今日は、吉良町乙川にある古墳です。(国指定史跡) 西三河最大の古墳でございます。
場所は吉良でもずいぶんと海に近いほうにあります。
内陸部のほうから接近すると、向こうに小山が見えてきます。あれが古墳か〜 すげーでかいじゃん。 駐車場:古墳の北側に小さな空き地があり、数台くらいは停められそうです。あるいは、南側の正法寺の隣の公民館に数台停められそうです。
・・・残念ながら違いました。あの丘の上に古墳があるのでございます。丘ではございますが、写真を撮っている場所、地図を見ると「富好新田」等の地名が近くにありますから、古墳時代、丘は海に突き出た岬だったのでしょう。 写真では独立峰に見えますがgoogle mapでも分かるように東側(写真だと裏側)から続く尾根の先端です。安土城とかと同じ立地ね。
施工当時は木も生えておらず、側面は石が葺かれ、埴輪が並んでいたから、太陽を反射し光輝いて見えたことでしょう。 灯台の役割もしていたかもね。
なお、前方後円墳の言葉通り、前方が方形、後方が円形でございます。
前(正面)は海を向いてます。と言っても、樹木がわんさか生えて展望利きませんがな。
少し下りてみるとようやく眺望が開けます。
はい、当時はこの正面は海でした(白浜新田ー白浜小学校とか吉良高校のあるところ)。ただし、古墳君はこっちを向いてるのではなく、上の写真の右側の方向を向いているように思います。茶道のように、茶碗の向いてる方向が重要です?伊勢方面でないかと、思うのですが。
ま、そんなことは案内看板には書かれておりません。 全長94mと。それから、埋葬施設は未調査で内容は不明 だそうです。 出土した埴輪と墳丘の形態から、古墳時代中期前葉(四世紀後半)と推定。被葬者は、三河湾、さらには伊勢湾に通じる交通路を配下に置く強大な勢力を有した地方豪族だろうとのこと。
まだ調べてないなら、ひょっとして、結構な有名人が眠ってる可能性は・・・ない?(笑)。
ここから、私の妄想です。
もう少し南の幡頭神社は、日本武尊が東征に出たときに、旗頭を務めた建稲種命が駿河で遭難し漂着したところをこの地に葬った のを祭神としてますから、この古墳は建稲種命の墓である可能性は、ないのでしょうか? ご主人の日本武尊の墓だとされている、三重県亀山市の能褒野王塚古墳を向いてる・・・とかね?
能褒野王塚古墳(のぼのおうつかこふん)は、三重県亀山市田村町にある古墳。形状は前方後円墳。能褒野古墳群を構成する古墳の1つ。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「能褒野墓(のぼののはか)」として第12代景行天皇皇子の日本武尊の墓に治定されている。別称を「丁子塚(ちょうじづか)」とも。伊勢北部地方では最大規模の古墳で[注 1]、4世紀末(古墳時代前期)の築造と推定される。 (wiki)
だいたい時代もあってるしさ。「地方豪族の墓」より、こっちのストーリーのほうが、観光にも力が入って木を刈ってくれそう(笑)。いずれにしても、埋葬施設も早く調査してほしいものですね。
※追記:吉良町史によれば、地元ではこの古墳が建稲種命の墓であるという言い伝えもあったようです。
古墳の東側には、古墳の名前の由来となった?正法寺があります。薬師堂拝殿、薬師如来像、阿弥陀如来像、今川義元の朱印状等が、市の文化財です。拝殿の役物は、結構立派な彫り物がありましたよ。
が、薬師堂は傷みが激しいです。どこも維持は大変ですね。
さらに下りますと石段の脇に、明治二十二年と、昭和二十八年の高潮被害の水面を記した氷柱が立っていました。天端に「水面」とありますから、この高さまで水がついたのですね。高潮なので「これより下に家を造っちゃなんね」 とは書いてありません。ここは標高も低いですし、昔は海だったのでしょうから、このような警戒標識があるのはよいことだと思いました。向こうの家と比較すると、一階は床上浸水の可能性がありますね。