富士山周遊その1 浅間神社めぐり

友達のとこに遊びに行ったついでに、3日ほど富士山を周遊してきました。 その時に見たりあとで調べたことを、何回かに分けて紹介します。 最初は「浅間神社」です。

富士山が「世界遺産」に登録されているのは有名なんですが、それが自然遺産ではなく文化遺産、その登録名称が「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」として、構成要素25のうち8箇所までが「浅間神社」であることまでは、あまり知られていないんじゃないでしょうか? (富士山や富士五湖、忍野八海、白糸の滝や三保の松原など、自然も素晴らしいですが)

登録された8箇所の浅間神社は、以下の通り。このうち、太字の6箇所巡ってきたので、紹介します。

  • 北口本宮冨士浅間神社(富士吉田市)
  • 富士山本宮浅間大社(富士宮市)
  • 山宮浅間神社(富士宮市)
  • 村山浅間神社(富士宮市)
  • 須山浅間神社(裾野市)
  • 冨士浅間神社(小山町須走)
  • 河口浅間神社(河口湖町)
  • 冨士御室浅間神社(河口湖町)

これらの登録されている神社の多くは、富士山の登山口に位置しています☆。歴史的に「富士登山=神聖な宗教行為」でしたから、登山口の神社に参拝してから登山を始めたのですね。

☆補足 江戸時代後期の地誌「甲斐国志」には、登山道は北は吉田口、南は須走口・村山口・大宮口の四道なり」と書かれているそうです。 下の図を見ると、吉田口には北口本宮冨士浅間神社、須走口には富士浅間神社、村山口には富士山本宮浅間大社と村山浅間神社、大宮口には富士山本宮浅間大社と山宮浅間神社が位置しています。

富士山ミュージアムの展示資料より

①北口本宮冨士浅間神社

富士吉田にある神社です。 人口稠密な江戸から富士山に至る主要道は、甲州街道〜上吉田(富士吉田市)〜吉田口登山道〜山頂でしたから、この神社の参拝者が大変多かったとのこと。

個人的な見どころは、参道と社務所の唐破風(笑)。

なかなか雰囲気ある参道
立派な唐破風だよね。なんで質素な造りの社務所に、こんな立派な唐破風が?バランス悪いけど・・・

②富士山本宮浅間大社

駿河国一宮であり、全国に約1,300社ある浅間神社の総本社なので、浅間神社巡りでは、行かないわけにはいかないけど・・・もう普通の観光地ですなあ。「神々しい」とか「神社っぽい」感じはあんまりしない・・・。街の中心部なのにきれいな富士山の湧水が湧く池があるとか、見どころはあるけれど。

個人的なおすすめは、門前近くの「北川製餡所」の「御くじ餅」。門前にアンコ屋なんていう店を開いているくらいですから、こりゃ買いだろ!と閃いて、見事正解。

土産に買ってきて、大変好評でした。白玉粉の柔らかい餅の中に、良質のアンコがたっぷり入ってます。アンコ屋の作るあんころ餅。まあ外れないですわなあ。

特別天然記念物「湧玉池」 カモ?もいるでよ。
本殿。「浅間造」と呼ばれる独特な形状 (重要文化財)

③山宮浅間神社

富士山の神さまが最初に祀られた場所と言われてます、つまり、「最も古い浅間神社」なわけ。

この神社の特徴は、他の神社のように富士山の神さまである「木花咲耶姫(このはなさくやひめ)」を祀る本殿がないこと。

代わりに一番奥まった高い場所に、富士山を拝む「遙拝所」と呼ばれる場所があります。つまり、この神社の御神体は富士山そのものなのです。

神域から遥拝所を望む
遥拝所から望む富士山

これは一番古い形の神祀りに近く、たいへん特徴的です。他に思い浮かぶのは大神神社や那智大社での事例。

当社は古来本殿を設けずに直接に三輪山に祈りを捧げるという、神社の社殿が成立する以前の原初げんしょの神祀りの様を今に伝えており、その祭祀さいしの姿ゆえに我が国最古の神社と呼ばれています。「大神」と書いて「おおみわ」と読むように、古くから神様の中の大神様として尊ばれ、第十代崇神すじん天皇の時代には国造り神、国家の守護神としてあつまつられました。

大神神社 ご由緒

熊野那智大社別宮飛瀧神社
御瀧そのものを大己貴神が現れた御神体としてお祀りしています。
熊野那智大社が造営される以前、熊野の神様は元々ここでお祀りされていました。

社殿案内

神倉神社は市街地の西、権現山(神倉山)の南端に鎮座する、熊野速玉大社の飛地境内摂社です。
「ゴトビキ岩」を御神体(ごしんたい)とし、高倉下命(たかくらじのみこと)・天照大神(あまてらあすおおみかみ)を祭神としています。
熊野の神が降臨した地とされ、絶壁の上の巨岩「ゴトビキ岩」に、古代の人々は神がやどると信じていました。

熊野三山協議会

④村山浅間神社

長くなりますので別記事にします。

⑤冨士浅間神社

須走登山口にある神社です。ここも雰囲気ある参道が見どころかと。あと、神社門前と駐車場との間にある石畳の歩行者道は、甲州街道ならぬ、鎌倉往還のあとだそう。あるいは、武田信義がこの街道を通って、鎌倉に向かったこともあったのかな?(見てないけど)

鎌倉街道(かまくらかいどう)は、各地より鎌倉に至る道路の総称。特に鎌倉時代に鎌倉政庁が在った鎌倉と各地を結んだ古道については鎌倉往還(かまくらおうかん)や鎌倉道(かまくらみち)とも呼ばれ・・・鎌倉幕府の御家人が有事の際に「いざ鎌倉」と鎌倉殿の元に馳せ参じた道。

wiki

⑥河口浅間神社

864年に富士山が大噴火し(貞観大噴火)、翌年の865年、山を鎮めるため建立された神社です。 この時の大噴火は凄まじくて、噴火流が流れ込んだ湖の中央部が埋まってしまい、「西湖」と「精進湖」に分断されたほどでした。

神域には、七本杉と呼ばれる杉の大木があって、その規模と数に圧倒されます。木々の間から見た拝殿ですが、なかなかいい感じじゃないでしょうか?

ちなみにこの神社は、本殿が富士山と向かい合っています。 感覚的には、参拝すると本殿の向こうに富士山が位置するような伽藍配置が一般的だと思いますので、これも特徴かもしれません。

蛇足 「富士山登るなら大山も登れ」 って聞いたことありません?大山は神奈川県・丹沢山系にあり、標高1200m程度。富士山に比べれば手軽に登れる山です。 形が富士山タイプ(○○富士)で古くから山岳信仰の対象だったこと、大山頂上の神社に祀られた神様が、富士山の神様である木花咲耶姫の父親に当たるそうで、そんなところから繋がってきたことのようです。

まあ富士山に登るまえに、江戸から手軽に行ける大山に登ることを推奨することは、「山に登れるカラダづくり」トレーニングとしても理にかなってます! たぶん現代でも、いい手順だと思います。

富士山のような三角形の美しい山容から、古くから庶民の山岳信仰の対象とされた(大山信仰)。山頂には巨大な岩石を御神体(磐座)として祀った阿夫利神社の本社(上社)がある。

大山

大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)の御祭神が富士山の御祭神である木花咲耶姫の父君に当たることから「富士に登らば大山に登るべし、大山に登らば富士に登るべし」と伝えられ、大山と富士山の両山をお参りする「両詣り」も盛んに行われました。

大山阿夫利神社について

佐渡金山って「世界に誇る」文化遺産なんですか?

【ソウル=時吉達也】日本政府が1日、「佐渡島の金山」(新潟県)の世界文化遺産への推薦を閣議了解したことを受け、韓国政府は対応部署を新設し、官民を挙げて登録阻止に取り組んでいく方針を打ち出した。韓国メディアは「骨を削るような外交戦へ」(ハンギョレ紙)などと速報している。

佐渡金山 韓国が対応部署 「骨削る外交戦で登録阻止」

はあ。いつもの国が、いつもクレーム。鉄板ネタっすね。律儀なことで。

それはそれとして、そもそも佐渡金山って、「世界に誇る文化遺産」に値するのか、いまいちわからないんですけど・・・ 

国内を代表する金山である「佐渡島の金山」では、江戸幕府の直接管理の下、高純度の金を産む生産技術とそれを可能とする高度に専門化された生産体制が整備され、世界でも類を見ない大規模な金生産システムが長期間にわたって継続していました。これは同じ頃にヨーロッパとその進出先で行われていた動力機械装置を多用する鉱業とは対照的なあり方を示すものです。また、幕府によって日本各地から集められた労働者たちによって、信仰や芸能、娯楽などの豊かで多様な鉱山由来の文化が育まれました。
「佐渡島の金山」では異なる二つの金銀鉱床(鉱脈鉱床・砂金鉱床)の開発が進められ、17世紀には世界最大級の産出量を上げ、江戸幕府の財政やオランダを通じて世界貿易にも貢献しました。
現在、佐渡には金の生産技術に関わる採掘・選鉱・製錬・精錬の遺跡、生産体制に関わる奉行所跡や鉱山集落跡などが残り、鉱山の全体像を理解することができます。
こうした遺跡が良好な状態で残るのは世界的に見ても佐渡だけであり、そこに世界遺産登録の意義があると考えています。

佐渡島の金山 世界遺産登録を目指して

まず後半部から。

当時、佐渡の金山が世界有数の金鉱山であったことは間違いないし、その遺跡が良好な状態で残っているのもそのとおりだと思うけれど、それって「文化的価値」なの?

前半部の文言は、一見意味が取りづらい、でも非常に意味深な迷推薦文ですねえ。「モノは言いよう」というか。

高度に専門化された生産体制が整備され、世界でも類を見ない大規模な金生産システムが長期間にわたって継続していました。これは同じ頃にヨーロッパとその進出先で行われていた動力機械装置を多用する鉱業とは対照的なあり方を示すものです。

同時代のヨーロッパの鉱業で、動力機械が何に使われていたかというと、地下坑道に大量に湧出する地下水をくみ出すためのポンプとして使っていたのです。他方、動力機械のなかった江戸時代の佐渡金山では。その仕事を人力でやっていました(水替人足)。

また、幕府によって日本各地から集められた労働者たちによって・・・

劣悪な環境下での重労働でしたから、初期は高賃金で人を集めていました。が、次第に坑道も深くなり更に労働条件が悪化すると人足のなり手がなくなります。困った幕府は、全国(の農村)から江戸(仕事のある大都会)へ流れ込んだ「無宿人」(戸籍のない人)の排除政策を兼ね、彼らを佐渡に送り、水替人足として使役したのです。その境遇は悲惨でした。

「四十をこえたるはなく、多く三年、五年の内に肉おち、骨かれて、頻りに咳出て、煤のごときもの吐きて死する」

佐渡金山を含め佐渡全島を支配していた幕府の出先機関「佐渡奉行所」の奉行、川路聖謨が「島根のすさみ」に書き記したものです。  

 無宿人とは言えあまりに酷い(量刑期間前に島から抜け出せば死罪) という声も出て、「人足寄場」が設置された という説も。 「鬼平」が関わってくる話(笑)。

江戸幕府の設置した軽罪人・虞犯者の自立支援施設である。
軽度犯罪者・虞犯者に対して教育的・自立支援的なアプローチを取り入れた処遇を行った点が当時としては画期的だった。しかし、実態は現在でいう強制収容所に近く、後述のように問題が多々あった。
人足寄場の設置以前には、無宿者の隔離および更生対策として佐渡金山への水替人足の制度があった。しかし、水替人足は非常に厳しい労役を強いられるものであり、更生というより懲罰という側面が強かった。そのため、犯罪者の更生を主な目的とした収容施設を作ることを火付盗賊改方長官である長谷川宣以(長谷川平蔵)が松平定信に提案し、人足寄場が設置された

加役方人足寄場

佐渡というのは、古事記の「国生み神話」にも出ており、古くから島一つで「佐渡国」を形成していた歴史ある島です(でも、「佐渡国・国司」っていないよな。それでも国分寺は建てられてるな。本田「佐渡守」正信(徳川家康の謀臣) とかいるし・・・)。それに佐渡の小木港といえば、北前船の寄港地として有名。ゆえに、特色ある豊かな文化を持った島だと思います。

が、「鉱山」に限定すると、背景として前述のような人々も含めた上での「多様な鉱山由来の文化」を、誇らしげに発信できるものか・・・むしろ日本文化的には、「秘すれば花」という扱いがふさわしいのではなかったかと。(もうオオゴトになってるから、引くに引けないけど)

いや、もしかして、(それを含めた悲惨なシステムが)長期間にわたって継続していた ことを自賛しているのかな?であれば、それはそれですごい文章です。世界に『日本の「社畜」「過労死」「無理ゲー」「機械化できるものを機械化せず(IT化しない)むしろそれを正当化する」文化的原点ここにあり』と知らしめるのが目的の深謀遠慮なのかも(笑)いや、笑えんな。

ことの発端は、ただ単純に、「西の石見銀山が世界遺産なら、東の佐渡金山も」くらいだったのかもしれないけれど。

そういや某国も「強制徴用」を問題にするなら、この非人道行為をもってふさわしくないと言うなら、イチャモン国家ではなく人道国家として、世界に見直されるんじゃないすか?・・・現在の基準で、歴史を評価してはダメ と言うのが一般的な見方ではあるでしょうけど、彼の国では、非人道的行為は時代を超越する みたいだから、ね。