安城 本證寺

本證寺(ほんしょうじ)は、愛知県安城市野寺町にある真宗大谷派の寺院です。野寺本坊とも呼ばれています。写真を見て分かるように、堀を備え、櫓を備えた城郭寺院(城郭伽藍)です。なにせ町の名が「野寺」です。

本坊というのは、このお寺が岡崎の上宮寺、勝鬘寺と並ぶ三河三ヶ寺と呼ばれ、本願寺教団(現在の浄土真宗本願寺派)の三河拠点として、この辺りの本願寺派を統べていたから。蓮如の孫が住持を務めるなど、格式の高い寺でした。

本願寺派は三河で熱心に布教し、またこのお寺は先回ブログに取り上げた安祥城にも近く、安祥松平氏(徳川宗家)の家臣団は熱心な本願寺門徒でした。 家康の父親である広忠の時代には不入特権(広い意味での自治権)を与えられ、領主である安祥松平氏と共存していました。

しかし、三河の国統一を図る息子の家康の時代になると、この共存が困難になります。寺院に不入特権を与えているということは、完全な領国の統一と言えないですから。家康としてはここで「政教分離」をする必要があったわけです。中央でも、織田信長と本願寺(石山本願寺)が対立していますが、これと全く同じ構図です。

ってことで、本證寺第十代・空誓(蓮如の孫)は本願寺派門徒に檄を飛ばし、仏敵である領主家康と全面戦争になります。これが永禄6年(1563年)から永禄7年(1564年)まで続いた「三河一向一揆」です。

三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い・伊賀越えと並び家康の三大危機とされます。それは主君に忠実なワンコくん(三河武士)である家臣団の半数が、家康ではなく門徒方に味方した戦いだったからです。

真宗門徒の松平氏家臣だけでなく、吉良氏などの豪族や今川氏の残党なども加わったこの一揆は家康を苦しめますが、最終的には家康の勝ち。家康はこの戦いに勝つことで、三河の支配を確立することができました。

主君と宗教のいずれに忠誠を尽くすべきか、家臣たちは苦しみつつ戦い、あるいはその逡巡が家康を救い、半年という短期間で一揆が平定された理由かもしれません。

家康は家臣たちの苦しみを知っており、帰順を希望する家臣はそれが許されたのですが、それは筋が通らん!と出奔しちゃう武士もいました。大河ドラマ「女城主直虎」で六角精児さんが演じた本田正信がそうです。彼は10年以上「流浪の民」を歌う合唱団として各地をさまよい、本能寺の変の前あたりでようやく徳川家に帰参しました。

一方、「ここまで家臣を悩ませた本願寺恐るべし!」ということで、19年後の天正11年(1583年)まで、三河は本願寺派が禁制となります※。敵の拠点である本證寺は廃寺。

その後中央では、織田信長が死闘の末本願寺教団を弱体化し、政教分離が叶いました。石山本願寺は破壊され、その跡地には、信長の後継者秀吉により大阪城が築城されました。

慶長7年(1602年)には本願寺派が「准如を十二世宗主とする本願寺派」(西本願寺。現在の浄土真宗本願寺派)と、「教如を十二代宗主とする大谷派」(現在の真宗大谷派)とに分裂します。家康はこの時大谷派に土地を寄進して、分裂を支持する行動をとっています。

その後、江戸時代の寛文3年(1663年)までに、本證寺は再興します。

以上参照wiki(「本證寺」、「三河一向一揆」)

※大河ドラマ「西郷どん」の島津家薩摩藩では、明治初年まで本願寺派の禁教を継続していたと聞きもんす。ここからも戦国時代の本願寺派というのが、どれだけ領主にとって恐ろしい存在だったのか、わかりもんそ。

ってことで、現在の本證寺は勢力を誇った戦国のものではありませんけど、現在でもそれを感じさせるようなお寺として残っているのです。本證寺の境内は、 国の史跡ですし、本堂は愛知県の、鼓楼・鐘楼・経蔵・裏門は安城市の指定文化財です。

他に文物で重要文化財や指定文化財も多数あるようです。

本堂
鼓楼
鐘楼
経蔵
裏門
庫裏