名古屋下町散歩(柳橋中央市場〜四間道〜円頓寺商店街界隈)

名古屋駅から徒歩圏内に、市場があるのを知っていますか? それが「柳橋中央市場」って言うんですけど、そこから堀川にと平行に、円頓寺商店街まで朝の散歩を楽しみました。 四間道のあたりは古い町並みが残っていて、なかなか風情もありますよ。

駅前の大通りを南下し、スパイラルタワー(専門学校が集結した高層ビル)を左折し東に向かいます。柳橋という交差点で左折し北上すると、市場に出ます。

ここには、朝から営業しているラーメン屋「大河」があります。ラーメン700円。もやしがたっぷり、チャーシューが3枚載っててお得。特にもやしは丁寧に下ごしらえしてあるのか絶品ですね。ラーメンと麺は丁寧につくった「中華そば」。美味しいです。市場の中に机並べて、席は8席くらい。時間帯を選ばないと並ぶことに・・・ まだ食べたことないんだけど、きしめん屋も気になりますが・・・

と、腹ごしらえできたら、更に東に進みます。 堀川の手前で左折。界隈には「コーヒーハウスKAKKO花車本店」という有名なモーニングの喫茶店があります。ここは朝7時開店。7時前にもお客さんが入っているのでびっくりしますが、彼らは常連さん。小さなカウンターと2卓しかないから、しょうがないですねえ。 もちろん美味しいんだけど、「かわいさ」にお金を払っている部分もあるのかな、量の割にはちょっと高い と個人的には思いました。(そんな奴は、コメダで小倉トーストとゆで卵モーニング食っとけ!・・・)

「花車」優美な地名ですが、花車神明社があるからですね。住宅密集地にある「まとまった緑地」です。

ちゃんと山と海、それを鎮護する社まであります(笑)。

花車社の「山」
花神社の「海」

ここから、北上して広い道路(桜通り)を渡ったら、四間通(しけみち)界隈です。南端の浅間神社(ここも住宅密集地にある「まとまった緑地」)に界隈の地図が貼ってあるので、大体の位置を把握したら、あとは適当に路地に入ったり、散策を楽しみましょう。

慶長15年(1610年)に名古屋城築城と共に始まった清洲越しにともなって商人達がこの地に住み着いて作られた商人の城下町として始まり、最初の「名古屋」の街の誕生となった。

元禄13年(1700年)の大火で1600軒余りが焼失し、その後尾張藩4代藩主徳川吉通は、堀川沿いにある商家の焼失を避けるために、中橋から五条橋までの道幅を4間(約7メートル)に拡張したのが始まりである。このことから四間道と呼ばれるようになったという。
延焼を防ぐ防火壁の機能を持たせるため、尾張藩が通りの東側に石垣の上に土蔵を建てることを奨励したことから、土蔵造りの並ぶ街並みが形成されたとされている。


1945年(昭和20年)の名古屋大空襲時の那古野地区は、被害が比較的少なく破壊を免れた為、四間道には多くの古い町屋や土蔵など古い町並みがそのまま残った。戦後、名古屋市の都市開発などの影響で幾つかの古い町屋や土蔵は取り壊され、マンションや住宅、駐車場になった所があるものの、現在に至るまで多くの白壁の土蔵が連なり、2階に屋根神様が祀られている古い町屋も多く残っている。


この古い街並みが残っていたことから、1986年(昭和61年)6月10日に名古屋市の街並み保存地区に指定された。
元々は、中橋から五条橋までの堀川の西側にある地区を指していたが、南の浅間神社から北の円頓寺商店街のアーケード入口までを名古屋市が街並み保存地区に指定したことから、その保存地区の一帯をさすことが多くなった。

wiki 四間道

wikiの解説がしっかりしていて、あんまり補足することもない(笑)。

「四間道」の東側から土地が上り坂になっていています。坂を登りきると「熱田台地」。この台地上の町並みは、航空写真でもわかるけど、規則正しく碁盤目状に町割りされ、計画的な街が作られていました(その北端に名古屋城が位置)。つまり東側は、同じ城下町でもより格が高い町並み。下町と高級住宅街を分かつのが人工河川(運河)たる堀川 というわけ。

当時は運河が物流の大動脈でしたから、「堀川沿いにある商家の焼失を避けるために、中橋から五条橋までの道幅を4間に拡張し、通りの東側の石垣(坂の途上に宅地用平坦地を造成)の上は土蔵を建てることを奨励した」のも事実でしょうが、堀川を背に、より完全な防火帯にすることで、これより東への延焼は避けたい という意識もあったんじゃないかなぁ・・・

典型的な「四間道」構造(南から北を眺める)
まわりは「しっくい」の蔵ばかりなのに、珍しい石造り。大谷石かな・・・?だとすれば、流通が盛んになった明治以降のものかと。
隣は覆われてはいますが、「しっくり」造りです。にしても、両側を蔵に挟まれた住宅ってのも珍しい。
さまよった先の路地(子持地蔵尊の路地)  手水鉢に金ひしゃく 風情あります。
旧商家・中村家に残る屋根神(火除の秋葉さん) 低い二階が特徴的。 にしても、隣の家がすごく気になる!

楽しいのでフラフラ彷徨った挙げ句、ようやく「円頓寺商店街」に到着!

風情あるアーケードが残っています。それが縁でフランス・パリの商店街「パサージュ・デ・パノラマ」と姉妹提携しているそうです。しかし、フランスのパサージュと比較すると、空き店舗も多そうだし、なかなかなあ・・・。

長久山圓頓寺(えんどんじ)の門前町として広がっている商店街である。南側にある真宗高田派名古屋別院から御本坊筋とも呼ばれ、古くからの商家が集まる市西北部唯一の盛り場として、特に夜間に賑わいを見せたという。

商店街の路地に行くと円頓寺銀座街と言うこじんまりながらも昭和時代の古い平屋長屋の建物が並ぶスナック、バー、ベトナム料理、割烹、居酒屋、など何軒か立ち並ぶ小さな飲食街がある。

wikiより抜粋
これが噂の「円頓寺銀座街」だっ!

商店街を歩いていると、面白い建造物を見つけました。超省スペースな「金比羅神社」。

中央に人が写っていますが、比較すると神社のサイズがよく分かるでしょう。 それでも細長い敷地をうまく使って、参道を最大限確保してるのがわかります(笑)。

案内看板によれば「名古屋城築城当時より城内三の丸の重臣大通寺氏邸に祀られていたが、安政六年(1859年)この地に移された。 毎年十月十日は大祭が行われる。」ですが、「そんな由緒ある神社が、なんでこれだけの敷地しか確保できてないの?」とか「大祭はどこでやるんですか?(場所ないじゃん)」とかいろいろツッコみたいところ。

御本坊筋」の由来となった、高田派名古屋別院がこちら。 写真に写ってる石碑には「愛知別院」と書いてあるけれどなぁ・・・

真宗高田派ってそれなりの規模の宗派で、三重県津市一身田に立派な本山があるよね。地域的に尾張は多くの末寺があったはずで、その「別院」なら、「地域本社」として立派な寺であるはず・・・なんだけど、本堂しょぼくね?(山門は立派だけど)

真宗高田派(しんしゅうたかだは)は、三重県津市の専修寺を本山とする浄土真宗の一派。親鸞の門弟真仏、顕智が率いる下野国高田(現在の栃木県真岡市高田)の専修寺を中心とする高田門徒の流れを汲む。末寺数、約640寺。

wiki

浄土真宗高田派、江戸時代には、東西に分裂した本願寺(本願寺派と大谷派)に次ぐ第三勢力派だったのね。この寺も江戸時代は末寺73寺を持ち、昭和期まで愛知県下に於ける高田派の拠点(愛知別院)だったんだけど、大戦末の空襲で山門や鐘楼を残して全焼。境内跡に、羅災者のバラックが53戸も建っちゃったそうな。立ち退きさせて昭和27年以降再建が進んだけれど、宗教法人法に基づく寺院規則の制定に際し、護持地域等を考慮して「愛知別院」を改め「名古屋別院」と称したとな(参考;wiki別院紹介

超訳すると「なかなか再建できないうちに、末寺がほとんど独立し、当寺は衰えちゃった」ということかいな・・・    名残の門と鐘楼。

商店街を西に進み、少し内部に入ってみると、また面白い建物を見つけましたよ。(江川線沿い)マンションの1Fに店舗が入居しているようですね。外階段を上がった2Fには広い外スペースがある感じ。どうなっているのかな?水害に備えた高所避難スペースにでもしてるのかな?(駐車場は地下に設置されているようです)

もう12月29日なので、シャッターしまっていますが、看板は出ていますし、事務所とか店舗が入居しているようです。それにしても、この部分にこんな広い遊歩道を作る必要があったのかなあ?それほど人通りが多いとも思えないのですが・・・

「那古野ビル」と言うそうで、南館と北館に分かれています。SUUMOの情報によると

・エントランスが江川線に面しており、買物など便利な環境です。
・昭和53年4月築、名古屋市住宅供給公社旧分譲のマンションです。

僕が撮影したのは江川線に面していないほう。ま、その必要性とかはよくわかりませんでした。

少し早いですが、名古屋駅まで戻って昼食にしましょう。いつも昼食を取る店があるので。 あじのあとりえ「まつなが」です。 駅地下街、近鉄改札口の近く。 今日は、おまかせ定食にします。

唐揚げ二個、刺し身(マグロ、タイ、ねぎとろ)、漬物と味噌汁で1080円。味噌汁の濃さが好みですし、刺し身も新鮮で美味い。ご飯けっこう盛られているし。場所を考えると妥当かむしろ安い価格設定だと思うのですが、食べログの評価はあんまりよくないですねえ。そういえば、コロナ前は冷奴がついていたような気もしますけど・・・