宮路山・五井山、赤坂・御油宿そしてラーメン山岡家

地元で人気の宮路山(362m)・五井山(454m)に登ってきました。 地元なのに初めてだけども。

平日の7:35。自宅をカブ(原付二種)で出発。ちなみに仕事日はたいていこの時間に家を出ます。

宮路山登山口(内山駐車場)には8:30到着。車が2台くらい止ってました。まあもっと上まで車で行けるから、多くの人はそっちに駐車しますよね。山登りが久しぶりだったので殊勝にも「下から歩きたい」と。さっそく登り始めました。

こんな感じの気持ちいい里山を歩いていくと峠(切通し)に出て、

その脇に第一駐車場。行きはいいけど、帰りは「バイクここに止めればよかったー」と。

そこから15分ほどで頂上(9:15)。 標高の割に景色がよい(三河湾から渥美半島まで)のが人気の秘密です。

頂上には「宮路山聖跡」碑があります。 

大宝2年(西暦702年)の10月~11月、持統上皇が伊賀・伊勢・美濃・尾張・三河の五か国に行幸され、途上ここに来たことを記念し、大正時代に建てられた碑です。

*蛇足ですが、大宝2年(西暦702年)という年が少し引っかかっていました。で、思い出しました。西尾市吉良町にある幡頭神社。ここの創建が大宝2年と伝えられているんですね。 祭神は日本の建国神話に関わり合いのある人物だし、この神社の創建は持統上皇の行幸と何か関連があるのかも・・・。

三河湾を一望できる岬の先端に鎮座する式内社 幡頭神社(はずじんじゃ)は大宝二年(702)の創建と伝えられ、平安時代初期に成立した『延喜式(えんぎしき)』にも記される古い神社です。祭神は建稲種命(たけいなだねのみこと)で、日本武尊の東征に従った建稲種命が駿河沖で遭難し、遺骸が宮崎海岸に漂着し、当地に葬られたと伝えられています。

西尾市観光協会

持統上皇は行幸を終えた12月に亡くなられているんですね。 そんな死期を悟った上皇の行幸集団が、こんな山の上まで来るか?と思ったアナタ。

実は先ほど紹介した「切通し」の看板に記載があるのですが、この山は古代東海道の道中にあるのです。さらにこの山は先に亡くなった息子さんとも縁があったようなんです。だから、上皇は実際にここに来られたんじゃないかな。

宮路山の名が歴史に出てくるのは大宝2年(702年)。このころ、持統上皇が三河を巡行。その最中(701年)に大宝律令が公布され、穂の国は三川(西三河)と統合され、三河の国となりました。
壬申の乱(672年)の時、持統上皇の子、草壁皇子が宮路山山頂近くで守備にあたり、皇子は宮道天神社の祭神となっています。
今となっては、宮路山山頂付近に本殿があるのは不自然にも思えますが、東海道ができる以前は、むしろこちらがメイン道路であったと思われます。鎌倉街道も宮路山山頂を通過していました。

宮道天神社 音羽商工会

三河国府から岡崎方面に抜けるルートは一筋しかない。それは現代の国道1号線(近世東海道でもある)や名鉄名古屋線が通る山間の地峡を通るコースである。しかし、平安時代にはこの地峡は通れなかった。なぜなら、このルートは現在より急峻かつ長大な沢で、かつて赤坂地区には湿地帯が広がっていた。ここ音羽川と山陰川が合流する地点(落合)は雨の季節には、通過困難な地域であったことは容易に推測される。この地峡を抜けるには沢の南西側の山の尾根や山麓に上がり、水を避けて歩くしかなかった。沢筋のルートが通れるようになるのは、室町時代以後の事だという。

平安時代東海道はなぜ宮路山を通っていたのか  更科日記紀行

少し休んで五井山へミニ縦走。南西に2kmほどでしょうか。視界は利きませんが、それほどアップダウンもなく10:15に五井山頂上に到着。三河湾がさらに近い~。

早いですがここで昼食。 持ってきたガソリンストーブでラーメンを作って食べました。

レギュラーガソリンが使えるので、カブツーリングには最適な装備かなあと思ったりして。なぜなら燃料はカブのタンクから抜き取ればいいし、ボトルはいざとなればカブの予備ガソリンタンクとしても使えるだろうし(カブの燃料タンクは満タンで4Lしかない)、最適な装備じゃろ と思ってたけど、久々に使ったガソリンストーブ、面倒だわあ。

そういや。このストーブは「新富士バーナー(ブランド名はSOTO)」製なんだけど、新富士バーナーって宮路山のふもとの海岸べりにあるんだった。関係ないかぁ。

五井山を11時に出て、内山駐車場に下山したのが12:30 久しぶりに山登りしたから結構くたびれた・・・

が、登山口(音羽町)は昔、赤坂宿と呼ばれた東海道の宿場町。ちょっと覗いていきましょう。と言っても昔ながらの街並みががっつり残っているわけじゃないんだけどね。

それでも、昔の旅籠である旧「鯉屋」が資料館として残ってたり(現在の屋号は大橋屋で、江戸時代の建物のまま2015年まで創業から366年営業してたそうな!)

はす向かいの尾崎屋さん も風情あるよね。

んで、赤坂宿の東隣の宿場が「御油」なんだけど、その道中に天然記念物「御油の松並木」があります。

御油の松並木

少し前に同じく東海道は池鯉鮒(知立)の松並木も見に行ったんだけど、御油の方が雰囲気があっていいいね。 知立の方は自動車がひっきりなしで雰囲気が・・・

知立の松並木 知立散歩より

なお補足ですが、御油の松並木の天然記念物指定は、なんと昭和19年11月。敗戦の色濃くなってきた軍国日本では、松の根をから「松根油」を作るため、全国で「松の大虐殺」が流行してた時代。 当時絶大な権力を持った軍の意向に逆らい、文化財指定することでこの松並木を守った関係者の勇気と慧眼、素晴らしいです!

松根油(しょうこんゆ)は、マツの伐根(切り株)を乾溜することで得られる油状液体である。広義にはテレビン油の一種であるため、松根テレビン油と呼ばれることもある。太平洋戦争中の日本では航空用ガソリン(航空揮発油)の代替物としての利用が試みられたが、非常に労力が掛かり収率も悪いため実用化には至らなかった。
・・・戦時中の宣伝によると「200本の松で航空機が1時間飛ぶことができる」とされ学徒を動員し伐採が行われたが、これは数十年かけて育ったマツ1本を消費してもわずか18秒分にしかならないということであり、バイオマスエネルギー資源としては効率および再生産性に欠ける。

wiki

学徒動員して松の根を「手作業」で掘らせる前に、費用対効果分析(コスパ計算)やれよって感じです。これが滅私奉公日本帝国の真の姿(笑)。さっさと降伏しなよ・・・

御油は、あんまり「旧宿場町っぽい」印象に残るものはなかったです・・・。と、説明が通り過ぎてしまいましたが、松並木より赤坂宿側に関川神社という小さな神社がありまして、そこに松尾芭蕉の句碑が残っています。

「夏の月 御油より出でて 赤坂や」

夏の月の出ている時間の短さと、赤坂ー御油宿場間の短さ(1.7km)を掛けたもの でしょうけど、うーん、芭蕉が読んだといういわれがなければ、これ駄作じゃね?

ま、それはともかくなんでこんなに宿場の距離が短いのでしょう?うーん、元は赤坂御位という一つのでかい宿場だったのを分けた・・・らしいんですが、なぜ分けたかは不明。

ただ宿場間の距離が短かったので、両宿間の客の奪い合いは激しかったようです。広重の東海道五十三次の浮世絵では、御油が「旅人留女」。赤坂が「旅舎招婦ノ図」。

「旅人留女」・・・旅人の荷物(首に巻いた風呂敷包み)を強引に引っ張り宿に拉致ろうとする女中と苦し気に逃げようとする旅人

「旅舎招婦ノ図」・・・宿内部を描いた絵。片隅で飯盛り女(遊女)が夜に備え化粧している

強引な客引き、かたや遊女で客を引く、見事な対比図です。あ、歪んでごめん。

広重と歩こう 東海道五十三次「赤坂」「御油」 より引用

さて、後は帰るだけだけど・・・誘惑に負けてしまった。時に13:00・山岡家音羽蒲郡店!

アンタまたラーメン喰うんかい。・・・だ、だって道沿いにあるんだもの、仕方ないじゃないか。それにこのあたりじゃここにしかないんだ(理由になってない)

この歳になると、平時はギトギト過ぎと感じるこのラーメンも、山登りと街歩きで疲れた身体だから「うめー」。 でもこれで690円って安いですよ。

 ここで山岡ラーメンからオッサンの昔小話を一つ。

 僕の大学時代なんすけど、我々の飲み会は二人部屋の学生宿舎で開催されることが多かったっすよ。飲める奴は朝まで、飲めない奴(僕)は隅でごろ寝してました。 んで朝方、誰かの運転で通称「牛久ラーメン」へ行って朝ラーして解散って流れ。 僕は飲み会より締めのラーメンが楽しみで。

それが、わが筑波大学での学生生活でございました。ちなみに「牛久ラーメン」の正式名称は「山岡家一号店」です。  その記憶があるから、つい山岡家があると入ってしまうことも。   いわば記憶の味を求めて、ですかね。

 閑話休題。「学生ほぼすべてが大学近辺に下宿し、若者だけで周りに大人のいない空間で時を過ごせる」ってのが「筑波大での生活のウリ」だったと個人的には思っています。(当時はつくばエクスプレスもなかったから、今はだいぶ違うだろうが) 

もちろんそれは良い面だけでなく、悪い面もあります(自堕落生活になりやすいとか、とかとか。身に覚えあり・・・)。でも後で振り返れば、それはそれでよい経験だった・・・かもね。

今度やんごとなきお方が同大学の学生におなり遊ばすわけですけど、そんな僕から見ると、東京から通学するなら筑波大選ぶ必要なくね? とも思うわけです。

警備の必要上無理と分かりつつも、学長も同様の趣旨で言われたんじゃないのかなあ。 

筑波大学の永田学長は26日、開かれた定例の記者会見で、秋篠宮家の長男・悠仁さまが来年春に入学されることについて「勉学を伸び伸びやっていただきたい」とエールを送るとともに、個人的な考えとした上で、「希望としては悠仁さまにも寮に暮らしていただければいいと思う」と述べました。

【速報】悠仁さま合格後、筑波大学が初会見 永田学長「悠仁さまにも寮に暮らしていただければ…」

と、変なラーメン談義すいません。

渥美半島周遊(ほぼ軍事ネタ・・・)

渥美半島観光ビューローのHPより

愛知県は、カニが南を向いたような形をしています。 左のハサミが渥美半島、右のハサミが知多半島ですね。今回は、左のハサミを周遊してきました。(右のハサミの方が西尾からの交通の便が良いので、こっちはちょくちょく行くんだけど。)

少しマニアックな面に脱線するんですけど、渥美半島はその大半が「田原市」に属します。(上の図のオレンジ部分)付け根の部分は豊橋市で、半島を構成する行政区分は、わずか2市です。 

対照的に、知多半島を構成するのは5市5町もあります(半田市、常滑市、東海市、大府市、知多市、阿久比町、東浦町、南知多町、美浜町、武豊町)。

半島の先のほうはともに過疎傾向ですけど、こういった行政構成の違いが将来の人口動態やインフラの維持に影響を与えるのかどうか、元行政マンとしては興味深い事例ではあります。(様々な要素が絡むから、定量的に示すのはむずかしいだろうけど。)

閑話休題。さて、渥美半島は豊橋市と田原市に分かれるんですけど、ちょうどその境に「三河港」が位置します。正確にはその一部、旧田原港と旧豊橋港ですね。上の図でも渥美半島の付け根の内湾側に三河港が見えおり、その周りは大工場地帯になってます。

それを見るためにも、近くの蔵王山に行ってみましょう。頂上に展望台があり、無料で360度の大パノラマが楽しめますんで。(この日は富士山や南アルプスの山々も見えた!)

眼下に広がる田原の街(南方向)
半島先端部を望む(西方向)

半島部の山って、「なだらか」なイメージありますけど、なかなかどうして立派な山並みですよね。パラグライダーも飛んでいました。 海風が山に当たり、ちょうど良い上昇気流が生まれるんでしょう。

田原市の埋め立て工場?群(北方向)

見えてる工場は、トヨタ自動車田原工場。いっぱいに広がるソーラーパネルは「たはらソーラー・ウインド発電所」(三井化学所有地)です。 海風があるから風力発電には有利だと思うけど、海沿いに太陽光パネルって、塩の悪影響はないのかなぁ? 塩がパネルにこびりつくと発電効率落ちそうだけど。

7社は9月30日、トランスバリュー信託(東京都中央区、杉谷孝治社長)を発電事業者として、愛知県田原市で建設していた国内最大規模の太陽光・風力のハイブリッド発電所の営業運転を10月1日より開始すると発表した。

愛知県田原市で太陽光50MW・風力6MWハイブリッド型発電所完成 三井化学ら7社、信託事業方式で事業運営

豊橋市側を望む(中央の港に掛かる橋が行政界 西方向)

 青の矢印で示したところ。このあたりが豊橋市側の臨海工場地帯なんですけど、最初は八角形の人工島で飛行場だったのです。 「豊橋海軍航空隊基地」跡。拡張埋め立てされあまり遺構は残ってないようだけど、 興味ある人はこちらの方のHPを見てね。 豊橋海軍航空隊基地跡(大崎島)underzero様 にしても、さすが軍都・豊橋。

さて、渥美半島の先端は釣り針のように膨れた形をしているんだけど、それを航空写真(google map)で見ると、不思議な文様が、むむ、これは・・・

はい実はですね、ここ陸軍の射撃試験場だったのです。

松岡敬二編著「古地図で楽しむ三河」より

「陸軍技術本部伊良湖試験場」といい、射線10kmを確保するため、射線上にあった旧伊良湖村は半年間で全戸移動させられたそうです。(んー、現代の公共事業に携わってたものからすると、当時の軍隊の用地交渉ってめちゃくちゃだったんだろーなと。こんなの「オイ、オマエすぐにどけ」レベルですよね。)

まあそんな感じで造成された広大な軍施設、今やその跡地に直線道路やきちんと成形された農地が広がってるってわけね。 農地の中には当時の遺物もいくらかは残ってます、

小中山児童公園には立哨台と陸軍省の標石

向かいの田戸神社には試験場の門柱(表札が新しすぎるが・・・)

と、鳥居もなんか特殊。これもしかして砲弾を鋳つぶして再利用したとか? 小さな神社だけど、この参道、なかなか雰囲気いいよ。

社叢は竹が倒れてたりして荒れてるけど、なんか南国の樹林っぽくてちょっと面白い。

このちょい先に、気象塔兼展望所跡と無線電信所跡が残ってます。正確な位置はgoogle mapに聞いてね。

民間所有物らしいけど、ちょっと覗いたら、塔の2階には「カオナシ」の落書きが・・・だいぶコンクリートが痛んでいるから、見るなら早い方がいいね。

と、google mapには、このあたりに評価4.2という中華料理屋「正栄軒」があります。高評価につられ入ってみました。

店は汚いっす。でもそれで成り立ってる店はうまいに決まっておる。

ラーメン450円、餃子300円 えっ?なにこの値段。

ラーメンが来ました。てか気象塔見に来た言うたら、店の親父さんが説明をしだして、親切でありがたいんだけど、麺が伸びちゃったよう・・・てか最初から柔目に茹でてあるな、これ。

うーん、昔ながらのラーメンの味は「並み」ですね。が、450円にしてはめっちゃ量が多いから、若いにいちゃんならそのコスパに高評価をつけるでせう(前日に青森県からバイクで来た子がいたそうな)。オッサンは連れが残した分まで食べて苦しかったけど。

餃子は・・・絶品。こんなでかい餃子6個で300円って安すぎる。なんか東京でうどん屋とか餃子屋やってたとか、面白そうな経歴のご主人でした。餃子は賞を取ったこともあるそうで、納得の味です。  

「安すぎないですか?」って言ったら、「ボランティアみたいなもんだから」だそうです。ミカンもくれたし親切にしてもらいました。

だからふんふんとお話を聞いていたんだけど、話の中で・・・ここの試験場で戦艦大和の砲弾試験もやったんだよ・・・というのがあって、それはどうなのかなあ とひっかかりまして・・・

戦艦大和はその存在自体が海軍の最高機密でしたから、その技術的試験を敵である(帝国陸海軍は犬猿の仲)陸軍の試験場でやるなんてありえるかな って。 あと陸海軍間では工業規格の統一もできてないので、海軍の砲弾を試射するには陸軍の大砲ではだめで、海軍の大砲を持ってくる必要があったはずです。なら軍艦に積んで海上で試射したほうが、いろんな意味で合理的な気が。

まあ僕は研究者じゃないので「地元でそのように伝わっている」のはそれはそれでアリだとは思うけど。

軍事施設ばっかり見てると思われるのもあれなので、先端の伊良湖岬にも行きましょ。(ほかにも道の駅に寄ったぞ。渥美半島は農業が盛んだから野菜が安い!)

ちなみに伊良湖と言えばヤシの実で有名。岬には記念碑もあるようです。

民俗学者柳田國男が明治31年の夏、伊良湖に1カ月余り滞在したとき拾った椰子の実の話を、親友の島崎藤村に語ったところ、それが素材となって椰子の実の叙情詩「名も知らぬ遠き島より流れよる椰子の実ひとつ」が生まれました。
  昭和11年、大中寅二によって作曲され、国民歌謡として全国に放送されました。

田原市

ともかく、岬の先端にある灯台を目指して歩いていくと、行く手に島が見えるのである。

なんで島なのに、あんなに高い山がぬっとそびえているんだ!あの島、神がかってら。

はい、だから島の名前は「神島」です。古くから神が宿る島と信じられてきたそうな。ちなみに、神島にも陸軍伊良湖試験場の「監的哨」があって、着弾を確認していたそうです。今もその跡があり、三島由紀夫の「潮騒」のクライマックスシーンに出てくるとのことです。

半島は北部に国道259号が、南部に国道42号が走り、車等で周遊することができるんですけど、259号はちょくちょく海が見えて「半島を走ってるな」と実感できるんですが、42号のほうは林に阻まれてほとんど海が見えません。 知多半島は両岸どちらを走っても海が見えるんで、渥美半島はちょっと観光面で損してますね。

ま、これは渥美半島の42号線(南)側が外洋(太平洋)に面しているからで、しかも波の荒い遠州灘ですから、海と道路の間に防風林とか砂防林がないと厳しかったからでしょう。 知多半島は両岸とも内湾(知多湾と伊勢湾)に面しており、波は比較的穏やか。だからこそ、知多半島の伊勢湾側に海上空港(セントレア)が建設されたのですし。