ならいっそ、開会式なぞやめたらよろし

高校野球では珍しい光景だった。2024年7月9日、青森市営野球場(ダイシンベースボールスタジアム)。夏の高校野球・青森県大会の開会式で選手たちの入場行進が始まった。各校ごとに、ユニフォーム姿で2列縦隊となって整然とグラウンドに入ってくる。「イチ!ニッ!サンシーッ!」。表情を引き締め、手足をきびきびと動かす球児たち。
 その中で、1校だけ様子が違った。帽子を取り、スタンドに向かって笑顔で手を振りながら歩く。まるでオリンピックの選手入場のように。先頭のプラカードには「聖愛」と書かれていた。弘前学院聖愛高校だ。
・・・青森県高校野球連盟によると、県大会の終了後に開いた会議では、ある高校からこんな意見が出た。「あんなパフォーマンスがあっていいのか」
 日本高野連からは、県高野連に問い合わせがあったという。「あのパフォーマンスは事前に知っていたのか」
 日本高野連の広報担当者に取材したところ、こう答えた。
 「高校野球としては手と足を上げる行進をずっとやってきたが、時代とともにさまざまなことが変わってきているのは事実。いろいろなご意見を精査し、高校野球としてどうなのか意見交換していきたい」
 原田監督は訴える。「行進はこうでなきゃいけないとルールで決まっているなら従います。でも、明文化されていない。それなら多様性をうたっている昨今、いろんな種類があっていいんじゃないかと思うんです」

「あんなパフォーマンスがあっていいのか」高校野球の入場行進で異例の行動 「軍隊式」に疑問を持ったチームに驚きの反響

高校生の野球大会に、いつまで大人の幻想「高校球児らしさ」をを押し付けるんですかね、くだらない。

でもまあ、僕が今回言いたいのはそこではなく、 「いっそ開会式なくしちゃえ」ってことです。 やめれば行進がどうのこうのって議論にならないぜ(笑)。

僕はいつも思うんですが、開会式を構成する入場行進、偉い人の挨拶とか、選手宣誓とかって、本体の「野球のトーナメント戦」とはまったく関係ない行為ですよね。 別になくても競技は成立します。一体何のためにやってんの? 

立派な開会式を開くため膨大な時間をかけリハーサルやるくらいなら、選手宣誓の文言作成と暗記、つかえずに話せるよう練習するなら、大会直前の貴重な時間、野球の練習や身体休めた方が選手にとってはよっぽど合理的。

特にわからんのが選手宣誓の文言。「我々選手一同は、スポーツマンシップに則り、正々堂々と戦うことを誓います」をどのようにアレンジして言うかだと思うんですが、この文言が気にくわない。スポーツだから「規則(ルール)」に則るのは当然。これ守らないとゲームが成立しませんなのでそれをいちいち宣誓する必要はありません。

それ以上「スポーツマンシップにのっとる」とか「正々堂々と」と宣誓して「自らに縛り」をいれる必要はありません。規則守っていれば、これらは守らなくてもゲームは成立するんで。 

宣言するとどうなるか。これらの文言はかなり融通の利く言葉ですから、各自が自由に解釈することができます。ここから「選手の入場行進は指先までぴしっと伸ばして軍隊調」「さわやか丸刈り」がスポーツマンシップ云々。正々堂々高校球児云々 とか、バカが拡大解釈する源泉になります。 「手と足を上げる行進が高校野球としてどうなのか」ではなく、「手と足を上げる行進が(高校)野球規則として必要なのか」でしょう。「そんなの関係ねぇ」

てかそもそも、日本人って式典が好きですよね。 学校だと入学式、卒業式、始業式、終業式、林間学校行くと宿泊施設の開所式とか・・・後ろの方はコロナ下で教室オンラインになり、かなり簡素化進んだんじゃないかな。良いことです(元に戻っちゃったか?)。

 ご想像のとおり、僕は式典が大嫌い。卒業なら「事務的に卒業証書だけくれればいい」派なので、それらを立派に実施する意味がまったく分かりません。卒業の感慨は各自が持てばよろし。可能なら準備も含めすべて休みたい。

え、学校に入学式とか卒業式があるのなんて当たり前だろ。・・・なんて言うなかれ。英国では基本ありません。アメリカでもドラマを見る限り、式より「祝いパーティー」が主体のようだし。

子どもたちが通った英国の小学校では、卒業式もなかったし、卒業証書ももらってきませんでした。パンデミックだったこともあり、親たちが計画した卒業祝いパーティーもキャンセルになり、子どもたちにはちょっと残念な卒業の思い出となってしまったかもしれません。ただし、卒業式がないのはコロナのせいではなく、英国では毎年のこと。というのも、英国の公立小学校では日本のような卒業式がないところも多いのです。実は、卒業式だけでなく、入学式もないのが英国流。

1年生の初登校の日には、真新しい制服を着た幼い子ども(英国の小学校は5歳から始まります)を学校のドアのところで見送っただけ。日本のように、厳かな入学式や校長先生のあいさつなど一切なく、「本当に今日から学校が始まるの?」と、なんとなく物足りない気がしたのを覚えています。

英国の愛しきギャップを求めて 卒業式のない英国の小学校

マナーにうるさく、式典とか荘厳にやるんだろーな と思われがちな、パブリックスクールも、すくなくとも昔はなかったようです。 あ、でもホグワーツではあったような。

パブリック・スクールの新学期は秋に始まる。これも秋の学期に一斉に新入生が揃って入学するというのではなく、他の学期末や学期途中と比べると、大学新学年の始まる関係もあってこの頃の出入りが比較的多いというに過ぎない。

改まって式を挙げることを好まず入学式とか卒業式なども行わないので、一夜明けて元旦を迎えたようなわが国の学校の新学年のはっきりした感じは薄いのである。

岩波新書「自由と規律 イギリスの学校生活」池田潔 より

このあたり、黒執事ー寄宿学校編 はかなり正確に押さえてます(笑)。

この部分だけなら、僕もパブリックスクール行きたかったなと(笑)。まあ、「個々の私を捨て全体の共同目的の貫徹に奉仕する精神を涵養する手段として、運動競技がもっとも重要視されている(前掲書)」時点で、僕には向いてませんけど。

閑話休題。このように、厳かな式典がなくても学校というのは成立するものではあります。僕は運動に疎いのでよく知りませんが、おそらく野球の試合もそうでしょう。

もちろん卒業式でみんなと一緒に泣きたいとか、袴着たいという人(式典好き)もいるでしょうから、好きな人は参加すればいいでしょう。が、せめて出欠自由にならんか。

そういえば自分の大学卒業時・・・ 卒業式には出席するつもりがなかったんですが、どうもそれを察したらしく友達が当日朝に誘いに来てくれました。 誘いなければ確実に欠席でした。 大学全体の卒業式のあと、学部学科の卒業式・・・やれやれ。

学部学科の卒業式で担当教授曰く。「この式に出席しないものには卒業証書はやらん!」 僕はこの手の越権発言が大嫌い。「お前にそんな権限ないだろ!!」もし立場が対等なら「ホワイトハウスにゼレンスキー大統領を迎えたバンス副大統領」のように最高のもてなしをしてやるのですが、いかんせん人質取られてますからね。借りてきた猫のように黙っていました。  

今でもはっきり覚えてます。Sという厭な野郎です。でもまあいますよね。「卒業式は神聖にして侵すべからず」と信じてる人。信じるのは勝手だけど、人に布教するんじゃねえ。かくて繰り返される 「会議は踊る、されど進まず」

小学校が卒業式を迎える3月中旬。6年間の集大成として成長した姿を保護者に見せようと、この数カ月、教員・児童は必死に準備を重ねてきた。しかし、ときに授業を返上してまで行われる卒業式準備には、疑問を感じる教員も少なくない。本来なら、万全な授業準備や、中学進学に不安を抱える児童の学習サポートに回せたかもしれない時間を、来賓者のための「体裁のよい卒業式」づくりに費やしている現状を、どう捉えるべきか。

「ショー化する卒業式」、異常なこだわりで授業より優先される本末転倒な事態膨大準備に違和感も”口出しタブー”で年々激化

式典一切無くせば、教員の働き方改革はだいぶ進むと思うし、いろんな意味で生産性上がるよね。誰でも言いたくなる「何が本質なんだ」の一言。されど口出しタブーなり。  改革、しましょーよ。

ありたい姿・あるべき姿

春の甲子園大会が始まって、「ペッパー・ミル」パフォーマンス がなんちゃらという話が話題になっていますね。

3月18日、第95回記念選抜高校野球大会は、兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で開幕。1回戦の第1試合では東北(宮城)は1対3で山梨学院に敗れた。
 この試合では“あるパフォーマンス”が波紋を呼んだ。初回に東北高校の1番・金子和志(3年)が相手のエラーで出塁した際に、自軍ベンチに向かって、「ペッパーミル」を行なったのである。

東北高校の“ペッパーミルパフォ”が賛否。高野連は異例の声明発表「不要なジェスチャーは従来より慎むようお願い」

ま、これの話も後で触れよう と思ったのですが、僕が違和感を覚えたのは、開会式の写真でした。

産経新聞記事から拝借

ねえ、このお年頃の子たちが集まって、屋外とはいえかなり密集しているのに、誰もマスクしてないって不自然じゃないです?  

個人的には、マスクなくても何ら問題なし とは思います。でも彼らは「卒業式はマスク着用しないことを基本としながら強制はしない」だったら言わなくていいんじゃね?という意味不明の通達に対し、果敢に背きマスク着用して式に臨む世代なんです。

開会式に臨んだ中にも「本当はマスクしたい」と思う子がいるほうが自然だと思うのです。でも、誰もマスクしてない。それにまあ、みんな帽子をかぶっているので分かりませんが、多くの選手は坊主頭なんでしょう。少なくとも選手宣誓した選手はそうでした。

開会式にマスクをつけるかどうか、髪を坊主刈りにするかどうかは、野球というスポーツをうまく行う上で何ら関係ないこと(プロ野球選手を見よ)です。ま、それ言ったらそもそも開会式や入場行進だって関係ないですが。でもそれがスポーツではなく、 「高校野球」となると非常に重要なことなんでしょう。

これは、当人である選手たちがが望んだ風景なのか、あるいは周りの大人(偉い人)が見たいと望んだ風景なのか、またはそれを敏感に察知した彼らの自発的行為(カッコつき)なのか、なんだろ と思いまして・・・

それでまあ、タイトルの言葉が ひょい っと浮かんだのです。

ありたい姿とは、自分自身、自組織または自チームが望む、理想の状態を指します。
あるべき姿とは、外部あるいは第三者が望む、理想の状態を指します。

ビジネス用語:ありたい姿・あるべき姿の違い  良い会社株式会社

 ありたい姿とあるべき姿。それが一致しているなら、別に第三者がどうこういう問題じゃないのだけれど、実体はどうなのかなって。 これ、最初に触れたペッパーミル問題についても、その間に齟齬が生じて発生した問題じゃないかと思うのです。

東北の先頭打者が遊撃手の失策で出塁した際、一塁上でこのパフォーマンスをしたところ、ベンチに駆け寄った一塁塁審から、しないように注意されたという。
佐藤監督はプロ野球巨人でのプレー経験があり、昨年8月から母校の監督に就いた。「脱スパルタ」を掲げ、髪形は自由にし、短パンを認めるなど練習着も自由にしている。
佐藤監督は報道陣に対し「僕は(注意には)大反対。もう少し子どもたちが自由に野球を楽しむということを考えてもらいたい」と語った。
 大会本部は、「高校野球としては、不要なパフォーマンスやジェスチャーは、従来慎むようお願いしてきました。試合を楽しみたいという選手の気持ちは理解できますが、プレーで楽しんでほしいというのが当連盟の考え方です」との日本高校野球連盟のコメントを発表した。(藤田絢子)

東北が「ペッパー・ミル」パフォーマンス 審判から注意、監督は反論

「髪型は自由」って、記事に取り上げられるような話なの とは思うけれど、逆に言えばこのレベルの高校野球部では画期的!なんでしょうね。

最近、いろんなスポーツ競技で世界の大舞台に立つ若い選手たちが、口々に「楽しみたい」という言葉を口にします。 僕自身にはよくわからないのですが、それを実践した結果として、輝かしい成果をつかむことも増えています。 そういう意味で、佐藤監督の言葉は含蓄が深いと思うのです。 

それに対し、審判がなぜ止めたのかについて、高野連の「フェアプレー精神」に触れたことが影響したと分析した記事もありました。

日本学生野球憲章の前文には「学生野球としてはそれに止まらず試合を通じてフェアの精神を体得する事、幸運にも驕らず悲運にも屈せぬ明朗強靭な情意を涵養する事、いかなる艱難をも凌ぎうる強靭な身体を鍛練する事、これこそ実にわれらの野球を導く理念でなければならない」(一部抜粋)とある。さらには総則の第1章、第2条(学生野球の基本原理)、②では「学生野球は、友情、連帯そしてフェアプレーの精神を理念とする」と記述されている。
同憲章は1946年の制定以来、改正を経ているものの、前文などは制定時の姿を維持。

なぜ注意?東北 甲子園の「ペッパーミルパフォ」で物議 ネット賛否「エラーでやるのは」「教育の場」学生野球憲章に記述も

甲子園が「教育の場」であることは事実ですが、と同時に視聴率を気にするショービジネスの側面、将来のプロ野球選手を発掘(目利き)をする見本市の場、という側面だってあります。後者については、たいていの出場選手はそこで発掘され、プロ野球に進むことを望んでいることでしょう。その視点に立てば、高校野球ではプロを見習っちゃダメ って、厳しいんじゃない・・・

どこの世界でもそうでしょうけど、プロの世界は「綺麗ごと」や「純真さ」だけで成り立っているわけじゃありません。酸いも甘いも知ったうえでどれだけパフォーマンスが出せるかという世界です。彼らはまもなく、保護(監視)された学校生活を終了し、そちらの世界で生きていかなければいけません。

そこへの登竜門で、全面的に禁止する理由とは・・・彼らを「かまととぶらせたい」から・・・誰が?   なんて。

かまととの「かま」は「蒲鉾(かまぼこ)」、「とと」は幼児語で「魚」のことで、漢字では「蒲魚」と書く。
蒲鉾が魚から作られることを知らないふりして、わざとらしく「蒲鉾はトトからできているの?」と聞いたことから、「かまとと(かまととぶる)」という言葉が生まれた。
かまととが女性に対して多く使われる理由は、江戸末期の上方の遊郭で、うぶなふりをした遊女に対して使われ始めたことによる。

語源由来辞典

うぶな遊女を客が望んだのか、 うぶな遊女を客が望むであろう と察した遊女の演技なのか  です。

そもそも、1946年に制定された前時代的な野球憲章の前文の精神を体現せよ というほうが無理あるんじゃないかなあ と思います。

「幸運にも驕らず悲運にも屈せぬ明朗強靭な情意を涵養する事、いかなる艱難をも凌ぎうる強靭な身体を鍛練する事、これこそ実にわれらの導く理念でなければならない」うむ、大和男児かくあるべし みたいな。

たかだか野球やるのに、こんなもの後生大事にしてどうするんでしょう? いろんな意味でメンドクサイ組織 ですねえ。

参考追記 同様の記事です。まったく同感です。

日本の高校野球は「高校生らしい振る舞い」を球児たちに求めてきた。全力疾走、全力プレー、目上の人に対する礼儀正しさ、真面目さ、ひたむきさ。

・・・高校野球の言う「高校生らしさ」は、今の高校生の「ありのまま」を反映するのではなく、大人たちが「望ましいと思う高校生像」なのだ。それは「昭和の高校生像」と大差ない。

・・・今の「野球離れ」の責任の大半は、球児ではなく大人にある。既存の価値観に固執する大人たちは、本当に残念で仕方がない。

なぜ野球を楽しんではいけないのか…「ペッパーミル騒動」で明らかになった高校野球の残念すぎる現状  これでは「野球離れ」が止まるはずはない