浜名湖の南と北をくるりと回ってきました。 んで、立ち寄った先を紹介します。
新居関
東海道五十三次において、舞阪宿から新居宿の間には浜名湖が海(遠州灘)とつながる今切口があり、両宿の間は「今切の渡し」という船旅となります。
江戸時代は徒歩の旅ですから、船旅は楽だな~と気楽に思っているとさにあらず、新居宿側で船を降りたそこは、関所の船着き場。問答無用で怪しい人間がいないか詮議されました。
詮議場である関所建物が日本で唯一現存しているのがここなのです。国の特別史跡に指定されています。現存する建物は安政2年(1855)年と幕末に建てられたもの。明治2年(1869)に関所は廃止されたけど、建物が新しいからか破壊は免れ、小学校や役場として使用され、現在まで残されたとのこと。
江戸時代の関所では「入り鉄砲に出女」と言われるくらい、江戸から出る女性、江戸へ入る鉄砲について厳しく調べられました。
「入鉄砲出女」とは関所の機能についての端的な表現として用いられた言葉である。江戸の治安維持のため、①「江戸に持ち込まれる鉄炮(入鉄炮)」と、②「江戸屋敷に人質として置かれた大名の妻女が脱出するのを防ぐため江戸を出る女(出女)」を取り締まった。江戸と地方を結ぶ関所を通過する際には、入鉄炮には老中が発行する鉄炮手形、出女には留守居が発行する女手形の携帯が義務付けられていた。
ここ新居関には女改之長屋があり(建物復元)、「広重と歩こう東海道五十三次」によると、人見女により胸までの上半身、手足の怪我跡や身体的特徴まで細かく調べられ記録されたとのこと。恥辱的な検査なので、この関所を嫌がる女性も多かったとか。
そこで、浜松から東海道を外れ、浜名湖の北側を通り、豊川を経て御油で東海道に復帰する道を選ぶ人たちもいたようです。
が、浜名湖北側の気賀にも関所があり取り調べはあったようです。気賀関のほうが女性の取り調べが優しかったのか、船旅を嫌った女性が陸路を取ることが多かったからかなのかは分かりませんが、これを俗に「姫街道」と称し今もその名前が残っています。
閑話休題。厳しい詮議を乗り越え、関所の大門を出れば、今夜の宿?である新居宿。関所で緊張して疲れたから、今夜はここで休んで英気を養いたいなー。精力のつく食べ物と言えば、浜名湖と言えば・・・
新居には古い街並みや露地が残っているようですが、暑すぎて回れませんでした。有名どころの旅籠紀伊国屋(新居宿最大規模の旅籠、紀州藩御用宿でもあった)と小松楼(芸者置屋)だけ見て退散。先ほどの答えですが・・・紀伊国屋の名物は鰻の蒲焼だったそうです。やっぱ鰻っす!
食事と言えば、現代の僕は関所の前にある「味楽酒房豊千」でランチを食べたのですが、これが素晴らしくてですね。
メインを2種類選ぶ定食 にて、刺身と天ぷらを選んだこちらの定食が、なんと880円(税込)。素晴らしい。刺身は新鮮だしね。
このあたりも西三河と同じ赤味噌文化圏なんですね、なかなか腰の据わったおいしい赤味噌の味噌汁でした。・・・他の地区の人だと、おいしく感じない人もいるかもなあ・・・あまりに素晴らしい(値段も味も)ので、翌日も伺おうと思ったのですが、お休みでした(笑)。
新居からは少し離れるのですが、ここまで車で来られた方は、弁天島経由で「浜名湖ガーデンパーク(駐車・入園無料)」まで行き、300円払って展望塔を登ることをお勧めします。浜名湖の絶景が楽しめますんで。 イベントのない平日でしたので、この風景が独り占めできました。冷房完備!(30分以上涼んでました)
この公園、暑くなければ十分時間をかけて散策する価値がありますけど、なにせ暑すぎて無理でした・・・
ミカンで有名な三ケ日にあります。もう少し北に行くと、湖北五山として有名な摩訶耶寺や大福寺があり観光客はそちらには行くでしょうけど、こちらの神社はマニアしか来ないと思います。何しろ駐車場がどこにあるかわからなかったくらいですんで(笑)。
浜松市教育委員会が建てた紹介看板によりますと、このあたりは太古の昔、濱名縣(はまなあがた)といって、そこを治めた縣主が祖神太田命を祀ったのが始まりだそうです。
縣主というのは大化の改新(645)以前の地方官(豪族)なので、真偽はともかく相当古い歴史を持っているようです。看板によればそのあと、ここらが伊勢神宮領(御厨)になった関係で主神が天照大神に変わったのではないかと。
その他、この神社が延喜式神名帳に記載された式内社の論社(記載された神社と同一もしくはその後裔と推定される神社)にあたること。江戸幕府が寺領を与えていたとのこと等、 かなり格の高い神社です。名前の通り、地区の総社(惣社)でもありましょうし。
延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう、しんめいちょう)は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十の神名式上・下のことで,この部分だけがとくに取り出されて「延喜式神名帳」と呼ばれるようになった。・・・延喜式神名帳に記載された神社、および現代におけるその論社を「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっている。式内社は全国で2861社で、そこに鎮座する神の数は3132座である。
境内で見るべきものは、こちらの本殿です。階段上がるの禁止なので、建物は見られないのだけれど・・・国の重要文化財。
本殿は浜名神戸より伊勢神宮へ貢進品の収納庫として使われたといわれ板倉造(井籠造)という全国でも類の少ない古式の形式で歴代の将軍・国守の尊崇の念が厚く特に豊臣・徳川両氏の代々の将軍は掟を定めて朱符の田四十二石を寄進して崇敬の意を表している。
浜名総社神明宮は、古くより伊勢神宮の御厨があった浜名湖の北辺に位置する神社である。本殿は、江戸時代後期の建築で、高床とせず礎石上に土台を置き板材を井籠に組む板倉形式で両側面の棟持柱で棟を支える、他に類例のない特殊な建築形式をもつ神社建築として貴重である。
板倉造(井籠造)とか言われてもなんだかわからないかもしれませんが、イメージしやすいのはログハウスかな。これは丸太を井の形に組んだ壁を構造材として家を構成する手法です。その丸太を板に置き換えたもの と考えればよいかと。
あるいは東大寺の正倉院(校倉造)に近いものと考えても良いかと。 まあ神明宮本殿は高床式ではないという見た目の違いはありますが、建物構造としては同じ。
木材を井桁(いげた)状に積み重ねて四面の壁とした建築構造。井楼(せいろう)造ともいう。三角形の稜(りょう)を削り落としたような木材による井籠造を校倉(あぜくら)造ともいう。弥生(やよい)時代の高床(たかゆか)の穀倉のように、古くから倉庫建築にこの構造がみられる。
コトバンク 井籠造