フランク・ロイド・ライト展

豊田市美術館で12月24日まで開催されている、フランク・ロイド・ライト展を見に行きました。

フランク・ロイド・ライトは「巨匠」と呼ばれる著名な建築家です。

アメリカ大陸で多くの建築作品があり、日本にもいくつか作品を残している。ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエと共に「近代建築の三大巨匠」と呼ばれる(ヴァルター・グロピウスを加え四大巨匠とみなすこともある)。「カーポート」の名付け親でもあり、1930年代にユーソニアン住宅にカーポートを設置し、初めてカーポートと呼んだ。ただし、世界で初めてカーポート付き住宅を造ったのは、ライトの建築設計事務所に勤務していたウォルター・バーリー・グリフィンであった。

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日本に残存する有名な作品と言えば、明治村に玄関部分のみが保存されている、 二代目の帝国ホテルでしょう。この展覧会の屋外用ポスターにも印刷されてますから(撮影した奴の腕が悪くて、見にくくてすいません)。

いくつかの建物は、世界遺産にもなっています。

ユニティー・テンプル、フレデリック・C・ロビー邸、タリアセン、バーンズドール邸(ホリーホック邸)、落水荘、ハーバート・キャサリン・ジェイコブス邸、タリアセン・ウエスト、グッゲンハイム美術館の8件が世界遺産に登録された

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展示会に僕が期待していたのは、美術館みたいな公共施設や、落水荘みたいな豪邸ではなくて、ジェイコブス邸に代表されるような「ユーソニアン住宅」の情報でした。

 僕は建築賞を取るような、デザインを売りにした大規模構造物ではなく、「一般庶民が持てる値段の、居心地の良い住宅」に関心があるので、巨匠の「安価な住宅を、それもより高価な住宅の質に迫るものをいかに供給できるか」という取り組み(=ユーソニアン住宅)の情報を求めていたのです。

結果として、この展示会では巨匠の様々なジャンルの建築や都市計画をまんべんなく紹介していて、あんまり「ユーソニアン住宅」についての興味深い情報は得られなかった のだけれど・・・まあ・・・ネットでの検索と、これを機に買ったユーソニアン住宅の写真集をもとに少し書いてみようかと。

ライトは新しい手法によって造った一般的な家族のための手ごろな価格のコンパクトで魅力に満ちた小住宅郡をユソニアンハウスと名づけています。1936~1943年にLusk邸(1936)で計画され、Jacobs邸(1937)で初めて実現し、58が建築されました。
 それぞれの家は敷地の性質と施主の要求にあわせて設計されましたが、共通のディテールと工法、次に述べる特徴が繰り返し用いられていて、それはもっと予算をかけた特別な住宅にも共通しています。ライトはこれをGrammar(文法)と呼びました。

ユーソニアン住宅の特徴
1.流動する空間 2.室内と外部の連続 3.材料の性質を活かして正直に用いる。自然材料を多用する。4.人間の尺度から決められたプロポーション 5.統一されたデザイン
 有機的建築 (Organic architecture) 6.快適な室内環境

ユ-ソニアン住宅とは  磯矢建築事務所

ユーソニアン住宅の特徴を磯矢さんはかっこよくまとめられていると思うんだけど、この特徴って、現代の住宅にも求められているものだと思うんだ。

ジェイコブス邸を写真で見ると、いわゆるアメリカの住宅と聞いて想像するような感じじゃなくて(偏見!)、こじんまりとまとまってとても居心地が良さそうなんだよね。

ジェイコブス邸  集文社 フランクロイドライトスタイル④ ユーソニアンハウス より

こんな開放的なジェイコブス邸だけど、なんと1936年に建てられているのだ。現代に建てられた家としても、十分通用するよねえ。

本では「わずか5,500ドルで建てられた」と記載があります。下記の情報をもとに考えると現代の550万円?いや、さすがにそれで一軒建てるのは無理があるだろうけど、まあその4倍でも妥当かなあ というクオリティに見えます。

貨幣価値ですが、現在の換算レートを1ドル100円として計算すると、こんな感じです。
1936年     2003年
 2000ドル      25600ドル=2.56百万円
 50万ドル      6.4百万ドル=6.4億円

映画「スティング」での貨幣価値  教えてgoo

「住宅は単なる金額以上の意味を持つ。時として、より少ない予算であったほうが最良の結果を生むことがある。」 フランク・ロイド・ライト 

痺れますね。こんなセリフ、言ってみたいぜ。

10件のユーソニアン住宅をまとめた写真集を見てると、「自然素材(木材とレンガ)、(この写真では分かりづらいけど)暖炉、壁付けの大きな本棚、そして大きな窓(開口部)と樹木豊かな庭 なんかが共通点としてあげられるかと。

うん、そりゃ居心地いいよね。 

と、まとまりのないところでおしまいです。全然展示会のこと書いてないなあ。 えーと、平日だけどかなりのお客さんがいました。さすが巨匠っす。

と、昼食を豊田市美術館の併設レストランでランチを取ったのですが、なかなか雰囲気良く、安くはないけど値段相応の料理が楽しめました。ただし、予約でほぼいっぱいだったので、確実にここで食べたい場合は、予約しましょう。

ランチは、これにフラン(洋風茶碗蒸し)がついて1800円。コーヒーとミニデザートをつけると+400円です。→つけるのお勧め。 たまの贅沢なら、まあいいかな っていう価格帯かと。ちゃんとした店ならもっと値段張るでしょう。

しかしまあ、皿の左側に「ヨークシャープディング」がいるんだが、エゲレス人は何が良くてこれ喰うのかなあ? ソースを楽しむなら、パンで拭って食べればいいと思うんだが(マナー的にはよくないんだろうけど、でもその方がはるかに旨い)

*調べてて分かったんだけど、「近代建築の三大巨匠」って、学歴は大学の建築科出身じゃないのよね~。天才はどこにいても・・・ってやつかな? (四大巨匠になると、ヴァルター・グロピウスはミュンヘンやベルリンの工科大学で建築を学んだそうですが)

  • フランク・ロイド・ライト→ウィスコンシン大学マディソン校土木科を中途退学
  • ル・コルビュジエ→家業を継ぐために時計職人を養成する地元の装飾美術学校で彫刻と彫金を学んだ
  • ミース・ファン・デル・ローエ→地元の職業訓練学校で製図工の教育を受けた

えっ、戦国時代の西尾城には「丸馬出し」と「障子堀」があったんですか!

西尾市資料館で10月1日まで開催されている「発掘された!中世西尾の城館跡」展を見に行ってきました。 無料です。

んで、僕的トピックスがこのタイトルです。

「丸馬出し」や「障子堀」は、戦国時代、城の防御力を高めるために考案された最新技術です。一般的には「丸馬出し」は武田氏流築城術で、「障子堀」は北条氏流築城術でよく使われた技法と言われます。

丸馬出とは、日本の城における防御装置である馬出(うまだし)の一種。馬出とは、敵の攻撃から虎口を守り、城兵が出入りしにくくなるように、虎口の門の外に設ける土や石製の小さな曲輪(くるわ)のことである。虎口とは、城郭内での戦の際に主要な出入り口となる場所のこと。馬出の小曲輪は様々な形状の物があるが大きくは2種類に分けられ、半円形になった物が丸馬出、四角形の物が角馬出である。丸馬出は武田氏が好んだことで知られ、

刀剣ワールド

障子堀は、堀の底に障子の桟のような格子状の畝を設けた物。似たような物に空堀の底に土手を掘って、直交に区画する「畝堀」(うねぼり)があるが、障子堀はこの発展形である。堀障子とも言う。障子堀は神奈川県の小田原城などいくつかの城で造られ、遺構が見られる場所として静岡県三島市の山中城などがある。

刀剣ワールド

その技術が、武田氏や北条氏がほろんだ後、その領地と技術を受け継いだ家康時代の西尾城で構築されていたとは(対秀吉)。  

丸馬出しが良好な状態で残されているのは、静岡県の諏訪原城です。 実際に見に行ってないんだけど、前に記事で取り上げたっけ。 まあ、下のイラストの右端にある施設です

   香川元太郎「鳥瞰・復元イラスト 戦国の城」より

攻め手は、馬出し突入後向きを変えないと主郭に入れないので勢いが削がれるのと、守り手はそこを横矢で攻撃できるという仕掛けですね。 真田幸村の大阪城「真田丸」も、大型化した丸馬出しと言えるかもしれません。

西尾城で発掘された時の写真がこちら

左側が主郭なので、右向きに丸馬出しがあり、その前に三日月掘(不完全?)その前にさらに細い堀と、二重に堀が巡っている?のでしょうか。ちょっと解説が欲しいなあ。

攻城マニアとしては、写真だけでは馬出しにどのように土橋が架かっていたか(おそらく発掘作業の移動効率化のため残した土部分もあるはず)がわからないので、残念ですね。せめてそういう個所は着色しておいてくれると分かりやすいんだけど。

小田原城の障子堀復元図がこちら。

    香川元太郎「鳥瞰・復元イラスト 戦国の城」より

 ただの堀と比較すると、格子があるので隣の区画にも簡単には移動できません。第一、格子の底に降りると、また這い上がるのはとても大変そう。格子の上を移動するのがまだ良さそうですけど、不安定な細い道です。いずれにせよ、堀を渡ろうとする攻撃方は城方から格好の狙撃対象となったことでしょう。

んで、西尾城で発掘された障子堀の写真がこちら。

うーん。どこが堀で、どこが障子(格子)なの~?見ても全然わかんないんだけど・・・

西尾市史によると、1585年(天正十三年)に家康が三河中の人足を集めて西尾城の大規模改修を行っており、これらの改修はそのとき行われた可能性が高いようです。

その後、1590年に家康は関東に移封され、そのあとに入った豊臣系大名(田中吉政)が、石垣を築くため、地形に合わせて構築されたこれらの施設を埋めて直線的な二の丸構造としたのではないか と解説されています。  ふむふむ。

障子堀は正直ビミョーなんですけど、丸馬出しはしっかり残っているようだから、発掘したものをそのまま展示しておけばマニアが大挙して見に来る観光資源だと思うんだけどな。(僕も見たい)

あと、前に見に行った「寺部城」の地形モデルがあってちょっと萌えました。現在でも城の地形がよく残っていて驚きましたが、でも樹木が覆い茂っていて、地形が分かりづらかったもの。やっぱり三次元模型の展示は、よくわかって吉です。 さて、アナタならどこから攻めますか?