百姓伝記「防水集」を全文訳(意訳)しました。

ファイルを添付するので、ご自由にお使いください。原文は岩波文庫版で確認してください。間違いがあったら、コメントで指摘いただけたらありがたいです。(修正します)

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意味が取れないところもありましたが、力業で訳した意訳です。また原本は目録と章立てが一致していないのですが、読みやすいよう適当に合わせ、ページを振りました。

翻訳の背景

江戸時代の農書「百姓伝記」の第七巻は、「防水集」と言って、江戸時代の治水本です。なんで農業書におさめられているかと言えば、明治に内務省や県ができる前は、治水利水工事は民間(百姓)主体でやってた部分も大きいからです。水防は今でもそうです(水防団)。

最近,、河川工学の分野では、この本に書かれた治水思想が注目されています(例えば 大熊孝「洪水と治水の河川史」水害の制圧から受容へ

明治以来、日本は莫大な費用をかけて堤防を整備し、江戸時代より格段に安全度が高まっています。それなのに、なんで現代、江戸時代の治水が注目されるのか?
それは、日本の治水事業が、その方向性が大きく変える転換期だからです。まあこの流れは治水に限らず、「想定外」を扱うリスク管理や防災事業にも言えるのですが。

転換前の治水思想は「まず想定規模内の洪水をハード設備で防ぐよう頑張る。そのうえで徐々に想定規模を高め、最終的に安全を確保していく。」というものでした。逆に言えば想定内の堤防を造ることに追われ、「想定外」まで真剣に考える余裕はなかった。とも言えます。

それが、ある程度の堤防整備ができたこと、「線上降水帯」型豪雨の多発など降雨形態の変化による洪水被害の頻発などの理由から「想定外」に真剣に向き合う必要性が出てきたという事です。

もっとも、それは十年以上昔から指摘されてきたことでした。2005年あたりから「ある程度の規模までの水害はハード対策で制圧するけど、それを越えた洪水はソフト対策で被害を最小化する」という方向性は出ていました。

けどこの思想、理論的に正しくても、実施はなかなか困難な一面があったのです。しかしもうやらざるを得ない実施段階に来たというのが実態ではないかと。(詳細は補足※)
そこでこの本の出番というわけ。なにしろ重機もトラックもない時代の治水ですから、「想定外」事例も豊富。事例を踏まえた身もふたもないホンネの治水術の書かれてるんです。

でもネット上に全文現代語訳は落ちてないようなので訳してみました。

もちろん江戸時代の「筆書きずらずら文」なんて読めません。、それを現代仮名遣いに直したものが岩波文庫から「百姓伝記」(絶版)で発行されており、そこから現代文に訳したわけです。

ちなみに、この岩波文庫の底本は、僕が住んでいる西尾市の岩瀬文庫に収蔵されています。(岩瀬文庫に行くと、原本が無料で閲覧できます。ちゃんと拝んで来ました。)たまたま自分も退職前は河川管理をやってたので、この本、暇になった僕に翻訳してもらうの待ってたんじゃ(笑)?って。 ほんの40ページくらいですけど、いやあ、翻訳家って大変だね・・・

 

全体を通して、その技術力の高さに驚きました。補足すればかなりの部分は現代の河川工学の教科書として十分使えんじゃね?まあ中には「竜の昇天。対策は前触れの黒カモを追払うこと」とか笑っちゃう部分もあるけれど。(これは文字通り「竜巻」を描いています。)

前書きが長くなっちゃいました。読んでて面白いところを少し紹介します。

「水防のこと」P26   洪水の時は「上流から大量に流木が流れ、橋が倒されて氾濫しちゃうぞ」これって九州北部豪雨災害でありましたよね。じゃあ江戸時代はどうしたのか?この章は川沿いに暮らすなら、知識として知っておくと良いと思うなあ。

「大河川の築堤について」P3    大河川の堤防は二重堤防にして、間は「流れ田地」にして、大洪水の時はそこを遊水地にしなさい。  理論上その通り。なんですけど、実際は市街地にそんな土地は残さず利用したいですよねぇ。このあたりだと豊川の霞堤(実質遊水地)がまさにこれに当たりますね。あと、堤防の土質を議論してるのも注目。

「澪止め堤防の築堤について」P6  沈埋式瀬止め堤防の造り方 これは技術的に面白いとお思う。

「三河矢作川の瀬替えについて」P10  ここに書いてある内容は、西尾市史にも転記されているのだけど、読んだらもっと詳しいこと書いてあるんじゃね? 残念。当時でも「堰止め工法を記憶している地元民がおらず、その内容は記載できない」そうです。残念

「治水の心得」P16

・地図に堤防の長さ、治水施設の位置を記しておき、予め水防担当村と人数を決めておくことなど、水防のことがきっちり書かれています。

・「ご当家は幕府奉行なんだから・・・」との記載あり。作者不詳だけど、特定する手がかりじゃないかな

「水防のこと」P26
・水防の教科書
・万一の際、「最も被害が小さくなる場所で積極的に堤防を切る」究極の水防工法について。
・竜昇天の話

 

※長い補足。この本には、水防の最終工法として「最も被害が小さくなる場所で積極的に堤防を切れ」「役人はその場所をあらかじめ造って準備しとけ」って書かれています。これが洪水を受容する究極の形だし、理論上それしか解はないと思います。が、現実問題として実施する役所としても、その地域の人たちも、受け入れは困難ですよね? もうすでに歩みは始まっているけど、どこへどのように着地させればいいんだろう?

下の記事、書かれた年にも注目!

(2006年)あふれさせる治水へ、住宅周囲に堤 国交省方針
明治以来の河川改修は、下流から上流へ続く堤防を築き、堤防で洪水を防げなければ、ダムを造るのが基本。多額の費用と時間がかかるため、中上流域の整備は遅れがちで、各地で浸水被害が繰り返されてきた。
一昨年、全国で大規模な水害が相次いだことから、国交省は昨年から洪水の「封じ込め」から「減災」へと治水政策を転換。新制度はこうした考えに基づく。
一方、治水上の安全度の「格差」が固定化する可能性があることから、不安視する農村部選出の与野党議員らの抵抗も予想されるなど新法制定への障害も少なくない。
国交省は「流域すべてを洪水から守る目標を捨てるわけではないが、完全な改修には時間がかかる。氾濫が頻発する農村部では、あふれるのを前提とした治水を一つの手法として採り入れたい」としている。

 

(2016年)「決壊しない堤防はない」鬼怒川で河川事務所長ー「粘り強い堤防論」の新たな始まり
「この堤防では決壊しますよ」と指摘する声に、国土交通省関東地方整備局の里村真吾・下館河川事務所長は、「決壊しない堤防はありません。もちろん決壊しないよう、堤防を高くし、河床を掘り下げますが、計画を超える大きな水が来れば堤防は決壊します」と断言した。
5月28日土曜日の朝から行われた茨城県常総市若宮戸の築堤工事見学会の席である。
昨年9月の「関東・東北豪雨」以前には見られなかった議論である。「決壊する」と語気を強めた石崎勝義さんは河川官僚のOBであり、両者の応酬はある意味、画期的なのである。

河川官僚OBが「堤防は決壊」する、現役官僚が「決壊しない堤防はありません」と回答しているのである。しかも、鬼怒川溢水で被災させられた地権者や住民向けの築堤見学後の質疑でである。

上記の記事にもありますが、明治以降の河川工事では、「溢れさせない」こと。理念としてどこも「平等」にある程度の安全度を確保することを重んじてきたわけです。(もちろん例外だらけでしょうが、思想として)

全国に三百近い藩が分立していた時代には調整が困難で実施できなかった大規模治水も、強力な中央政府があれば実施できます。これは明治維新の恩恵です。

その理想を「現実として困難」と認めてしまうことは、裏を返せば、地域により安全度の「格差」が表面化することでもあります。極端な話、「こちらを守るため、あんた泣いてくれ」ってことですから。実施側も、受け入れる側も、幻想だとわかっていても、みんな「平等」を信じていたいですよね。
治水でも、原発問題でもそうなんですが、「想定外を考えていなかった。」「安全神話に囚われていた。」という言葉の行間に、こういう側面もあったことは事実でしょう。だから免責されるものではないですけど、まあ共同幻想として。

あの事故以来「想定外」をマジで考えだしたことはもちろん良いことなんですが、なんでいままでそれが封印されてきたのか という点も(見たくないけど)しっかり考えておくことが大事だと思います。

幻想論であれば、実施側だけに責任押し付けることもできたんですが、マジ論では、受け入れる側もどこかで血を流す必要が出てくるから です。

「百姓伝記」巻七防水集は、治水工学の教科書(関東流)じゃない?

追記:勝手に全部現代語訳しました。よろしければご覧ください

 

 

マニアックでございます。最近、百姓伝記を手に入れ、パラパラ読んでおります。百姓伝記とはおおざっぱに言うと「江戸中期の三河から遠江にかけての東海地方を対象にした農業書」でございます。 岩波文庫として出されておりましたが、すでに絶版。中古品を手に入れることは可能です。この地方の慣行農法について研究するため購入しました。えーん嘘です。ホントは農業好き+郷土史好きの兼用趣味。

文化財の関係で言いますと、この本の「底本」は西尾市岩瀬文庫が所蔵しています。原本は失われてありません。校注された古島敏雄氏は、「伝承・書写年・書写者不明であるが、旧来の二種の刊本。祭魚洞文庫本に比して書写態度が依拠本に忠実であると判断して、これによった」とあり、なかなか貴重な写本のようです!すごいよ弥助さん

ついでに、古島敏雄は、岩波新書で名著「土地に刻まれた歴史」を書いた農業史家です。すごいよ敏雄さん

さて、農業書なんですが、7巻に「防水集」ってのが入っております。私は前職が河川管理業務 だったので、ここが一番興味を引くところ。 しかしなんで農業書に防水を入れたか・・・

本朝の大河には池・堀のかこひ、普請の仕かた善悪、見及び聞伝えたる所を、余、ひそかに書付、坊水集と名づけ、百姓伝記の類巻にのする。堤・井溝・川除普請は、世に耕作初りし上代よりこのかた、土民の役たり。末代も猶油断ありては、子々孫々水災にあふべし。

水防活動は地元住民(からなる水防団)が担っているのは現代もそうですから、農民に防水の技術を伝えるのは、まあ筋が通っています。ですが、中身を読んでいくと農民が知っておく知識をはるかに超え、当時の治水技術者向けの治水工学の教科書だと感じました。「密かに」とあるように、当初は秘伝だったでしょうが。

内容はもうすこし勉強してみますが、江戸初期の治水術「関東流」の香りがプンプンします。

百姓伝記の作者は不詳ですが、「現在の静岡県から愛知県あたりの人で、おそらく武士と考えられ、老農からの聞き書きであるが、著者本人も農耕に従事したと思われる」とされています。

しかし防水集の内容を読むと、農業分野の記述のうえにさらにここまで全国の河川の状況や治水技術に詳しい人っているのか?って感じを受けます。あんまり聞き書きにも見えないし。それで

私の独断と偏見では、七巻の防水集だけ作者が違い、屁理屈をこねて農業書の中に入れたんじゃないか。さらに防水集の著者は「関東流」治水術宗家、関東郡代伊奈家関係者じゃないかと思うです。

関東流とは?    関東をはぐくんだ歴史的水路網(関東流と紀州流)から抜粋

新田開発の代表例は、死水化した古利根川を用排水路として利用した、葛西用水(4代目忠克によって開削)でしょう。上流の排水を下流の用水に使う「溜井(ためい)」というシステムは関東流の典型です。また、彼らは洪水処理にも、霞提(かすみてい)、乗越提、遊水池といった河川を溢れさせて流れの勢いをそぐといった独特の工法を用いています。

こうした関東流は自然の流れを上手に受け入れる技術であり、現在でいうところの自然型工法に近いものがありますが、人口が増えてくると水に浸かる土地も多く、江戸の洪水被害が増えたり、乱流地帯も多く残るなど新田開発には限界がありました。さらに用水兼排水の利水形態では、常に下流の用水確保が上流の排水困難をまねき、開発が進むにつれて上流と下流の対立が顕在化します。ここにきて関東流による新田開発は、技術的限界を迎えることになりました。

このころに登場するのが8代将軍吉宗です。吉宗は「享保の改革」推進のために新田開発を奨励します。これ以降、関東平野の開発は紀州から連れてきた天才技術者・井沢弥惣兵衛為永(いさわやそべえためなが)を祖とする紀州流にとって代わります。 為永は乗越提や霞提を取り払い、それまで蛇行していた河川を強固な堤防や水制工(水の勢いを止める構造物)で固定し、連続提によって直線化しました。これにより、遊水池や河川の乱流地帯は必要なくなり、広大な新田が誕生することになります。

当時はコンクリートや重機はないので、関東流が水を溢れさせ、紀州流は連続堤で河道を固定化さました とぎっちりと分離できるほどの技術力まではなかったと思いますが、治水哲学が違うようですね。紀州流の考え方は現代にまで続いてます。

関東郡代(代官)は代々伊奈家が世襲しておりました。代々治水や利水事業に巧みだったことから、「関東流」は「伊奈流」とも言われています。

関東の新田開発の歴史説明文を引用しましたが、ここに出ている「止水化した古利根川」が生じた原因は、もともと江戸湾に流れていた利根川を太平洋(銚子)に流すべく人工的に東遷させたためです。この事業は「家康は伊奈忠次を関東郡代に任じ、関東周辺の河川改修にあたらせた。以後、忠治、忠克と伊奈氏3代により、利根川の常陸川河道(銚子河口)への通水が行われた。」ものです。

防水集には、常総国ふかわ新田の記載がありますして、注釈には、利根川本流移設工事のころのことを記すか?とあります。利根川東遷そのものの記載はありませんが、「大河の堤をつく事(大河の堤をば二重つきたるがよし)」「みよとめ堤(水脈止め堤)を付事」など、大規模な河川改修の仕方が書かれており、さらに「田畑用水のため井堀をほらずしては不叶もの也。」「為用水、雨池をかまえる事」と等の小見出しがあり、関東流の治水・利水の特徴を良くとらえているように思います。

さらに。百姓伝記の防水集には、慶長十年(1605年)の矢作川新川開削がかなり詳しく記載されています。この工事の様子はあまり他の書には詳しく書かれておらず、著者はこの工事を見ていたのか、関係者に詳細まで詳しく聞いたものと思われます。

初代関東郡代、伊奈忠次は短期間ながら西尾の小島城主を務めました。付近のお寺には、彼の連名安堵状や位牌が残っています。(西尾市史)

小島城は今や工場用地として跡形もありませんが、城と矢作川の位置関係は下図の通りです。

元々の矢作川本流は東から西進し、小島城下で急に南へ流れを変え、現在矢作古川と呼んでいるところを流れていました。西進する流れが急縮・急旋回し南流するため、洪水時に水がしょっちゅう詰まり、氾濫していました。そこで小島城西側の平地を開削し、本流をスムーズに西へと流し、早く海へ導いてあげるのが、矢作川新川開削工事の狙いでした。

この工事は、米津清右衛門が奉行として指揮を執ったといわれています。しかしはっきり確定してはいません。米津清右衛門清勝という人は記録が少なく、素性が良くわからないのです。(部下の不祥事の責任を取り処刑されたとも、切腹したとも。そうなら不名誉だからあまり記録が残ってないのでしょう)

また、「伊奈備前守および米津清右ヱ門奉行して、矢作川の川筋を変更せしむ」(「三和村誌」)と、忠次が指揮してたという説もあります。

いずれにせよ、施工個所は、伊奈家の旧領として勝手知ったる場所であり、治水に長けた忠次は洪水発生のメカニズムもよくわかっていたでしょう。直接奉行じゃなくても 、忠次は慶長6年に三河国検地を実施していたので工事の詳細を把握していたと思います。検地への影響はでかいですからね。

そんなこんなで、伊奈家の関係者(家臣とか子孫を含む)が防水集書いたんじゃないかなとおもうんですが、どうでしょうね?