渥美半島周遊(ほぼ軍事ネタ・・・)

渥美半島観光ビューローのHPより

愛知県は、カニが南を向いたような形をしています。 左のハサミが渥美半島、右のハサミが知多半島ですね。今回は、左のハサミを周遊してきました。(右のハサミの方が西尾からの交通の便が良いので、こっちはちょくちょく行くんだけど。)

少しマニアックな面に脱線するんですけど、渥美半島はその大半が「田原市」に属します。(上の図のオレンジ部分)付け根の部分は豊橋市で、半島を構成する行政区分は、わずか2市です。 

対照的に、知多半島を構成するのは5市5町もあります(半田市、常滑市、東海市、大府市、知多市、阿久比町、東浦町、南知多町、美浜町、武豊町)。

半島の先のほうはともに過疎傾向ですけど、こういった行政構成の違いが将来の人口動態やインフラの維持に影響を与えるのかどうか、元行政マンとしては興味深い事例ではあります。(様々な要素が絡むから、定量的に示すのはむずかしいだろうけど。)

閑話休題。さて、渥美半島は豊橋市と田原市に分かれるんですけど、ちょうどその境に「三河港」が位置します。正確にはその一部、旧田原港と旧豊橋港ですね。上の図でも渥美半島の付け根の内湾側に三河港が見えおり、その周りは大工場地帯になってます。

それを見るためにも、近くの蔵王山に行ってみましょう。頂上に展望台があり、無料で360度の大パノラマが楽しめますんで。(この日は富士山や南アルプスの山々も見えた!)

眼下に広がる田原の街(南方向)
半島先端部を望む(西方向)

半島部の山って、「なだらか」なイメージありますけど、なかなかどうして立派な山並みですよね。パラグライダーも飛んでいました。 海風が山に当たり、ちょうど良い上昇気流が生まれるんでしょう。

田原市の埋め立て工場?群(北方向)

見えてる工場は、トヨタ自動車田原工場。いっぱいに広がるソーラーパネルは「たはらソーラー・ウインド発電所」(三井化学所有地)です。 海風があるから風力発電には有利だと思うけど、海沿いに太陽光パネルって、塩の悪影響はないのかなぁ? 塩がパネルにこびりつくと発電効率落ちそうだけど。

7社は9月30日、トランスバリュー信託(東京都中央区、杉谷孝治社長)を発電事業者として、愛知県田原市で建設していた国内最大規模の太陽光・風力のハイブリッド発電所の営業運転を10月1日より開始すると発表した。

愛知県田原市で太陽光50MW・風力6MWハイブリッド型発電所完成 三井化学ら7社、信託事業方式で事業運営

豊橋市側を望む(中央の港に掛かる橋が行政界 西方向)

 青の矢印で示したところ。このあたりが豊橋市側の臨海工場地帯なんですけど、最初は八角形の人工島で飛行場だったのです。 「豊橋海軍航空隊基地」跡。拡張埋め立てされあまり遺構は残ってないようだけど、 興味ある人はこちらの方のHPを見てね。 豊橋海軍航空隊基地跡(大崎島)underzero様 にしても、さすが軍都・豊橋。

さて、渥美半島の先端は釣り針のように膨れた形をしているんだけど、それを航空写真(google map)で見ると、不思議な文様が、むむ、これは・・・

はい実はですね、ここ陸軍の射撃試験場だったのです。

松岡敬二編著「古地図で楽しむ三河」より

「陸軍技術本部伊良湖試験場」といい、射線10kmを確保するため、射線上にあった旧伊良湖村は半年間で全戸移動させられたそうです。(んー、現代の公共事業に携わってたものからすると、当時の軍隊の用地交渉ってめちゃくちゃだったんだろーなと。こんなの「オイ、オマエすぐにどけ」レベルですよね。)

まあそんな感じで造成された広大な軍施設、今やその跡地に直線道路やきちんと成形された農地が広がってるってわけね。 農地の中には当時の遺物もいくらかは残ってます、

小中山児童公園には立哨台と陸軍省の標石

向かいの田戸神社には試験場の門柱(表札が新しすぎるが・・・)

と、鳥居もなんか特殊。これもしかして砲弾を鋳つぶして再利用したとか? 小さな神社だけど、この参道、なかなか雰囲気いいよ。

社叢は竹が倒れてたりして荒れてるけど、なんか南国の樹林っぽくてちょっと面白い。

このちょい先に、気象塔兼展望所跡と無線電信所跡が残ってます。正確な位置はgoogle mapに聞いてね。

民間所有物らしいけど、ちょっと覗いたら、塔の2階には「カオナシ」の落書きが・・・だいぶコンクリートが痛んでいるから、見るなら早い方がいいね。

と、google mapには、このあたりに評価4.2という中華料理屋「正栄軒」があります。高評価につられ入ってみました。

店は汚いっす。でもそれで成り立ってる店はうまいに決まっておる。

ラーメン450円、餃子300円 えっ?なにこの値段。

ラーメンが来ました。てか気象塔見に来た言うたら、店の親父さんが説明をしだして、親切でありがたいんだけど、麺が伸びちゃったよう・・・てか最初から柔目に茹でてあるな、これ。

うーん、昔ながらのラーメンの味は「並み」ですね。が、450円にしてはめっちゃ量が多いから、若いにいちゃんならそのコスパに高評価をつけるでせう(前日に青森県からバイクで来た子がいたそうな)。オッサンは連れが残した分まで食べて苦しかったけど。

餃子は・・・絶品。こんなでかい餃子6個で300円って安すぎる。なんか東京でうどん屋とか餃子屋やってたとか、面白そうな経歴のご主人でした。餃子は賞を取ったこともあるそうで、納得の味です。  

「安すぎないですか?」って言ったら、「ボランティアみたいなもんだから」だそうです。ミカンもくれたし親切にしてもらいました。

だからふんふんとお話を聞いていたんだけど、話の中で・・・ここの試験場で戦艦大和の砲弾試験もやったんだよ・・・というのがあって、それはどうなのかなあ とひっかかりまして・・・

戦艦大和はその存在自体が海軍の最高機密でしたから、その技術的試験を敵である(帝国陸海軍は犬猿の仲)陸軍の試験場でやるなんてありえるかな って。 あと陸海軍間では工業規格の統一もできてないので、海軍の砲弾を試射するには陸軍の大砲ではだめで、海軍の大砲を持ってくる必要があったはずです。なら軍艦に積んで海上で試射したほうが、いろんな意味で合理的な気が。

まあ僕は研究者じゃないので「地元でそのように伝わっている」のはそれはそれでアリだとは思うけど。

軍事施設ばっかり見てると思われるのもあれなので、先端の伊良湖岬にも行きましょ。(ほかにも道の駅に寄ったぞ。渥美半島は農業が盛んだから野菜が安い!)

ちなみに伊良湖と言えばヤシの実で有名。岬には記念碑もあるようです。

民俗学者柳田國男が明治31年の夏、伊良湖に1カ月余り滞在したとき拾った椰子の実の話を、親友の島崎藤村に語ったところ、それが素材となって椰子の実の叙情詩「名も知らぬ遠き島より流れよる椰子の実ひとつ」が生まれました。
  昭和11年、大中寅二によって作曲され、国民歌謡として全国に放送されました。

田原市

ともかく、岬の先端にある灯台を目指して歩いていくと、行く手に島が見えるのである。

なんで島なのに、あんなに高い山がぬっとそびえているんだ!あの島、神がかってら。

はい、だから島の名前は「神島」です。古くから神が宿る島と信じられてきたそうな。ちなみに、神島にも陸軍伊良湖試験場の「監的哨」があって、着弾を確認していたそうです。今もその跡があり、三島由紀夫の「潮騒」のクライマックスシーンに出てくるとのことです。

半島は北部に国道259号が、南部に国道42号が走り、車等で周遊することができるんですけど、259号はちょくちょく海が見えて「半島を走ってるな」と実感できるんですが、42号のほうは林に阻まれてほとんど海が見えません。 知多半島は両岸どちらを走っても海が見えるんで、渥美半島はちょっと観光面で損してますね。

ま、これは渥美半島の42号線(南)側が外洋(太平洋)に面しているからで、しかも波の荒い遠州灘ですから、海と道路の間に防風林とか砂防林がないと厳しかったからでしょう。 知多半島は両岸とも内湾(知多湾と伊勢湾)に面しており、波は比較的穏やか。だからこそ、知多半島の伊勢湾側に海上空港(セントレア)が建設されたのですし。

妙高への道すがら~文学とともに?~

前回記事(上田城)に引き続き、妙高は赤倉温泉へスキーに行きました。

公共交通機関で西尾から妙高へ行くにはいったん名古屋へ出て、 名古屋から特急しなので長野へ。長野からしなの鉄道で妙高高原駅へ行きます。  往路は上田経由のため松本で車に乗り換えましたが、帰路はこの経路で帰りました。  

さて、濃尾平野の名古屋を出発した特急しなのは中央本線を走り、 木曽谷・松本平を抜け、善光寺平にある長野駅までを約3時間で結びます。

木曽谷は谷幅がすごく狭く、町に山が迫っています。 それを一言で表すなら、まさに「木曽路はすべて山の中」という言葉でしょう。

奈良井宿

木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。
 東ざかいの桜沢から、西の十曲峠まで、木曾十一宿はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷の間に散在していた。

島崎藤村「夜明け前」

「木曾十一宿はこの街道に添うて、二十二里余にわたる長い谿谷の間に散在していた。」状態を車窓から観察するなら、藪原駅周辺(木祖村)がよさげ。

奈良井宿を抜けるとじきに長い渓谷を抜け、ぱっと空が広がります。長野県は山国なんだけど、人口の大半は4つの平(盆地)に集中しています。次点が木曽谷など川沿いのわずかな平地です。長い間、平らで広い耕作地が生活の重要な糧でしたから。

信濃の国は十州に 境連ぬる国にして 聲ゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し
  松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃の地 海こそなけれ物さわに 万ず足らわぬ事ぞなき

長野県

「万ず足らわぬ事ぞなき」って、山国には「塩」がないじゃねーか、とか突っ込みはさておいて、うまく地理をあらわした歌だと思います。 

閑話休題。広い耕作地が取れない「山中」の暮しは苛烈です。下の写真は善光寺平に出る直前の「姥捨」です。車窓としては申し分ないのですが、地名でわかる通りわずかな棚田を耕す厳しい生活だったかと。

昔、年よりの大きらいなとの様がいて、「60さいになった年よりは山に捨(す)てること」というおふれを出しました。との様の命れいにはだれもさからえません。親も子も、その日がきたら山へ行くものとあきらめていました。

・・・

(千曲市教育委員会のきょう力をえて、「姨捨の文学と伝説」から要約しました。)

長野県

なかなかスキー場につかない(笑)。 

写真を見ての通り善光寺平まではほとんど雪がないのですが、それを過ぎ山間地に入ると急激に雪景色になります。 長野駅から妙高高原駅までは44分、7駅の距離ですが・・・乗ってみれば、そこはやがて雪国であった。

妙高高原駅
駅からみた風景

こういう比較的短い区間で劇的に雪景色に変わるのを見ると、川端康成の「雪国」(ノーベル文学賞)の冒頭を思い出します。読んでないから、冒頭しか知らないけど。 

国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。信号所に汽車が止まった。

 これは群馬から新潟(越後湯沢)に向かう上越線のトンネル(清水トンネル)を通過した時の描写ですけど、 ここらにトンネルがあったら、やぱりこの光景が見られたはずです。

ところで、僕は今まで冒頭の「国境」をふつうに「こっきょう」と読んでいたのだけれど、これ、「くにざかい」って読むのが、分国制の長かった日本の言葉としては正解なのかなあって、風景を見てそんなことを考えていました。

 と、文学的には美しい表現なのだけれど、「夜の底が白くなった」というのは、あまり使わない表現ですよね。後に語られるであろう主人公の心象を表現をしたものなのかな・・・。

気を取り直して、宿に到着!

赤倉温泉の宿泊宿

うむ、ここは小林一茶の「これがまあ 終の棲家か 雪五尺」を思い出すところ。

一茶は「柏原」というところで生まれ、江戸に出て俳諧師として名を上げたあと、晩年故郷に帰って一生を終えました。だからか、この歌には都会から地元に戻り「ああ、これが俺の終の棲家か・・・」と、雪かきだけじゃない、田舎暮しの大変さ、そして諦観がにじんでいるように感じられ、おっさんになって地元に帰ってきた僕が共感する句です。

その気で見ると、他の代表作もUターン暮らしへの鬱屈とした気持ち、そしてやるせなさのようなものが込められていると思いません?  「めでたさも 中位なり おらが春」「やせ蛙 まけるな 一茶これにあり」  うむ、偏見これにあり、だらうか。

柏原って新潟県だと思い込んでいたんだけど、実は長野県信濃町の地名だそうな。そして、信濃町は赤倉温泉や妙高高原駅がある新潟県妙高市のおとなり(くにさがいを挟んで向こう側とこっち側)なんだと! 

つまり、一茶はまさにこんな風景を見て、あの句をつくったんです(「雪五尺」なので、もう少し先の時期の風景だと思うけど)。思わぬ偶然に、ちょっと高揚しました。

したから知人数人に写真と俳句をラインを送ったのだけれど、一人は「こんなうた知らない」、一人は「え君、長野に移住したんだ?」と。まあ、確かに「終の棲家」とあるし、僕は過去に長野(伊那)移住をそれなりに考えた事あるんですけど、なあ・・・。 歌人なら、この気持ちを詠むときっと名句になると思うですよ・・・

よ、ようやくスキー。

なんつーか、 「たのしさも 中位なり おらが鋤」って感じだったかな。

いやもちろん楽しかったけど、疲れも早かったような。「もう年かしら ね 身体にこたえる わ(律子)」  で疲れたから酔いがまわって、前話の「酒に酔いつぶれる」につながる・・・いや、「呑みすぎ」だがな。

・・・。

このスキー場、リフト接続が良くなく、乗るまでかなり歩かせます。動く歩道は停止してるし、雪は豊富なのに停止しているリフトはあるし、メンテも微妙。昼食も、スキー場だから許せるけど値段の割にイマイチ。

観光リゾートスキー場と温泉スキー場を、ちょっと無理して接続させた大型スキー場ですけど、共通リフト券を買うと1日8,000円です。諸物価高騰でやむを得ないとはいえ、現在の経済状況を鑑みると、スキーって大学生も行けるちょっと贅沢な遊び(僕の大学生時代)から、高級リゾート施設(現在)へ位置づけを変えつつあるような気がします。

日本人のスキー人口は人口動態に輪をかけて減っているでしょうから、その方向に早めに舵を切り、裕福な外国人観光客を呼び込み客単価をあげないと地元としてはやっていけない時代かと。

でも高級リゾートにはその値段に見合ったサービスが必須です。ここは、かなりサービス面や施設再投資に頑張らないと厳しいかなって思いました。レンタルスキー店は現金対応オンリーでしたし、せっかく来た若い子たちが困ってました。

まあ、ふもとの旅館街も「予算ないっす」って感じでしたから、もう起死回生の一撃を放つ余裕はないかも(名誉のため言っておくと、宿もレンタルスキー店も値段を考えるととても良かったです。でも高級リゾートとはそういうものではない かもです。)。

今そこに必要なのは豊富な資金力と決断力と実行力。  ちょうど事例が出てきたので参考まで↓

 スノースポーツ人口が減少する中、全国的な雪不足の年を除き、入場者数が右肩上がりの「グランスノー奥伊吹」。去年は過去最高を記録したとのことですが…徹底しているのは、「利用客の満足」の追求、そして、そのために惜しまない「投資」だと言います。
・・・利用客の満足度を上げるうえで一番大きなポイントは、レストランやレンタルショップなど、スキー場施設を全て自社で「直営」していること。
(草野丈太社長)「価格コントロールだったり、サービスの均一化という部分で、クオリティーを施設全体で上げていくことができるので」
グランスノー奥伊吹の成功の要因はこの「直営」にあると、スキー場の立て直しに関わる専門家は言います。
 (マックアース 一ノ本達己CEO)「(複数オーナーで)合議で物事をジャッジすると、無難なところに収まる。スピード感もそうですし、尖ったことができなくなります。(誰かが)『そんなことやったら潰れる』みたいな話になる。(直営でないと)経営判断ができなくなる」

【人気の”尖ったスキー場”】ゲレンデまでエレベーター!?毎年最新のレンタルウェアに”山価格”じゃないグルメ! 投資惜しまずニーズ追求する「グランスノー奥伊吹」

まあ希少事例だからニュースになっているので、たぶん現実的にそれに近いことが期待できるのはニセコみたく黒船だけだろ・・・と考えてたら。1月8日(これ書いてる前日)にニュース。やっぱりそれしかなす。

 シンガポールの不動産投資ファンドが、長野・新潟両県境に近い妙高高原のスキー場で約700億円を投じ、外資系ブランドのホテル2棟と分譲型リゾートマンションを2028年冬に開業する。近くの斑尾高原でもホテル建設に乗り出し、投資額は最大で計2千億円に膨らむ可能性がある。国内のスキー人口の減少により誘客で苦戦が続く中、日本人の富裕層とインバウンド(訪日客)の需要を取り込むことで、スキーリゾートの再生を期す。

妙高高原と斑尾高原、スキーリゾート再生へ 2028年冬開業、外資系ファンドが最大2000億円投資

でもさ、せっかく投資しても、肝心のスキー場のサービスを向上させないと「スキーリゾートの再生」は無理です。事業主体が違うでしょうから、そこをどうするかですね(スキー場って、その地方の既得権益や規制の塊みたいなものだから、そこが一番大事なんだがね)。いっそスキー場丸ごと外資に売っちゃえば、おのずと向上されると思うんだけど。 

この記事は「白馬の別荘地林道の路線価高騰率が日本一になり、野沢温泉、志賀高原でも同様に外資系企業がホテル整備を予定」と続くんだけど、スキー場の再開発とホテル開発を外資が一体化して進めたら、それらの地と差別化できると思うんですよね。

ま、経済的にはその素敵な一体化リゾートの入り口に「犬と日本人は立ち入るべからず」と書かれないことを祈るばかりですが。

中国で初めて一般人も利用できる公園になった。スコットランド人の庭師がヨーロッパ式にデザインし、休憩所、テニスコートが作られたが、それは1840年代に上海が国際貿易港となって以降増え続ける外国人租界の居住者の利用を意図したものだった。
パブリック・ガーデンは1890年から1928年の間、中国人の立入を禁じたが、よく知られた作り話として、公園の入口に「犬と中国人は立ち入るべからず」という注意書きがあったというものがある。

しかしその時期の写真によると、注意書きは10項目あり、その1番目は「この公園は外国人が利用するためのものである」、4番目は「犬と自転車は禁止する」というものだった。いずれにせよ、黄浦公園や中国の他の公園で中国人の立入が禁じられたことは、19世紀から20世紀前半にかけて西洋列強から中国が辱めを受けた多くの例のひとつとして、一般民衆の心に残った。

黄浦公園 wiki