の下側に見えている丘陵です。

南側から見ると、こんな感じ。↓

地の利があったのでしょう。弥生時代末期の遺跡があったり、古代の古墳あるいは中世の墓地跡が確認されました。ただし丘陵の北側は大規模な土砂採取により失われ、現在は大規模工業用地として利用されている関係上、あんまり「遺跡」としては残っていないですが。(下の看板図で、茶色に着色された部分は土取されたところ、緑色が現在も残る丘陵部です)。

まあ今も吉良氏にゆかりのある華蔵寺・花岳寺・尭雲寺や八幡山古墳なんかが残っています。詳しくは以前の記事を読んでね~。

んで、華蔵寺です。 毎朝、門前を通勤のために通るのだけれど、いい雰囲気ですよね~。

ここは忠臣蔵で有名な吉良上野介のお墓があるんですけど、今回は省略します。んで、彼を含めた吉良一族の墓地の中に、「キリシタン灯篭」ってのがあるんですよね。↓です。 

真ん中の丸い部分には、不思議な記号が彫られていて(横転するとLhqとも読める)下部には極端にデフォルメした人物像が半ば埋められるように彫られていて・・・まあ、いろいろ妄想を広げられそうな灯篭ではあります。

前から気になってたんですけど、これってどういうものでしょう?そして、この灯篭とキリスト教は何か関係があったのでしょうか? 

検索してみると中二病的解釈やらいろいろ出てきますが、一番「まともそう」な解説は、京都府立京都学・歴彩館に寄せられた質問に対するレファレンス回答のものでした。 関心ある部分だけ引用します。

キリシタン灯籠は、『国史大辞典』の第4巻のp436によると、庭に用いた石灯籠で、その一種に織部灯籠と呼ばれるものがあり、古田織部の考案というが確証はないと記載されている。また、大正末期頃から潜伏キリシタンの礼拝物とする説が生じたため、キリシタンと関係のある灯籠としてキリシタン灯籠と呼ばれるようになったとある。
古田織部との関わりから、『角川茶道大事典;本編』で「織部灯籠」を調べたところ、p241~242に「人物像をマリア像やキリスト像と見たて、異形文字をキリストの種子と解して、キリシタン灯籠ともよばれるが、キリスト教との関係は明らかでない」と記載されていた。

京都にあるキリシタン灯篭の場所を知りたい。

事典や辞書的には、キリスト教との関連うんぬんは大正時代に流布した説のようで、「鬼滅の刃」みたいな「お話」ってことですか。でもまあ、「不思議なデザイン」ではあります。

ここから花岳寺を経由して尭雲寺へ。花岳寺は東条吉良氏の菩提寺ですが、このネタもパス。あとこの寺には、岡山で発掘された中世の墓(善光寺沢遺跡)が復元されてます。

隣には、現代の永代供養墓園が作られており、なんかいろいろ考えさせられます(笑)。いや、我が家も僕にも妹にも子供がおらず将来的には断絶するから、今ある墓を永代供養墓に移すことを考えないといけないのだろうな。

尭雲寺  ここは無住の寺ですが、周りの竹藪がきっちり管理されてて、ちょっと感じいいのよね。 写真だと見にくいけど、切った竹がきちんとした「竹垣」みたいに片づけてあったりして。これ大変な労力かけてますよ!

この建物しかないので、これが本堂 だと思います。入口に梵鐘も釣ってありますんで。ここは徳川家康の伯母である俊継尼の菩提寺です。

墓の隣の小道を通って竹藪を奥に進むと・・・

岡山山頂付近?にある八幡宮前に出ます。 

社殿の奥には木々に覆われた八幡山古墳が鎮座していますが、やぶ蚊だらけでしょうから今日はパス。華蔵寺に戻って一時間強のお散歩を終わりにしました。 (寺近くにミニストップがあるので、アイスコーシーなど飲んで一息つけるよ♡)

西尾の文化財(12) 岡山周辺 【下】

昨日の上編の続きです。

岡山全体図

追加 地理院地図(標高図) 若山古墳のある山は割愛。

④堯雲寺

堯雲寺

堯雲寺

住職のいないお寺です。建物は普通の民家みたいですけど、注意してみると軒先に鐘がぶら下がっているので、お寺かな?とわかります。

なんの変哲もないお寺ですけど、ここには、徳川家康の伯母である俊継尼の菩提寺で、その墓が残っているのです。そんな人が眠っている墓所なのに、無住とは・・・

お墓

上の系図で、□で囲った人ですね。寺の縁起看板によると・・・義安が駿河で亡くなった後※、義定を連れて吉良に帰ってきた。家康はこれを知り、伯母の俊継尼と義定のために瀬戸に200石を与え吉良家を再興させたそうです。「堯雲院殿俊継貞英大姉」

※統一吉良家の当主だったが、今川氏と仲が悪く、今川義元に人質として駿河に連れていかれた。家は弟義昭が継ぐが、徳川家康との戦いに敗れ吉良家はいったん断絶します。なお、この時代の吉良氏は、同族の今川氏とすごく近い親戚関係になっています(今川氏が主君筋)。その勢いで徳川氏ともっと婚姻関係を結んでおけば(無理かな)、もっと発展したかも・・・ま、家柄的には松平家より「格上」なので無理な話かもしれません。あるいはそういう名門意識が、赤穂事件には悪い方向に働いたかもしれません。が。それはのちの話。

本堂裏の感じとか、鎌倉の古刹にも似て?、磨けば風情ある地だと思いますが、惜しい・・・

本堂うら

竹藪の中に小道があり、徒歩なら昨日紹介した岡山八幡宮へ抜けることもできます。あるいは八幡宮の神宮寺だったのかもしれません。

竹藪の道

⑤岡山陣屋跡

さて、先ほど述べた「俊継尼と義定のために与えられた瀬戸200石」ですが、これを統治するため「岡山陣屋」が置かれました(当初は館があったようです)。旗本吉良氏の領地管理の要ですな。今は門構えが残るだけ(再建でしょう)。また、このあたりの地名は「殿町」です。

岡山陣屋跡

義定は瀬戸に200石、鳥羽に300石、合わせて500石与えられたそうです。鳥羽って、西幡豆の鳥羽ですかね?(西尾市内です) その後の吉良氏は息子の義弥の代に3000石+高家職、さらに孫の義冬の時代に4000石となりました。そのあとはね・・・

⑥西林寺

道路を渡って瀬戸にはいります。

西林寺

このお寺も無住ですね。門前にシイの木が残っています。根回り6mほど。この辺りはスギやシイが生い茂る林になっており、このシイが西端に当たるため、西林寺なんだそうな。 この木は市の天然記念物です。

大椎

このお寺の境内(というか瀬門神社の境内なのかしら?)には、南極探検家である白瀬矗(ノブ)氏のお墓があります。

お墓

彼は秋田県にかほ市の出身で、西尾市と直接の関係はありません。南極探検(政府援助が一切ない民間の探検)のあと、莫大な借金を抱えた彼は、全国(海外も含め)行脚して講演を行い借金を返し、豊田市で死去。奥さんは娘さんを連れて瀬戸へ移住し死去。娘さんは両親の墓を西林寺に埋葬して東京へ移住されたそうです。

墓域には、いろいろなものが展示してあります。南極観測船「しらせ」のスクリューの一部(チタン合金製だそうです)、西尾市教育委員会から「吉良の子」らへあてた訓告看板。白瀬氏の南極探検で待機したオーストラリアウラーラ市の看板(の複製)など。

オーストラリアの看板

南極観測船「しらせ」スクリュー(一枚)

吉良の子らへ

白瀬氏の南極探検は資金難で、南極に向かうために購入した開南丸は、わずか200トンの中古帆船で、それに18馬力のエンジンをつけただけだったそうな。現在の200トンクラスの船につけるエンジンは最低でも200馬力はあるそうで、これはほぼ帆船ですな。それで南極まで行っちまうんだからすごいというか、恐ろしいというか。  同じ時期に南極を目指した人たちが、こんな船で・・・と驚嘆した(「ジャップはクレイジーだ」が正解だと思うが)とか、無理じゃね?と判断した政府は資金を出さなかったとか、まあ成功したからあれですけど、確かにクレイジーですなぁ。

が、この貧乏南極探検において、一人の死者も出さなかったのは、南極点にははるかに及ばなかったとはいえ、特筆すべき偉業です。

⑦瀬門神社

不思議な名前ですなぁ。 寺の由緒はよくわかっていませんが、源頼朝が、奈良東大寺の再建のため上洛するにあたり参拝、本殿を修復した そうです。その後、徳川家康が、近くの東条城攻略のため(城主は先ほど出てきた吉良義昭ね)戦勝祈願した とか結構有名人の名前がちらほら。

秋の祭礼で馬駆けをやるそうで、馬具が県の文化財に指定されているそうです。

あと、この神社はどうも弓道に縁が深いようです。拝殿には、的中(弓道で射った矢がすべて的に命中すること)したときに奉納した「金的中」の額がいっぱい奉納されていましたし、さびれていましたが、的を置く的場がありますもの。

金的中

的場

神社から見た城山(矢印・東条城)

てな感じで、岡山探訪を終わります。

西側からみた「岡山」丘陵