西尾に残る伊奈忠次の足跡(西方寺、東禅寺、安楽寺)

江戸時代、「関東郡代」という役職がありました。関東地方の幕府直轄領約30万石を管轄し、行政・裁判・年貢徴収・警察権を統括する重職です。この役職は十二代まで「伊奈家」が代々世襲していました。(細かいこと言うと、伊奈家の世襲時代、この役職は「関東代官」と呼ばれていましたけど)

また役目柄、新田開発、河川改修(利根川や荒川の付け替え)の総指揮も行うなど、当時の土木技術官僚のトップでもありました。なので関東代官の官位「備前守」に由来する備前渠や備前堤と呼ばれる運河や堤防が関東地方を中心に残されていたり、「伊奈流」という治水技術の名称が残されてたりします

その初代の関東代官が伊奈忠次なんです。まあ江戸時代の農地開発や民政、土木史や治水史のマニアには有名な名前っすね。で、この人は西尾市の出身なのれす。

1550年に、西尾にあった小島城の城主・伊奈忠家の子として生誕。

小島城は、背後と側面を矢作川(現矢作古川)に守られた小高い丘の上に建てられた要害でした。その後廃城となり、丘は工業団地として整地されちゃいました。そこに「アイシン精機・城山工場」が建てられ、後に工場が分社化し「アイシン・エーアイ本社工場」となりました。経済的な意味で、不落の堅城を築いたとも申せましょう?

いや、今日の話はそちらではありませんでした。

城がなくなったあとも、当時「小島」にあった三つの寺は伊奈氏の取り計らいにより、江戸幕府から領地を認められた、格式の高い寺として残されたのです※。それが西方寺、東禅寺、安楽寺です。 下に小島城と小島三か寺の位置を示した航空写真を示します。▲の場所が、小島城のあった場所です。

※江戸幕府から領地を貰っていたお寺はその時代は豊かだったのですが、明治維新で江戸幕府からもらった領地は取り上げられてしまい、それ以降、寺の維持に苦労するところが多いんですが(笑)

西方寺(浄土宗)

西方寺

山門前に石碑が建てられ、「小島城主山田七蔵重宗 伊奈備前守忠次」と書かれています。最もこの石碑は裏に戦死者の名前が彫られているので(笑)、比較的最近建てられたものですね。境内は狭いですが、中に入ってみましょう。

裏山墓地への通路。少し趣があるかなあ。狭いですが

石碑本堂の左手から裏山の墓地に向かう通路の途中に「城山稲荷」の石碑が残されています。

城山稲荷  

東禅寺(黄檗宗)

背後に山を背負い、前に水田(転作中)。道は一本しかない。要害の地ですな。
山号は「紫雲山」・・・松が多く紫雲がたなびくように見える・・・かな?
本堂

このお寺の宗派は「黄檗宗」です。この宗派は江戸時代に明から伝わった禅宗の一派で、この宗派のお寺は少なく非常に珍しいです※。ちなみに全国での禅宗寺院数は(曹洞宗14808、臨済宗5780、黄檗宗460)、西尾市内には、この寺しかありません。(曹洞宗17、臨済宗14、黄檗宗1)。

珍しい宗派だから、寺院内にも珍しいものがあるのかな・・・僕が気が付いたのは本堂の屋根ですね。お寺の屋根にしゃちほこが付いてるのは、ちょっと珍しいと思うんだけど、どうなんだろ?それから屋根中央付近に「相輪」(五重塔の先端の金属部分)の先端みたいなのが付いてるんですよね。これは珍しいとおもうけどな。なんだろ?

墓地に一般の方の墓は少なかったので(すなわち檀家が少ないということ)、なかなか維持していくのは大変でしょうねぇ。他人事ながら。

んで、なんでここに黄檗宗の寺があるのか、少し調べてみたけど、不明でした。ただもとから黄檗宗の寺として建てられたのではないようです。

※江戸時代初期に来日した隠元隆琦(1592 – 1673年)が開祖。本山は、隠元の開いた京都府宇治市の黄檗山(おうばくさん)萬福寺。隠元(いんげん)さんは、その名に由来するインゲンマメのほか、孟宗竹、スイカ、レンコンなどをもたらした とも言われています

安楽寺(真宗大谷派)

安楽寺

このお寺は、前二つのお寺と比べると、お墓の数も多いし、建物も立派なんで、わりかし維持に成功してるのかな・・・下世話ですいません。

このお寺は室町時代に「小島道場」と呼ばれていたそうです。道場ってのは「布教所」くらいのいみですね。だから真宗中興の祖、蓮如氏から六字名号(「南無阿弥陀仏」の六文字を書いた紙)が贈られ、本尊として祀られていた そうです。今はちゃんとした仏像を祀ってると思いますけど。

 

 

 

 

 

「百姓伝記」巻七防水集は、治水工学の教科書(関東流)じゃない?

追記:勝手に全部現代語訳しました。よろしければご覧ください

 

 

マニアックでございます。最近、百姓伝記を手に入れ、パラパラ読んでおります。百姓伝記とはおおざっぱに言うと「江戸中期の三河から遠江にかけての東海地方を対象にした農業書」でございます。 岩波文庫として出されておりましたが、すでに絶版。中古品を手に入れることは可能です。この地方の慣行農法について研究するため購入しました。えーん嘘です。ホントは農業好き+郷土史好きの兼用趣味。

文化財の関係で言いますと、この本の「底本」は西尾市岩瀬文庫が所蔵しています。原本は失われてありません。校注された古島敏雄氏は、「伝承・書写年・書写者不明であるが、旧来の二種の刊本。祭魚洞文庫本に比して書写態度が依拠本に忠実であると判断して、これによった」とあり、なかなか貴重な写本のようです!すごいよ弥助さん

ついでに、古島敏雄は、岩波新書で名著「土地に刻まれた歴史」を書いた農業史家です。すごいよ敏雄さん

さて、農業書なんですが、7巻に「防水集」ってのが入っております。私は前職が河川管理業務 だったので、ここが一番興味を引くところ。 しかしなんで農業書に防水を入れたか・・・

本朝の大河には池・堀のかこひ、普請の仕かた善悪、見及び聞伝えたる所を、余、ひそかに書付、坊水集と名づけ、百姓伝記の類巻にのする。堤・井溝・川除普請は、世に耕作初りし上代よりこのかた、土民の役たり。末代も猶油断ありては、子々孫々水災にあふべし。

水防活動は地元住民(からなる水防団)が担っているのは現代もそうですから、農民に防水の技術を伝えるのは、まあ筋が通っています。ですが、中身を読んでいくと農民が知っておく知識をはるかに超え、当時の治水技術者向けの治水工学の教科書だと感じました。「密かに」とあるように、当初は秘伝だったでしょうが。

内容はもうすこし勉強してみますが、江戸初期の治水術「関東流」の香りがプンプンします。

百姓伝記の作者は不詳ですが、「現在の静岡県から愛知県あたりの人で、おそらく武士と考えられ、老農からの聞き書きであるが、著者本人も農耕に従事したと思われる」とされています。

しかし防水集の内容を読むと、農業分野の記述のうえにさらにここまで全国の河川の状況や治水技術に詳しい人っているのか?って感じを受けます。あんまり聞き書きにも見えないし。それで

私の独断と偏見では、七巻の防水集だけ作者が違い、屁理屈をこねて農業書の中に入れたんじゃないか。さらに防水集の著者は「関東流」治水術宗家、関東郡代伊奈家関係者じゃないかと思うです。

関東流とは?    関東をはぐくんだ歴史的水路網(関東流と紀州流)から抜粋

新田開発の代表例は、死水化した古利根川を用排水路として利用した、葛西用水(4代目忠克によって開削)でしょう。上流の排水を下流の用水に使う「溜井(ためい)」というシステムは関東流の典型です。また、彼らは洪水処理にも、霞提(かすみてい)、乗越提、遊水池といった河川を溢れさせて流れの勢いをそぐといった独特の工法を用いています。

こうした関東流は自然の流れを上手に受け入れる技術であり、現在でいうところの自然型工法に近いものがありますが、人口が増えてくると水に浸かる土地も多く、江戸の洪水被害が増えたり、乱流地帯も多く残るなど新田開発には限界がありました。さらに用水兼排水の利水形態では、常に下流の用水確保が上流の排水困難をまねき、開発が進むにつれて上流と下流の対立が顕在化します。ここにきて関東流による新田開発は、技術的限界を迎えることになりました。

このころに登場するのが8代将軍吉宗です。吉宗は「享保の改革」推進のために新田開発を奨励します。これ以降、関東平野の開発は紀州から連れてきた天才技術者・井沢弥惣兵衛為永(いさわやそべえためなが)を祖とする紀州流にとって代わります。 為永は乗越提や霞提を取り払い、それまで蛇行していた河川を強固な堤防や水制工(水の勢いを止める構造物)で固定し、連続提によって直線化しました。これにより、遊水池や河川の乱流地帯は必要なくなり、広大な新田が誕生することになります。

当時はコンクリートや重機はないので、関東流が水を溢れさせ、紀州流は連続堤で河道を固定化さました とぎっちりと分離できるほどの技術力まではなかったと思いますが、治水哲学が違うようですね。紀州流の考え方は現代にまで続いてます。

関東郡代(代官)は代々伊奈家が世襲しておりました。代々治水や利水事業に巧みだったことから、「関東流」は「伊奈流」とも言われています。

関東の新田開発の歴史説明文を引用しましたが、ここに出ている「止水化した古利根川」が生じた原因は、もともと江戸湾に流れていた利根川を太平洋(銚子)に流すべく人工的に東遷させたためです。この事業は「家康は伊奈忠次を関東郡代に任じ、関東周辺の河川改修にあたらせた。以後、忠治、忠克と伊奈氏3代により、利根川の常陸川河道(銚子河口)への通水が行われた。」ものです。

防水集には、常総国ふかわ新田の記載がありますして、注釈には、利根川本流移設工事のころのことを記すか?とあります。利根川東遷そのものの記載はありませんが、「大河の堤をつく事(大河の堤をば二重つきたるがよし)」「みよとめ堤(水脈止め堤)を付事」など、大規模な河川改修の仕方が書かれており、さらに「田畑用水のため井堀をほらずしては不叶もの也。」「為用水、雨池をかまえる事」と等の小見出しがあり、関東流の治水・利水の特徴を良くとらえているように思います。

さらに。百姓伝記の防水集には、慶長十年(1605年)の矢作川新川開削がかなり詳しく記載されています。この工事の様子はあまり他の書には詳しく書かれておらず、著者はこの工事を見ていたのか、関係者に詳細まで詳しく聞いたものと思われます。

初代関東郡代、伊奈忠次は短期間ながら西尾の小島城主を務めました。付近のお寺には、彼の連名安堵状や位牌が残っています。(西尾市史)

小島城は今や工場用地として跡形もありませんが、城と矢作川の位置関係は下図の通りです。

元々の矢作川本流は東から西進し、小島城下で急に南へ流れを変え、現在矢作古川と呼んでいるところを流れていました。西進する流れが急縮・急旋回し南流するため、洪水時に水がしょっちゅう詰まり、氾濫していました。そこで小島城西側の平地を開削し、本流をスムーズに西へと流し、早く海へ導いてあげるのが、矢作川新川開削工事の狙いでした。

この工事は、米津清右衛門が奉行として指揮を執ったといわれています。しかしはっきり確定してはいません。米津清右衛門清勝という人は記録が少なく、素性が良くわからないのです。(部下の不祥事の責任を取り処刑されたとも、切腹したとも。そうなら不名誉だからあまり記録が残ってないのでしょう)

また、「伊奈備前守および米津清右ヱ門奉行して、矢作川の川筋を変更せしむ」(「三和村誌」)と、忠次が指揮してたという説もあります。

いずれにせよ、施工個所は、伊奈家の旧領として勝手知ったる場所であり、治水に長けた忠次は洪水発生のメカニズムもよくわかっていたでしょう。直接奉行じゃなくても 、忠次は慶長6年に三河国検地を実施していたので工事の詳細を把握していたと思います。検地への影響はでかいですからね。

そんなこんなで、伊奈家の関係者(家臣とか子孫を含む)が防水集書いたんじゃないかなとおもうんですが、どうでしょうね?