愛知県は豊田市、道の駅「どんぐりの里いなぶ」の近くにある夏焼温泉・青柳亭に行きました。 奥三河の秘湯の一つですね。良い宿でしたが今回の話題は宿の話ではありません。 その源泉である浅間神社の伝承の話です。


一見、何の変哲もない神社ですけど、神社境内の窪地に夏焼温泉の源泉があり(外観はただのオンボロ小屋)ます。

そして伝承を記した看板。

「口碑によれは応永三年(1396)真弓山(御所貝津)に潜在された尹良親王は、当時の塩山村より、岩塩を軍需用として採取されたので、現在も地名を「シホノタワ」と称したといわれる。親王は神殿床下の岩間から湧出する冷泉に度々来浴され、当社を「浅間の宮」と称された。」
ふむ、非常に興味深い記述です。まず出鼻をくじいちゃうけど、日本で「岩塩」は産出しないです(笑)。でも記述を見る限り、温泉から塩が取れた と主張したい感じですよね。 上のgoogle mapでもわかる通り、今でも地名に「シホヤマ」や「シホノタワ」という塩にまつわる地名も残っているし。
が、この泉は重曹泉なので、いくら煮詰めても塩は取れません。じゃあ、この伝承はどう理解すればいいんでしょう?

ちなみに「山里の温泉から塩が取れた」実例はあります。有名なのは長野県大鹿村にある鹿塩温泉ですね。
鹿塩温泉(かしお おんせん)は、長野県下伊那郡大鹿村の塩川沿いに湧出する天然塩水の温泉である。海から遠く離れた標高約750mにありながら、塩分濃度は海水と同じ4パーセントであり、舐めると海水のようにしょっぱい。含まれるミネラル分が異なることから、断層(中央構造線)に閉じ込められた化石海水ではないとされており、なぜ塩水が湧出するのかは未だにはっきりとは解明されていない。
・・・平安時代の頃には「鹿塩」という荘園名も存在しており、この時分より製塩がされていたことがうかがえる。
南北朝時代には南朝方の宗良親王(後醍醐天皇の皇子)がこの地に入り南朝方の拠点としたが、塩があったからだといわれている。
よく似た話ですよね。 というか、夏焼温泉の塩の話は、実話である鹿塩温泉の話を上手にコピーした「物語」 だと思われます。
まず、物語の主人公である「尹良(ゆきよし)親王」なんですけど、歴史上創作の人物と言われてます。 一応、鹿塩温泉のところで出てきた宗良親王(実在)と井伊氏の姫の間に生まれた子という設定になってて、長野県阿智村浪合にこの人の墓があり、宮内庁の管理下となってはいますけど。
一方、宗良親王は南北朝時代の後醍醐天皇の皇子で実在しています。30年近く当時大河原と呼ばれた大鹿村を南朝の拠点として守り続けました。今の感覚で言えば、なぜ辺鄙な大鹿村を拠点にしたのか?と思われるでしょう。辺鄙なのは変わらないのですが、当時はここが主要街道たる秋葉街道の北端に当たる要衝ではあったのです。しかも山里ながら塩が取れ自給自足も可能。立て籠りには最適な地。
そして秋葉街道の南端に近い場所が井伊谷(『おんな城主 直虎』の舞台)で、ここを治める井伊氏は、南朝を支える有力豪族でした。 実際に宗良親王は井伊氏の助力を得て挙兵していますし、その姫と一子を設けたというのは、事実かどうかは別として、ありえそうな話 ではあります。
ともあれ、そんなこんなで秋葉街道を「南朝の道」と称することもあります。 当然、往時は塩を運搬する塩の道でもあったわけ。
かたや、夏焼温泉(稲武)は、飯田街道(伊那街道とも三州街道とも)という塩の道として有名な街道が通っていました(歴史は秋葉街道より新しいようです)。 ここまでの鹿塩温泉と夏焼温泉の話を構造的に整理するとこうなります。

それでは、なぜこんな見事なパクリ物語?が生まれたのでしょう?まずこの話は、隠れ里によくある「貴種流離譚:きしゅりゅうりたん)」です。 日本の山奥の村々のあちこちに、「都から落ち延びてきた高貴な人々」の物語が残っています。なんちゃら親王とか、平家の落人伝説もそうでしょう。
このような貴人伝説がある村であれば、村の格式が上がり、また権威を頼みとした便宜が図られる というような効能が考えられます。 前者は「オラが村は親王様が住んでただ、そんじょそこらの村とは違うぞ(他村との交渉に有利)」ということですね。もちろん山里の厳しい暮らしの慰みという意味もあります。
後者は木地師と惟喬親王の事例が有名です。彼らは「皇族から許された特別な民である」という由緒書(証明書)を掲げることで、全国の!山の自由使用権(特権)を主張しました。ただまあ、その主張にはそれには相応の根拠なり「物語」が必要になります。
私は今年2月に『近世林野所有論』(岩田書院)という著書を出しましたが、その中で「木地師」について一章を割いています。木地師に関心を持った理由は、彼らがかつて全国の山(特に七合目以上)の林野を自由に使えたという伝承を持っていたからです。もし、それが真実なら領主や村による林野の「所有」と抵触するのではないかという疑問が出発点でした。
木地師とは山の中で木を伐り、図のように横置きの轆轤を使って、椀や盆の形に仕上げて町の塗師に渡すことを生業としていた人たちで、轆轤を発明したとされる惟喬親王(政争に敗れて近江の山中に隠棲)に従った家臣に始まる由緒を保持しています。近江の小椋郷にはその「根元」とされる神社があり、それにちなんで多くの木地師が小椋姓を名乗っていました。木地師は木を伐り尽すと場所を移すのが普通で、多くは数年から10年くらいで移動していたようです。
このことに関連し、木地師が全国の林野を自由に使えることを「保証」した文書が残っています。・・・これらの文書の写しは多くの木地師のご子孫宅から見つかっていますが、その理由は近江の「根元」の神社が「氏子かり」と称して定期的に全国の山中を廻った時に、木地師に文書の写しを販売したからです。
伊那街道は、「中馬(ちゅうま)」と呼ばれる運送業者が盛んに行き来していた道です。その主要産物は「塩」。街道の中で夏焼(稲武)は信州と三河の国境にあたる要所であり、そこに「高貴な方&塩にまつわる伝承」があれば、おおいばりで商売ができるし、便宜が得られるかもしれない。そんな物語が欲しい・・・。そうだ、秋葉街道の話をネタにひねってやれば・・・ということで成立した物語ではないかと思うのです。
実を言うと、wikiの尹良親王引用ページには次のような記載(柳田国男)もあり、この推察も当たらずとも遠からじ という感じでしょうか?
「ユキヨシ様」は伊那谷から北三河・北遠江にかけての国境地帯にて祀られる習俗が広く分布しており、この信仰に関して民俗学の側面から着目したのが柳田國男であった。柳田は「東国古道記」の中で、およそ次のように述べている。「かつて中部山岳地帯と海岸を結び付ける道は秋葉街道だけであったが、やがて浪合を通り飯田・根羽に連なる三州街道(飯田街道)が開けてきて、その段階で津島神社の御師たちが入り込み、土着的な山路の神『ユキヨシ様』を旅人の道中安全を守る守護神(一種の道祖神)へと変化させて山間に広く分布していった。これに加えて、浪合で戦死した南朝某宮に対する御霊信仰の要素が結合して尹良親王なるものが出現し、さらに津島神社や三河武士・徳川氏の起源伝承として存在意義が認められ、地元の口碑がその欲求に合うように内容まで多様に変型させられたのではなかろうか」。柳田の見解は伝説の史実化の過程を考える上で示唆するところが多く、特に津島信仰の絡み合いについては、柳田の洞察力が遺憾なく発揮されていると言えよう。「ユキヨシ様」は、近世の地方における南朝史受容の一コマを現代に語り伝えているのである。
なんでここに津島神社(尾張)の御師が出てくるのかは、ちょっとわからないですけど。ここの場合は、神社が浅間神社なので富士山とのつながりが強そうですし、「親王は神殿床下の岩間から湧出する冷泉に度々来浴され」という記載を素直に読むと、これ温泉に入浴して楽しんだのではなく、禊修行ですよねえ。富士山信仰で禊と言えば、村山修験が当てはまりますな。とすれば禊ではなく「水垢離」が正確な単語でしょうか。
神や仏に祈願したり神社仏閣に参詣する際に、冷水を被り、自身が犯した大小様々な罪や穢れを洗い落とし、心身を清浄にすることである。
神道でいう禊と同じであるが、仏教では主に修験道を中心に、禊ではなく水垢離などと呼ばれ、行われることがある。(みずごり)、水行(すいぎょう)とも言う。
水垢離
参考文献: 白洲正子「かくれ里」 対話協力:AI「Gemini」

元河川技術者、現在は里山保全の仕事をしているおっさんです。西尾市在住の本好き歴史オタク。









