大須 15分散歩  (信長関連の寺たち) 

名古屋は栄で、友達と呑む機会がありました。

でもまあ、名古屋で夜吞んでしまうと、西尾駅まで電車で帰ってきても、そこから自宅までの足がない・・・夜中に家族に迎えに来てもらうのもね・・・。

こういうときは名古屋駅前のカプセルホテルに泊まるのが定番。チェックインは夜遅くだし、翌朝も早めにチェックアウトするから(午前中に西尾で用事がありすぐ帰る)、普通のホテルだともったいですから。

が、平日のビジネス需要+予約が直前 のため空いてませんでした。

それで泊まったのが、大須のドミトリーです。「トリップ&スリープホステル」さん

大須は、栄からも徒歩15分程度なので、酔えば徒歩圏内です。

そんなことより、50歳目前のオッサンが、ドミトリーに泊まるんかい・・・と思ったアナタ。いや僕もそう思ったんだけどね、観光地である大須商店街近くで、一泊2,970円(booking.com価格)。評価の口コミもいいとなれば、ちょっと興味わきません?

実際、なかなか良い宿でしたよ。

こんな感じのベットが貰えます。 寝台特急の個室だと思えば、おっさんでも十分ありだと思いませんか?

トイレは清潔でウオッシュレット付き。 シャワーは浴びてないけど、たぶんトイレから推測するに綺麗でしょう。    チェックインは22時までと健全な宿だし(24時までチェックイン可能だけど、追加料金がかかります。23時まで+500円。24時まで+1000円)、各部屋にも電子ロックがかかる等セキュリティもしっかりしてます。

少し難があるとすれば ①シャワー浴びた後、室内履き兼用のサンダルで移動するんだけど、濡れて不快かも ②各部屋電子ロックかかるので安心だけど解除面倒。夜中に火事とかあったら逃げるの難儀そう(部屋はベットが容積を占め、バックパッカーの荷物も置いてあるから通路は狭い)

まあドミトリーならどこでも状況は一緒なので、利用するかどうかは各人の考え方次第ですね。コスパと立地は素晴らしいので、僕的には「アリ」だと思います。また利用するかも。

チェックインのあと、深夜ラーメンを食べに外出。 この辺りは何件かガチ中華の店があります。 そのうちの一軒、「牛百味」さんへ。

蘭州ラーメンでございます。パクチーいっぱいで実にうまし。これで780円なら言うことないす。

ーーーようやくタイトルの回収に入ります。^^^

翌朝8時、チェックアウトしてモーニングを食べに行きます。名古屋ですから。 歩いて数分のところに、「コンパル大須本店」があります。たしか「えびふりゃーサンド」が有名な店。 いや、いくら有名でもサンドイッチに1200円は俺には出せねーけど。

ってことで、カフェオーレ(500円)+200円のモーニングセットを注文。ハムエッグトーストが来た。

いや、このホットサンドでも十分旨いぞ。その割に平日の8時過ぎだからか、空いてました。あ、僕の後に入ってきた中年の観光客(たぶん)夫婦連れがエビフライサンド頼んだよ・・・味はどうなのかなあ・・・。

このお店の目の前に、「万松寺」があります。そもそもこの通りの名前が「万松寺通り」なんだけどね。

いきなりですが歴史の話。織田信長が「父の葬儀で位牌に抹香を投げつけた」というのは、若いころはうつけと呼ばれた彼の有名な逸話ですよね。

んで、その投げつけ現場が「万松寺」なのです。つまり、ここが織田信秀の廟所なわけ。

なんか、だいぶ雰囲気違う気もするけれど。

お賽銭だってpaypay対応。「支払い条件あり」だって(笑)。

まあ織田信秀という人は、大交易拠点である津島湊と熱田湊を押さえてのし上がった、当時としてはめっちゃ商業意識の高い戦国大名であったから(信長の経済感覚は父親譲り)、それにふさわしいお寺かもしれないな。

地下鉄・上前津駅に向かう途中で、もう一軒いわくありげなお寺を発見。

総見寺 とな。(寺自体は非公開)

ちなみに織田信長の戒名は「総見院殿」(正確には「総見院殿贈大相国一品泰巌大居士」だそうな)と言いまして、菩提寺は大徳寺の総見院。順序が逆になりますが、生前自らの居城である安土城のある安土山に「総見寺」を建てており、この名称は信長に関連ある寺名です。

じゃあ、大須の総見寺はどんな経緯があるのでしょう。門前の看板によると・・・

はじめは伊勢国大島村にあって西明寺といったが、天正年中、織田信雄が父信長の供養のため清州に移し、僧忠嶽を開山として今の寺号に改めた。慶長十六年清州からこの地へ移建した。・・・
 なお、明治四年、ここでわが国初の博覧小会が開かれた。 

名古屋市教育委員会

ということだそうです。ちなみに気になる「博覧小会」については、日本電気協会中部支部の発行紙?に記載がありました。

日本最初の博覧会は、明治4年(1871)、京都で開かれた「京都博覧会」だとされています。10月10日から11月11日まで、西本願寺
大書院で行われました。・・・ 国内最初の京都博の行われた明治4年の秋、実は、名古屋でも博覧会が開かれていました。
 京都博の終了日の11月11日から5日間、大須の総見寺で「名古屋博覧会」が開かれたのです。名古屋は、全国でもトップを追って博覧会都市になりました。
 もちろん当時は今日のような博覧会ではなく、見世物を少し発展させた程度の催しでした。が、ヨーロッパの博覧会も、スタートは
そんなものだったようです。

・・・4年の名古屋博の詳しいことは分かりませんが、主催者は文明社(後に「名古屋新聞」を発刊)で出品録が残っており、出品数は400程、まだ古美術品が多かったようです。

 プロジェクト紀行 名古屋の街と展覧会 池田誠一

記事によれば、当時の総見寺はもっと寺域が広く、その広い空間で博覧会が開かれ、明治11年には博物館が建設されたそうです。またその門前町は明治時代の名古屋では最も繁華な場所だったそう。 へえ~。

補足 ややこしいけど、清須市にも総見院という寺があるそうな。んで、「清州の興聖山總見院」、「安土の遠景山摠見寺」、そして「大須の景陽山總見寺」の関係が分かる(マニア向けの)よい記事があったので、抜粋引用しておくっす。

滋賀県にある遠景山摠見寺は・・・1576年(天正4年)の安土城築城とともに建立されました。・・・その摠見寺において織田信長は盆山(ぼんさん:砂礫や石を積んだ小さい山)を造って自身の分身として祀り、権威化を強めました。
 1582年(天正10年)の「本能寺の変」で織田信長が没したのちも、摠見寺は「豊臣秀吉」や「徳川家康」により寺領を安堵(あんど:承認、保証すること)。また一度焼失した本堂ですが、1932年(昭和7年)に「伝徳川家康邸跡」へ仮本堂が建造され、現在に至っています。
 一方、愛知県にある興聖山總見院は、織田信長が没した翌年の1583年(天正11年)に、菩提寺として清州市に建立したのがはじまりです。織田信雄が伊勢国(現在の三重県北中部)にあった「安国寺」(あんこくじ)を移築し、父・織田信長が建立した遠景山摠見寺にならって「景陽山總見寺」と名付けました。
 その後、1610年(慶長15年)の清州越し(きよすごし:徳川家康によって名古屋城築城に際して行われた、町全体の引越し)により、名古屋市大須へ移転。さらに1644年(正保元年)には、尾張初代藩主の「徳川義直」(とくがわよしなお)と「亀姫」(かめひめ:徳川家康の長女、加納御前とも呼ばれる)の帰依をうけて清州市大嶋へ再移転し、興聖山總見院と名前を改め、現在の地におさまっています。

刀剣ワールド 總見寺と織田信長 東建コーポレーション株式会社

刀剣と東建に引っ掛けたのか~、でもいい仕事してます~。

*先の記事にあった伊勢国大島村の「西明寺」は、途中で「安国寺」と名前が変わっていますので、同一の寺です。ちなみに 「安国寺」ってのは一種の制度みたいなもので、ある時期に有力な寺院だったことの証でもあります。

安国寺(あんこくじ)と利生塔(りしょうとう)は、南北朝時代に足利尊氏、直義兄弟が、北海道、沖縄を除く日本各地に設けた寺院と仏塔。寺号と塔名は光厳上皇の院宣による。
 臨済宗の夢窓疎石の勧めにより、後醍醐天皇以下の戦没者の菩提を弔うため、聖武天皇が国ごとに国分寺を建立したことに倣い、国ごとに1寺1塔を建てる計画を立てた。45年(貞和元年)に、北朝光厳院の院旨を得て、寺号を安国、塔の名を利生とした。1338年(暦応元年)に、和泉・久米田寺を始めとし、以後、南北朝時代中期にはほとんど完成した。
安国寺と利生塔は新しく造営されたものもあるが、既存の寺院を修理してこれにあてた国もある。安国寺による禅宗(特に臨済宗)の地方への波及、また、利生塔による禅宗以外の宗派の統制など、文化的、政治的意義も大きかった。しかし、室町幕府の没落と共に、安国寺と利生塔も衰退した。

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東栄町と湯谷へ行ってきた

所要があって、愛知県の奥座敷、東栄町へ行ってきました。人口は2,500人くらい。

Map-It マップ・イット

この町の規模だと、役場もこのくらいのミニサイズ。

観光名所「奥三河のナイアガラ」ふむー。正式名称は「蔦の渕」です。

昼食は「やま正」で取りました。100年以上続く老舗のようです。店構えを見ると「や、これ場違いな高級店かしら・・・」とちょっと入店をためらうような立派さですが、それほど高くはありません。

から揚げ定食(1500円くらい)が名物らしく、観光客が来てたり、地元の人が来客をもてなすのに使っている感じのお店。 なるほど、から揚げ旨し。・・・とても旨いんだけど、身体がヤサイを求めてやみません。

から揚げは大好物なんですが、さすがにオッサンは箸休め(キャベツの千切りとか)なしだと、大きいから揚げ4個はきついです。デザートのメロンいらないから、キャベツ、キャベツ!!

もう一品は刺身定食。なぜ山奥の食堂で刺身定食がマグロ?(淡水養殖の絹姫サーモンとかニジマスじゃね?) とは思ったのですが、このマグロは実に新鮮でおいしかったです。さすが屋号に「魚」がついているだけありますな。ごちそうさま。

隣の新城市にある湯谷へ。今晩のお宿にチェックイン。(母親の誕生日祝いです。おめでとう?後期高齢者突入!)

夕食まで時間があったので、周囲を散策しました。 10分くらい歩くと飯田線の「三河槇原」駅があります。無人の小さな駅です。

上の写真で、正面に見えるのは併設された「公衆トイレ」です。奥の一回り小さい建物が駅舎なのでお間違えなきよう(笑)。列車本数は、飯田線の無人駅ならこんなものかと。

駅舎を反対側から見ると、背後に切り立った山が見えます。

どうも固い流紋岩の岩山のようです。あの山の中腹に、望月街道の槇原トンネルがあります。明治19年(1886)に貫通した古いトンネルです。

まあ、コンクリートが吹き付けられてあまり風情はないけれど、手掘りのゴツゴツ感は残ってますな。

ちなみに、このトンネルの下に飯田線のトンネルも掘られていて、山腹に二段にトンネルが掘られているんだって。

しばらく歩いていると電車が来たので写真を撮ってみました。撮影場所は宇連川に流れ込む支川の橋の上。橋の下をのぞくと・・・

一枚岩の上を水が流れてます。この辺りはいたるところに岩が露出していて、川は一枚岩の上を流れたり(だから宇連川は別名「板敷川」って言います)、あるいは岩山を抉って流れている感じ。

中でも眺めの良い箇所を「鳳来峡」と呼び、景勝地になってます。

豊川の支流、宇連川の上、下流の5kmに亘る。凝灰角礫岩、流紋岩からなり、川底が板を敷いたように見えるため、板敷川とも呼ばれる。天竜奥三河国定公園の一角。「馬背岩」は天然記念物に指定されている。なお、近くに湯谷温泉がある。

鳳来峡

途中の二股にあった道祖神、かな。

東栄町はほぼ初めてですし(中学一年の時、自然教室で東栄町の少年の家?に拉致られたんですが、この時は施設に隔離でしたんで)、奥三河はあまり来たことがないのですが、あれこれ回ってみると、愛知県も広いな~と実感します。