西尾の文化財(29) 海蔵寺

西尾市吉良町荻原にあるお寺です。吉良図書館のお隣ですね。

文化財は、県指定文化財が二点「木造阿弥陀如来坐像」と「雲版」です。でも建物の中にあるので見てないよ(笑)。詳細が知りたい場合は、西尾市のHPを見て下され。上にリンク張っておきます。

私がこのお寺で興味深く見たのは、この寺の墓地です。なんとここに「佐久間盛政」のお墓があるとされているからです。以下はwikiから引用。ただし賤ケ岳の戦いの部分は長いので、関係するところだけまとめています。

佐久間 盛政(さくま もりまさ)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。織田氏の家臣。御器所西城主。御幸塚城主。大聖寺城主。初代金沢城主。佐久間氏の一族。官途および通称は玄蕃允。勇猛さから鬼玄蕃と称された。

賤ヶ岳の戦い

柴田勝家は清洲会議以後、羽柴秀吉との対立を深め、天正11年(1583年)ついに両者は近江国余呉湖畔で対陣する。・・・盛政は中川清秀の砦を急襲する作戦を勝家に提案した。当初はこれに反対した勝家であったが、盛政の強い要望により妥協し、「砦を落としたらすぐ戻ること」という条件つきで承諾した。盛政の急襲作戦は見事に成功し賤ヶ岳の戦いの緒戦を勝利に導いた。盛政はこの勝利を足がかりにして戦の勝敗を決しようと、次に羽柴秀長の陣を討つべく準備にとりかかっていた。

しかし、琵琶湖を渡って船で上陸した丹羽長秀が増援として現れ、秀吉が強行軍で戦場に戻って盛政は敵中に孤立してしまった。結果的に勝家軍は秀吉軍に大敗し、盛政は再起を図って加賀国に落ち延びようとした。

(が、捕らえられ処刑)その首は三河国吉良(愛知県西尾市)に、胴は槇島(京都府宇治市五ヵ庄日皆田)に埋葬されたと伝わる。盛政には虎姫という娘がいたが、義弟の新庄直頼の養女となり、後に秀吉の命により中川清秀の次男秀成に嫁ぎ、豊後岡藩主の奥方となった。その縁で盛政の菩提寺は、大分県竹田市の英雄寺である。

墓所

海蔵寺(愛知県西尾市)英雄寺(大分県竹田市)
位牌所 慶宗寺(長野県飯山市)

佐久間盛政 wiki

この墓所 海蔵寺ってのがこのお寺で、下の写真で、斜めに切り裂かれたような墓石がそれ。正確には墓ではなく碑だそうです。すり減って文字は全く見えませんが・・・

「賤ヶ岳合戦で敗れた盛政の遺体を家臣の鈴木八郎治がひそかに郷里萩原に持ち帰り埋葬。佐久間の文字を避け索麻と石に刻み、出家して供養した。付近の萩原小学校の南方一帯を佐久間屋敷といっていた。」

正直、 盛政は京都(宇治・ 槇島)で斬首された罪人なので、その首をはるばる三河の地まで持ってくることが可能か?という気もするんだけれど、真偽はともかくそれなりの有名人のお墓 とされるものが西尾にある ってのは驚きでした。

にしても、「賤ケ岳の合戦」の勇者ですか。 いろんな縁があるものですね。

浅井千坊 須美千坊について

既出。とりまとめ記事です。

西尾市の文化財 万燈山で行われる「鍵万灯」 について、西尾市のHPでは次のように記載されています。

市の東端、標高160余メートルの万灯山西斜面で毎年盆の8月14日に行なわれる火祭り。柴の山「ツボラ(スズミ)」を並べて点灯し、遠方から見ると火線が「かぎ形」に見えることから「かぎ万灯」と呼ばれる。午後8時半から9時頃に点灯し、20から30分ほどで終了する(天候によって異なる)。

その由来や始まった時期については明らかではないが、寛永7年(1630)に創建した長圓寺が山号を「万燈山」と称したことから、この頃には既に行われていたことが分かる。最も古い史料は、長圓寺創建から間もない頃に編まれたと思われる『万燈山長圓寺記』で、「山頂に戦国時代に戦で亡くなった人を埋葬した古塚があり、これを祀るために里民が七月の中元に万灯を焚く」としている。

また一方、明和6年(1769)『友うづら夢物がたり』では、「応徳・寛治の頃(1084から94)に周辺の真言宗と天台宗の寺々(「浅井千坊」「須美千坊」)が宗論から争い、多くの死者が出たため、その霊を鎮めるために始めた」とされる。

「かぎ形」の由来についても諸説あり、「火でレ(さんずい)形を作り、火を以って水を手向ける」(『友うづら夢ものがたり』)、「梵字イの形で、除災、祈幸福の意」(『万燈山長圓寺由緒』)などある。古くは火の付きの良し悪しやかぎの形によってその年の稲の豊凶を占ったという。

僕は、この須美千坊と浅井千坊がどこにあったのか、とか天台宗と真言宗の宗論争いがどんなものだったか、気になって仕方がなかったのです。

(オイオイ、そんなブッソウな話が、この西尾にあったんか? って。不謹慎ですが、もしそんなことがあったなら、おもしろいよねー。)

で、須美千坊とか浅井千坊ってどこ?西尾にはそんなに天台宗とか真言宗の寺は残ってねーぞ。(真宗に改宗した寺で、もとはそうだった という話はちらほらある)

「須美千坊」については、「須美郷土誌(幸田町立図書館蔵)」により、

幸田町大字須美字向屋敷47にある敬覚寺(真宗大谷派)が、元は真言宗の寺院で、妙覚山等覚寺と称し、須美千坊の一つだった

ことが分かりました。

敬覚寺

「浅井千坊」については、愛知県西尾市西浅井町古城1にある宿縁寺(真宗大谷派)の説明看板により、

元は天台宗の宿坊として建てられ。往時はたくさんの天台宗の僧侶がこの辺りに住み、浅井千坊って言われ宿縁寺はその中心だった

ことが分かりました。

宿縁寺

須美千坊(真言宗)と浅井千坊(天台宗)の位置を航空写真に落としてみてのがこちら。須美千坊は、蘇美天神社のあたり とご理解ください。

間に横たわる、万燈山を含む須美北山・・・連峰(?)の写真がこちらです。

須美北山(平原203展望台より撮影 奥の小山が、宿縁寺のある浅井地区)

そして敬覚寺の裏山である茶臼山の麓には、平原の滝があります。

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滝の傍らには薬師堂もあり、修行の場であることがわかります。この滝は慈覚太師(円仁)が平原の里に泊まった時、不思議な夢を見てこの山に滝があることを発見し、薬師如来を彫って祭ったのが始まりとか。それ以来、滝は「薬師の滝」と呼ばれ、滝水を飲めば長寿に、打たれると難病も治ると伝えられているそう

ここまでくると、宗論争いって、なんか山岳宗教(修験道)と関りがあるんじゃないかな?って思いません?

あと符牒が合うな って思ったのが、修験道の法流が、大きく分けて真言宗系の当山派と、天台宗系の本山派に分類される ってこと。

で、推論ですが、

「真言宗と天台宗の寺々(「浅井千坊」「須美千坊」)が宗論から争い」ってーのは、真言系と天台系の山伏(修験者=修験道を極めんとする人たち)の宗論争いおよび修行の場である山の使用権を巡っての戦いだったんじゃないか と。

・・・根拠はないんですが、一般的には山と無縁の西尾市(沖積平野が中心部)で、そのような山にまつわるような話があったとしたら、ちょっと面白いと思いません?

 

以下、リンクです。

万燈山、平原の滝、宿縁寺、敬覚寺、それぞれ散歩するには楽しいところです。よろしければ探訪記をお楽しみください。

平原の滝:西尾の文化財(9)  上永良神明社の大シイ  (+平原の滝)

宿縁寺:西浅井町散歩(西尾市 源空院、宿縁寺)そして かぎ万燈

敬覚寺:建稲種命を取り巻く話題(志葉都神社・蘇美天神社)

万燈山」マントウヤマノボレ0401