豊橋散歩

豊橋へ遊びに行ってきました。 

豊橋と言えば・・・No1の観光名所は葦毛湿原でしょう。  *個人の感想です。

まあ、こんな時期にきれいな花が咲いている・・・わけもありませんが、静かな湿原散策が楽しめてよかったです。  でもここを拠点に奥の低山へ山登りに行く人が多いらしく、駐車場は平日の朝9時なのにそれなりに混んでました。

この湿原は、愛知県と静岡の境に位置する弓張山脈からの湧水で維持されている湿原です。まあ現在では「保存会の人の手により保たれている(樹木伐採とか外来種除去とか)」というのが正確かもしれませんが。

下の駐車場(に隣接するため池)から撮影した弓張山脈。「愛知県側からみた弓張山脈」ですね。   

ちなみに静岡県側から見た弓張山脈はこんな感じ↓。 浜名湖中央に位置するガーデンパークの展望台から撮影した写真なので、かなり遠距離ですけど。

こうしてみると、弓張山脈というのは、地形的にかなり愛知県と静岡県を隔てているのが分かるなあ。

散策のあと、「ゆのゆ豊橋」という日帰り湯施設に立ち寄ってから豊橋駅に戻りました。この施設、名古屋鉄道の子会社が経営する「日帰り温泉施設第1号」なので、冷菜株主としては、施設の良し悪し、客の入り等点検しておかねばなりませぬ。(単純に株主優待使いたいだけ)  うむ、平日なのにかなり混んでて、よいですのお。 よく流行る入浴施設はどうしても不潔になりがちだけど、今のところここは清潔が保てて、大変良いです。 

豊橋駅に戻って、豊橋の街と言えば・・・路面電車。

運賃は乗車一回につき200円です。基本一路線(最後の一駅で「赤岩口」「運動公園前」の分岐します)。バスのような乗り心地。 専用の線路を走るから、渋滞しない分通勤時間帯ならバスよりいいかもしれません。

市役所駅で降ります。まずは豊橋ハリトリス正教会

ふーん、この建物がなに?と思われるかもしれませんが、実は国の重要文化財なのです。そんじょそこらのお城の天守閣より偉い(貴重)のだぞー。

「ハリトリス」というのはキリストのギリシャ語読み。正教会は中近東からギリシャ、東欧、ロシアに信者が広がっていますね。 キューポラの上のこの十字架が特徴かと。

「八端十字架」というそうです。僕は「ロシア十字」だと思ってましたが、これは俗称のようです

そこから吉田城へ。 豊橋は古くは吉田と呼ばれ、江戸時代ここを領した吉田藩七万石、実は三河国で最大の藩だったのです。2位が西尾藩六万石、3位が岡崎藩五万石。三河国は小さな譜代大名ばかりだったので、明治維新の際、討幕派につくか佐幕派につくか、みんな隣国の大藩・尾張藩の動向を注視する「金魚のフン」状態だったようです(笑)。まあ結果官軍に乗れて良かった。

城は、大河である豊川を後ろの守りとし、川沿いに本丸、それを囲み守るように二の丸以下を配する平城です。この防御形のお手本のような縄張りです。

復元図を見ると、城が川の曲がり部分に造られていることが分かります。下は本丸から豊川を撮影した写真です。よく分かりますね。

川が曲がる部分では川の深さはカーブの外側が深くなるので、防衛を重視する城としてのこの立地は理にかなってます。まあ水の浸食力も強いので、がっつり水害防御もしないといけません。それもあって、本丸北側(川に面した部分)はしっかりとした石垣が組まれています。他の部分はけっこう土塁で済ませてたようですが。

川側はかなりの高低差があります。平城と言いつつ、河岸段丘の高低差を利用しているようですね。 石垣が新しいのは、ここ水害でやられて何回か直しているのかも。

対して、鉄櫓直下の石垣は池田輝政城主時の城で一番古い石垣(野面積み)だそうです。つまり、ここまで水は来なかった・・・のかな? 

お隣にある豊橋市役所の13階が無料の展望室になっており、城を一望できる・・・と思いつつ、樹木が繁茂して攻城計画立案の参考にはなりません。もちろん眺めはいいですから、ぜひどうぞ ですが。

と、三の丸の入り口にこげなものを見つけました。

城跡は十八連隊の駐屯地だったし、その後も練兵場として陸軍の施設でしたから、その時の歩哨塔だと思われます。

お宿は、豊橋駅前のアークリッシュ豊橋です。 お値打ちなちょっと良いホテル という感じかな。

「どの部屋に泊まっても眺めの良い(15階)ラウンジが使え、ラウンジではソフトドリンクと20時~23時はアルコールをご自由にどうぞ」というのが売り。 まあその分部屋は平凡ですが、素泊まり1万円くらい、在ホテル中はラウンジにいるんだ!という方ならたまには奮発しても! 街並みに興味がある方にはいいんじゃないでしょーか。

が、夕食兼飲みに外に出かけたのが運の尽き。 食事が美味しかったのでつい吞みすぎて、20時~23時のホテルラウンジアルコールタイムには参戦できませんでした。 ね、て、た。

 いや、行った店が悪かったのです。「酒と肴 すたんど割烹 ろじわら」 この店けしからぬ。ぜひまた行きたいです。美味かったし楽しかったよー。

朝、ホテルのラウンジから見つけた「emCAMPUS」と「水上ビル」にも行きました。

豊橋駅東口から駅前大通りを歩くこと約10分。右手に24階建ての白い高層ビルが見えてくる。駅前再開発によって誕生した「emCAMPUS(エムキャンパス)」だ。
2021年11月にオープンした「EAST」棟には、フードホールや市立図書館、行政機関、大学のサテライトオフィス、住居となるマンションを備え、豊橋市の新たなにぎわいの拠点として期待されている。
 そんな真新しい高層ビルと対峙するように立つ“水上ビル”をご存じだろうか。豊橋市民なら知らない人はいないというほど、まちにはなじみ深い建物だ。昔から商店街として機能し、市民に親しまれてきたこのビル。実はまれにみる特異な建造物なのである。

“水上ビル”とは愛称で、豊橋駅から近い順に「豊橋ビル」、「大豊ビル」、「大手ビル」と3つのビル群で形成された、長屋ビル群のことを指す。どこが特異なのかというと、このビル群が水路の上に建てられているという点だ。農業用水である牟呂(むろ)用水を暗渠(あんきょ)化し、その上に建設されたコンクリート造3~5階建ての「板状建築物群」が“水上ビル”だ。
暗渠とは、川や水路の流れを見えないように地下に埋める、または蓋をすることを指す。暗渠化された川や水路は、日本の都市ではそんなに珍しくはないが、その上にコンクリート造の建造物が約800mという長さにわたって連なっているというのはなかなか見られない光景だ。

水路の上に立つ商店街!? 豊橋市“水上ビル”の成り立ちと、にぎわい創出の仕掛けとは

「emCAMPUS」の方は主に綺麗で使いやすそうな図書館になってて、それはそれで素晴らしいのだけれど、都市計画や建築物として特筆すべきほどのことはありません。最近のこぎれいな再開発複合ビルの一例。

水上ビルの方は、水路の上に3階建ての建物を建ててしまう。しかもそれが800mも続く。高いところから見ると、一種の壁がずらーっと並んでて壮観です。 今は駅前の高層ビル化も進んでいるので、高さ的なインパクトはありませんけど、建設当時はすごかっただろうなと。

現地に行ってみました。

ちゃんと橋が架かってて、建物が水路の上にある ということが分かりますね。ちなみに水上ビルはアニメ「負けヒロインが多すぎる!」の聖地の一つだそうで、壁にヒロインたちの絵が描かれています。

僕も「負けヒロインが多すぎる!」は見たのですが、建物や場面がアニメに出てきたところを「聖地」として巡る楽しみは無いですねえ。てか、ヒロインたちの壁画像見ても、萌えねーよ・・・

これってある種のファンの人はうれしいでしょうけど、街の景観としてはどうなのよ って思います。何事も(オタク系趣味は特に)「秘すれば花」だと思うんですがね。

午後から雨の予報だったので、近くでラーメン食べて帰りました。「吉田製麺」しょうゆかけそば

安くはないけれど、丁寧に作られたうまいラーメンでした。 「それほど腹も減ってないから、ラーメン少な目だろうけど、まあいいか」と思って食べてたら、いい出汁の出たスープが大変おいしくて、残すのが惜しく「追いメシ」を追加で頼んじゃったくらい。ごちです。

知立散歩

友達に誘われて、知立へ食事に行きました。ついでにお泊りして知立を散策しましょう!と思いきや、予定日は大雨の予報。レンタサイクルで郊外の無量寿寺まで行きたかったのですが断念。朝6時から2時間弱、散歩しました。

名鉄知立駅では、現在線路の高架化工事を行っています。それに伴い駅前も現在進行形で整備中。駅前にタワーマンションとかできてるんだね。

正面が知立駅(北口)右手が宿泊した東横イン

駅から北側に少し歩くと旧東海道に出ます。 今は「知立」と書いて「ちりゅう」と読むのですけど、江戸時代は「池鯉鮒」と記載していました。つまりここは東海道五十三次の一つ「池鯉鮒宿」なのです。しかし難読地名ですね。 池+鯉(コイ)+鮒(フナ)って、どんないわれがあるのでしょう? 

和銅元年(708)「知立」と制定され、村上天皇の時の「和名抄」には智立郷と記されている。また「茅立」「智里府」「知流」「池龍」「池鯉鮒」とも古書にあるが、江戸時代は東海道五十三次の「池鯉鮒宿」としてにぎわったところである。

人文社「郷土資料事典 愛知県・観光と旅 県別シリーズ21 」

制定の意味が分かりませんが・・・知立郷ができた(中央政府に認定された)ってこと?

知立神社領で殺生禁断であった御手洗池には鯉や鮒が多かったという。地名の由来というより風流な当て字である。

松岡敬二「古地図で楽しむ三河

最初に「ちりゅう」という地名を現す言葉があり、その音をどのように漢字表記するかという問題だったのですね。たしかに「池鯉鮒」は風流かもしれません。でも、初出は「知立」だったんだね。

閑話休題。東西に走る旧東海道を歩いていくと、街道がカギの手のように曲がっているところがあります。見にくくてすいません。下図左は江戸時代の宿場の絵図で、黄色の道路が東海道です。 東から来た道が中央で北に折れ、次に西に折れ続いていきます。 カギ折れ部の北正面には了運寺が、西側には知立城(桶狭間の戦い後に落城。江戸初期には将軍上洛時の御殿になった)が位置していました。現在も残っています(右図)。

知立城の解説看板を撮影 左:江戸時代の絵図 右:現在の地図
現在のカギの手部の様子。正面が了運寺、左手億に知立城跡(公園)

知立城主は、知立神社の神主でもあった永見氏です。うーん、永見氏と言ってもあんまりピンと来ないですね。 一つ来たのが(知立神社に銅像と解説があったので分かったのですけど)、後に家康の側室になった「お万の方」が氷見氏の娘だったということ。

天文17年(1548年)、三河国知鯉鮒明神の社人・永見貞英(志摩守)の娘として誕生する。名は、万、於古茶、松、菊子、於故満と伝わる。・・・はじめ徳川家康の正室・築山殿の奥女中で、家康の手付となり、於義伊(のちの結城秀康)を産んだとされる。

wiki

一応城主?の娘を女中として使うなんて、築山殿って相当身分が高かったんだね。

カギの手の出口あたりに老舗のあんまき屋があります。 知立名物「あんまき」といえば「藤田屋」が有名なんですが、google mapの口コミによれば、こちらの小松屋本家さんの方が旨いそうな。なら買ってみましょ。一個200円。google map情報によれば、開店は8時なんですが行ってみたところ、たぶん8時15分開店じゃないかと。

味は・・・よくわからん。そもそも僕、あんまきあんまり好きじゃないんだった(爆)。

あんまきはともかく、このお店は交差点の角にあるのですけど、右の通りに「あんまき屋」左の通りに「銃器店」の看板を掲げ、その組み合わせが意外で面白いです。中はつながっていて、ついでに?釣具も売ってる(笑)。家族経営の感じでしたが、すごい形態だな。

閑話休題。東海道を外れ、少し北に行くと、神社が見えてきます。知立神社です。(旧称は「池鯉鮒大明神」。江戸時代には「東海道三社」の1つに数えられたとか。)

ここは古くからある神社で、三河国の二之宮っていう格式の高い神社です。 ちなみに三河国の一之宮は、豊川市にある砥鹿神社。東海道三社はここと三嶋大社、熱田神宮。

一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮、一ノ宮、一之宮などとも書く。通常単に「一宮」といった場合は、令制国の一宮を指すことが多い。一宮の次に社格が高い神社を二宮、さらにその次を三宮のように呼び、更に一部の国では四宮以下が定められていた事例もある。

wiki

この神社の見どころ一番は、多宝塔ですね。(重要文化財) 室町時代の建立と言われています。神宮寺(神仏習合思想に基づき、神社内に建てられた付属寺院)の一部だったものが、明治の廃仏希釈の難も「神社の文庫」として逃れ、現代に至る という歴史があります。

敷地内には石橋と、「御手洗」という名の池があるんですが、まさかこの小さな池が「池鯉鮒」の字の由来じゃないよね・・・(解説看板には、そのようには書かれてなかった)

境内には大戦期に建てられたのであろう、こんなものも。

正面の「千人灯」を揮毫したのは、陸軍大将・松井石根とあります。極東国際軍事裁判で絞首刑になった七人のうちの一人ですね。 他三面の揮毫も陸海軍将官でしたが、知らないなあ。 松井の出身は名古屋ですが、知立とゆかりのある軍人だったのかな?

ところで、安藤広重の東海道五十三次では、池鯉鮒を次のように描いています。

池鯉鮒「宿」はどこ・・・?

実はこれ、春に池鯉鮒宿の東の野原で開かれる馬市を描いたものなのです。東海道を東に向かってしばらく(かなり)歩くと、国道一号線とぶつかります。そのあたりの街道筋には松並木と「馬市跡」の石碑が残っており、当時の風情が感じられる・・・か。

解説看板にはこの松並木に馬市に出す馬を繋いだんじゃないか とあります。 そうか、ここか。広重の浮世絵とは全然違うけど(現地に来ず、想像して書いた画なんで)。

奥の石碑には万葉集の歌(持統天皇)が彫られています。このあたりの地名は引馬野というのですが、歌に出てくる「引馬野」がここと言われているそうで。