堤防構築の作用・副作用(「矢作古川二重堤之跡」石碑)

西尾市今川町の田園地帯の中に、ひっそりと「矢作古川二重堤之跡」という石碑が建っています。

Google航空写真で赤丸をつけた場所に建っています。しかし矢作古川まで、直線距離でも500m以上離れています。これはいったい何でしょう?

上の航空写真の右上から下中央にかけて「矢作古川」「広田川」「須美川」という3本の川が流れているのが分かると思います。矢作古川は大河川で大量の土砂を含んだ水が流れています。(大量の土砂が河床に堆積し、洪水が発生しやすい)広田川は中河川で、菱池という池を水源とする川(前に記事でも取り上げました)。須美川は小河川ですが、やはり大量の土砂を含んだ水が流れています。規模と特性の違う川が合流してくるこの辺りは、洪水の常襲地帯だったのです。

この地を治めていたのは、西尾藩(土井氏)と旗本(吉良氏)です。吉良氏の領地は写真右下の小山より南側であり、他は西尾藩領でした。 少し広域の地形図を表示します。〇に×印で示したところが、石碑の位置です。

黄色のハッチが掛かっているのが吉良領です。ちなみにピンク色の着色は、当時の主要街道(吉良道と平坂街道)です。

吉良領から主要街道が北方の西尾藩領に抜ける場所(①の場所)は、二つの丘陵に囲まれた窪地になっていました。実はこれ、須美川の旧河道です。そのため土地が低く、この辺りで洪水が発生すると、水がここから吉良領に流れ込んだのです。

洪水のたびに難儀を被っていた吉良領の人々は「丘陵の間を締め切ってくれ〜」と思っていました。一方、西尾藩領の人たち(と藩主土井氏)は、洪水が吉良領の方に行ってくれるから「吉良領の人たちには悪いけど、水があっちに行ってくれたので、川西のうちらは助かった。」という状態でした。

この状態が、1686年に動きます。ついに①の場所に堤防が築かれたのです(地元ではこの堤防を「黄金堤」という)。西尾藩土井氏との困難な交渉をまとめたのが、時の吉良家当主・上野介義央。そう、忠臣蔵で有名なアノ人です。

吉良氏は4500石の旗本。土井氏は23000石の大名で交渉は土井氏側有利・・・のハズですが、義央は時の将軍綱吉お気に入りの「出来る子」でしたし、高家筆頭という仕事もしていたので、土井氏側も折れざるを得なかったのでしょう。

それでも、西尾藩側は「堤防工事は一昼夜だけ」「堤防が壊れたら直しちゃダメ」と最大限自領を守るべく条件を付けるんですが(どこまでが事実かは分かりませんけど)、悲願がかなう吉良領の人々は張り切り、すぐに立派な堤防ができちゃいました!

となると、困ったのが西尾藩領の人々。これまで吉良領側へ溢れてたはずの水が、自分たちの方に流れて来るわけですから。

 そこでとられた対策は主に二つ。一つは、吉良領との境にある花蔵寺村です。ここは村を丸ごと囲う「輪中」堤防を築きました。上の地形図で②と書いてある場所です。(詳しくは以前に記事にしたのでそちらでどうぞ。)

もう一つが、「矢作古川の二重堤防」です。矢作古川の西側(右岸側)にはもちろん既設の堤防があったんですけど、その奥にもう一つの堤防を築いたのです。(上の地形図で③と書かれた箇所。)結果として、小焼野・宅野島の集落を含む水田地帯を、実質遊水地にしたんですな。

でも、なぜ既設の堤防の強化を行わず、二重堤防という、集落を犠牲にするような手法を取ったのでしょうか?

この辺りは歴史の本を読んでも書かれていないので、僕の推察ですが、たぶん二つの理由があったんだと思います。

1.ここ(遊水地)で洪水を食い止めないと、下流も低地なので、超大規模洪水になってしまう。

 下のデジタル標高図をご覧ください。いま話をしているのは、赤丸で囲ったあたりなんですけど、矢作古川西側の地(西尾藩領)はここから海に向かってどんどん標高が低くなっていきます。万一赤丸部分で洪水を止められなければ、下流一面水浸しになってしまいます。それだけは避けたかったのでしょう。

もちろん既設の堤防の強化も考えたんでしょうけど、その堤防が切れたら終わりです(まだコンクリートとか重機もない時代ですし)。それより、堤防を二重化し遊水地化することで、より確実に下流を守るという判断をしたのではないかと思います。

2.既設の堤防が再利用できた

二重堤防は、総延長3.3kmと言われています。大堤防を新築で造る大工事なら、2万石クラス大名では過分の負担ですから、必ず記録が残っているはずです。それが市史においても「建造年度不明」。ってことは、大規模な工事ではなかったのかもしれないなぁ。

おそらく二重堤防を「新たに築いた」のではなく、1646年に廃川にした弓取川の旧堤防や微地形を巧みに利用した比較的小規模な突貫工事だったからではないかと・・

弓取川というのは、古来矢作川の本流だったといわれるような大川でした。新田開発のため埋め立てられましたが、廃川後40年程度の1686年頃なら、堤防跡が残っていたのではないでしょうか。「小焼野で矢作古川から分岐し、今川と細池の間を流れていた」ということですから上記地形図の位置とほぼ一致しますし。

遊水地化した二重堤防内の集落ですが、おそらく弓取川なり矢作古川に面した集落として発生したと考えられるため、小焼野の集落は矢作古川の堤防裏。宅野島は「島」とつくような微高地に立地し、集落はある程度水害からも守られていたのではないかと考えられます。そのため二重堤防は長く残され、石碑によれば1933年、ようやくお役御免で平らに均されたそうです。

平らに均された現代の僕らから見ると、「なんでこんなところに二重堤が?」と見えちゃうんですけどね。

石碑裏の解説文

矢作川開削と下流域村々の変容

というタイトルの文化財展が、碧南市文化会館(中央公民館)で開催されているので見学してきました。 12月2日まで、月曜定休で開催中。朝9時から夜9時までやってるよ〜。

このブログのタイトルが「流域環境防災」と書かれているように、僕は河川が地域社会(と歴史)に与えた影響についてとても興味を持っているので、かなりいい展示でした!

と言っても、一部屋だけのミニ展示会であり、展示のメインは、下の10枚のパネルに集約されるのですが。(「撮影禁止」とは書かれてなかったので撮影しちゃったけど、著作権もあるでしょうから、これ以上の拡大は載せません。見に行ってください。 

時代を経るごとに、と言うか江戸時代初期(上右から2枚目)に矢作川の下流に1.3kmの放水路を開削したことで、下流の内湾がどんどん陸地化されていく様子を示したパネルです。

たかが10枚のパネル。でも、この「時代を追って矢作川下流域がどのように変化(主に新田開発による陸域化)したか」ということが、体系的に図示された出版物は見たことがありません。僕はそれを探していました、でも見つからないので、こんな感じだったんじゃないか?という妄想図を書いて(左のカテゴリー「西尾の地歴史」をご覧ください)いたくらいです。それがあると、歴史の流れが分かりやすく説明できると思うから。 このパネル、是非書籍化してほしい・・・

文化展では、同名の解説資料を貰えました。残念ながら10枚パネル図は含まれていないのですが(どうしても推定が多いので、学術的に載せるのは厳しいのかも・・・)、内容的にはとても充実していて重宝します。これを無料で配布してくれるんだから、碧南市さん太っ腹〜。(一家族一冊、先着1000名だっけ?だそうです)

流域の流れを冊子からまとめて箇条書きします。←は僕のツッコミと追記です。

  • 戦国時代以前の小島村、志貴野村下流の矢作川に堤防はなかった。網の目のように低地を幾筋にも分流していた
  • (現在の碧南市には内湾が広がっていた。その郡名である)「碧海郡」は美しい入り江の風景と碧い海からその名が付いたと言われる ←上記パネル右上「平安時代」を参照のこと
  • 1605年の矢作新川開削の規模は幅36m×長さ1310mで、開削規模から考えると、当時この掘割が矢作川本流になるとは想定していなかったのではないか←土木的にいえば、最初はたぶん「放水路」を造ろうとしたんです。海(内湾)へ放流するタイプの。

放水路(ほうすいろ)とは、河川からの溢水による洪水を防ぐため、河川の途中に新しい川を分岐して掘り、海や他の河川などに放流する人工水路のことをいう。分水路と呼ばれることもある。道路におけるバイパスに相当する機能を持つ。
日本の放水路には例えば新北上川(北上川の放水路)、大河津分水(信濃川の放水路)、荒川(隅田川の放水路)、新淀川、太田川放水路(太田川の放水路)などがある。

放水路 wiki
  • ところが、開削した放水路は落差が大きく、両岸が浸食されみるみる川幅が拡大した。川幅は藤井村・米津村で開削後160年ほどで6.7倍に拡大し、田畑や屋敷が失われた。
  • 上流から来る矢作川の流砂と浸食された土砂は内湾へ流れ込み、開削から35年程度で最初の河口(米津)から内湾の半島であった鷲塚まで、着物の裾を上げれば渡ることができるくらいまで埋まってしまった。そのため、内湾の北部(北浦)はいわば湖状に。北浦に流出する河川水や雨水が海に排出困難な上、洪水時は矢作川から北浦に水が流れ、北浦に面した村々は災害を受けるようになった。←北浦はその後規模を縮小しながらも、「油が淵」として現存。
  • 災害対策として、米津から鷲塚までの浅瀬を堤防にしました!その後も堤防の前に砂はたまり続けたので、緩衝地の意味も含めそこを新田として開発しました(陸域化)。北浦から矢作川への排水路(悪水路)も整備しましたよ
  • 流砂はさらに溜まり、下流にもどんどん溜まっていきます・・・そこで人々は、利害が異なる村々の調整を行いつつ順々に新田開発(陸域化)し、埋まった排水路を下流へ移し・・ ←と江戸時代以降延々とやってきたのが、この地域なのです! それをやりつくしたのが「現代」・・・とまでは真面目な冊子なので書いてないが、まあそういうことだね。
  • 矢作川水運の主要港は最初「米津」にあったんだけど、川に砂が溜まって河床が上がるのに合わせ、米津→鷲塚→平坂とどんどん下流に移って行きました。
  • それとは別に、碧海郡の先端「大浜」にも大浜港があり、ここは矢作川の流砂の影響はほとんどなく、また境川・矢作川の河川結束点でもあったので最後まで栄えることができました。←栄えた港町には、必ず立派な寺社仏閣だったり宗教行事(お祭り)があります。儲けは大きいけど、命の危険を伴う海の仕事には神仏の加護が不可欠だからでしょう。大浜にも寺院街があり、美術館もあり、ちょっと散歩にいいところ。その記事はこちら
  • 大浜港の歴史は古く、中世には三河の港としては唯一の年貢運送・取引業者(問丸)がありました。その後も栄えました。(←明治時代にできた三河鉄道の始発駅も大浜です。詳しくはこちらの記事をどーぞ)
  • 織田信長の初陣は、大浜の砦(大浜羽城)が攻撃目標でした。 

←大浜は、織田氏と敵対する松平氏(というか今川氏)の支配下でした。初陣として攻撃するには那古屋から遠く、攻撃難易度は高いです。ただし、織田家は尾張の津島湊(伊勢湾海上交通で栄えた港、もちろん問丸もある)を支配しており、そこの商人から多額の軍資金を得ている関係がありました。なのでスポンサーから「旦那ぁ、商売敵の大浜湊やってくだせえ、軍資金も弾みますんで!」と言われたのかもしれないね。

うん、見事な冊子でした(マニアにはね) 拍手!!