鳴海・有松散歩

名古屋鉄道(名鉄)の名鉄本線に乗車し車窓を愉しんでいると、鳴海駅の北側に立派なお寺があるのに気が付きます。   僕は愛知県民で名鉄をよく使うので、ずっとその寺が気になってたのですが・・・ついに行ってきました。

せっかく行くなら下調べをしましょう。 目的のお寺もだけど、そもそも下車する鳴海って、東海道五十三次の宿場町の一つである「鳴海宿」なんですよね。 探せばいろいろ楽しめるのではないかと。(宣伝ですけど、よかったらお隣の知立宿散歩宮(熱田神宮)宿もお楽しみください)

と、思ったのですがうーん、ネット検索してもあんまり鳴海宿散歩のいい情報がないんですよね。実は鳴海って一つの行政区分ではなく、いろんな観光資源を持つ名古屋市緑区の一部なので、それだけに絞って観光に力を入れているという感じではなさそう。

緑区散策マップとかありますけど、複数候補の一つです。

例えば、観光の入り口になる鳴海駅には観光案内所も、散策マップを配布している場所もありません。駅施設空っぽなのにもったいないなあと。これが例えば「鳴海市」みたいな行政区分であれば、鳴海駅に観光案内所を設置し目の色変えてPRすると思うんだけど。

でもまあ周辺の情報を仕入れ、まず2駅隣の有松駅で降りたですよ(有松は番外ですけど、鳴海と知立の間の宿として開発されました。)。こちらは歴史景観地区が残っているので。朝早い時間でもそれなりに観光客がいます。

ふむふむ。範囲は狭いけれど名古屋駅から近いし、磨けばかなり観光客呼べそうですねえ。 さらに集客するなら、なにか食べ歩きができるお店があるといいのかと・・・まあ僕個人はいまの静かなままの方が好み ではあるけれど。

有松と言えば、有松絞が有名ですよね。 ここにも「有松・鳴海絞会館」ってのがありまして、実演と実物販売をしてまして、手ぬぐいでも一本求めようかと・・・ん?有松絞は知ってるけど、鳴海絞ってものがあるの?

せっかくその会館にいるのでそこの人に聞いてみようと思ったらば・・・なんか職員同士で展示方法について相談してて、僕の相手をしてくれそうな雰囲気がありません。

そ、そりゃ中年のオッサンが一人布地を前に手持ち無沙汰にしてもあんまりいいお客には見えないだろうけどさ、 質問に答えてくれたら(高い)有松絞の手ぬぐいを一本買おうか とまで思ってたのに、ちゃんと客あしらいしてよ・・・ と苦情を少し。

鳴海絞?の話と、同じ有松絞の手ぬぐい でも1800円と3600円くらいとその中間の3種類くらいの品物が出てましてね、その違いが何かを説明してほしかったんだけどな。(たぶん、機械生産と手仕事の違い、藍の品質によるものだと思うけど) しかしまあ、手ぬぐい一本3600円ってやっぱ高いよなあ、いくら品質がいいと言っても、もう実用品じゃないのかも。買わなくて良かったよ(酸っぱいブドウ

気を取り直して鳴海駅で下車。あちこち歩いて回ります。鳴海ではそれっぽい建物が固まって残っておらず、「保全地区」は厳しいねえ。それっぽいのがあっちに一軒、こっちに一軒という感じ。まあこれは観光地としてはの話ですから、逆に言えば有松地区より順調に発展しうるおい、古い家屋が建て替えられたってことだから、いいことだったかもしれませんけど。

気を取り直して。 鳴海の地名のもとになった成海神社とか。

この神社、平安中期成立の『延喜式神名帳』に記載のある歴史と格のある神社です。(延喜式に載ってるから、「式内社」っていうです。)

延喜式神名帳に記載された神社、および現代におけるその論社を「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)、式社(しきしゃ)といい、一種の社格となっている。
延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2861社で、そこに鎮座する神の数は3132座である。
式内社は、延喜式が成立した10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社で、その選定の背景には政治色が強くみえる。

wiki

まあ、あんまり見るものはないんだけれども。

この神社はもともと別の場所(丘の頂上)にあったんですが、鳴海城を作る際に邪魔になったんで現在の場所に移転させられちゃったんです。 

いま鳴海城の跡には何も残ってなくて、城の鎮守であった天神社が残るだけ。ですが歴史上では桶狭間の戦いで今川義元が打ち取られた際、この城の城主だった今川方の岡部元信という武将が信長と交渉し、鳴海城を織田方に引き渡す代わりに義元の首の返還した という話のネタになった城です。

ちなみに岡部元信は後に武田家に仕え、最後は対徳川の最前線であった高天神城を守り戦死した、徳川家康の好敵手ともいうべき名将。

あとは、織田信長が桶狭間に突っ込む前に軍勢を終結させた善照寺砦の跡とか。

ここも公園になってて当時の面影は何もないけれど、ここは丘陵の端。鳴海城跡といいこの善照寺砦といい、てこてこ地面の勾配を感じながら歩いていると、「当時は地形をよく見て拠点を作ってたんだなー」という実感はできます。 あーマニアすぎな会話だわ。

あとは古い宿場町だからか、いくつもお寺がありますね。 いくつか巡った中でここはいいなと思ったのが誓願寺かな。狭いけど、樹木とかもよく手入れされています。松尾芭蕉の最古の供養塔があるそうです。

が、見つかりませんでした。代わりに芭蕉堂(芭蕉を祀るらしい)があったので、その写真でも。

ところで、このお寺にも立派なソテツの木が植わっていました。  芭蕉にゆかりのある所にはソテツを植えるのがお約束みたいになってるように思うのですけど、これってなんででしょうね?

さて、ぐるぐる回ったので疲れました。 例の寺を見に行く前に鳴海駅近でおひるごはん・・・と。google mapで4.6とすごい評価のついてる食堂があるじゃないか! いくしかなす。   ついた。

うむー。皆さんこの店構え、入店できます? 口コミ評価がなければ、僕は遠慮しちゃうな。

でも入ったら大正解でした。  「一人暮らしの若い子(孫くらい)が、わざわざ鳴海で電車下りて食べに来てくれるのよ」と店主がおっしゃってましたが、それも納得。

平日でお客さんが少なかったんでしばらくおしゃべりさせてもらいましたが、その仕事に対する真摯な姿勢とか心配りとか頭がさがりました。 こりゃ千円定食の仕事じゃありません。高評価がつくわけです。詳しくはgoogle mapの口コミでもどーぞ。   近頃じゃ、こういう店は絶滅危惧ですな。

 お待たせしました例の寺。 曹洞宗・瑞泉寺です。

まずは門に驚かされますね。僕が車窓から見て目を引いたのもまずはここ。愛知県の指定文化財だそうです。ちょっと南国風(琉球の守礼門とか)な感じがしますよね。

境内入口には寺名を刻んだ石柱があり、参道を進むと石段の上に総門がある。この総門は宇治の黄檗宗萬福寺の総門にインスパイアされ、宝暦6年(1756年)に建立された。境内中央には重厚な本堂があり、本堂中央には本尊の釈迦牟尼仏が鎮座している。

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重文・萬福寺総門 wikiよりお借りしました。

寛文元年(1661年)の建立で元禄6年(1693年)再建。瓦屋根の中央部分を高く、左右の部分を低く、段差を設けているのは中国風の牌楼(ぱいろう)式で、漢門とも呼ばれている。中央上部裏面には円相が象られており、これは風水的モチーフの一つの白虎鏡である。日本の一般的な社寺建築には見かけない形式である。扁額「第一義」は第5代高泉の筆。この額字には、高泉和尚が何度も書き改めたという逸話がある。屋根上左右に乗る魚のような像は仏閣でよくみられる鯱ではなく、摩伽羅という想像上の生物でヒレの代わりに足が生えている。マカラはサンスクリット及びパーリ語でワニを表す言葉で、ガンジス川の女神の乗り物。東南アジアでは聖域結界となる仏教寺院の入口の門、屋根、仏像などの装飾としてよく用いられている。

なるほど。しかし「インスパイア」とはな。言いえて妙ですが、黄檗宗って禅宗とはいえ、曹洞宗より臨済宗に近い宗派だったと思うんだけど、インスパイアされちゃっていいんだろーか( ´∀` )。

ところで、瑞泉寺ってどこかで聞いた記憶が・・・あ、犬山の瑞泉寺。僕がお寺一つでブログ記事一つを取り上げたお寺ですね。ただし犬山は臨済宗ですが、何か関係があるのかなぁ・・・

犬山の瑞泉寺は修行道場だった という視点で見ると、鳴海のこのお寺も、本堂を囲うように立派な鐘楼(鐘付き場)、庫裡(住職が住む家)以外に僧堂(修行僧が修行に励む場であり生活の場)があるじゃないですか!

 敷地は広くないけど、小さな丘の上にこれらの建物が集合体になって建っているから、電車の車窓にも映えるんだよね~。

鐘楼と庫裡
右が本堂、中央が僧堂

今は使われていないのか、僧堂の中をのぞくこともできました。奥の畳敷きのベンチみたいなやつに注目。

僧堂内部

下の写真は僕が持ってる「永平寺の精進料理」という本にある写真のキャプチャですが、この写真にはこのような説明が。

僧堂の単「座って半畳、寝て一畳」雲水は、起きている時には、座禅を組み、そして食事をとるために必要な半畳が、寝る時には布団を敷く一畳分が与えられる。後方に見える戸棚は、下段に布団が、上段には衣類や身の回りの品等が収められている。

前に置かれたのは座禅の時に使うクッション(座禅布団)と一切の食器(応量器と布巾)なので、これで必要最低限の衣食住が完成するわけです。究極までシステム化されたミニマリストの持ち物すべて ですね。

先の畳ベンチがまさにこれ。布団等がないから、今修行僧はいないのかな。かつてはここも犬山の瑞泉寺みたく、曹洞宗の僧侶を養成する修行道場だったのですね。  

そうみると、庭の玉砂利の砂紋とか、道場っぽい、そんな雰囲気もする・・・かな~。

てなことで、堪能させていただきました~。このあと名古屋にも足を延ばしたので、その話も改めてまた。

犬山散歩3  (脱線話だらけ)  瑞泉寺

犬山遊園駅の裏に、なにやら立派なお寺が現れました。丘の上(正確には山の中腹)にあるお城のようです。  門もまるで城門ですな。これは見ていかねば。

線路を超えると、大きな石段が現れます。石段はやや荒れているけど、植栽も手入れが行き届いた見事なアプローチです。大樹(くすのき?)が山門を隠してしまっています。にしてもデカい!

山門の写真を取り忘れたけれど、柱が驚くほど太いです。寺には不釣り合いなくらい。どこかの城門を移設したものではないかと。

山門は犬山城内田御門を移したものであるが、この山門は以前は美濃国兼山城の大手門であった。

wiki

うん。戦国時代の城門だと言われれば、納得です。

こちらは中門です。 左側の表札には「専門道場」とあります。禅宗の僧侶を養成する場所ですね。なるほど、修行僧がいるので、庭の手入れをする人手があるんだな(作務)。

右側の碧巌録「提唱」ってどういう意味なんだろ?。最初は「いまの時期は、これを読経しています」という意味だと思ったのですが、碧巌録というのは、お経ではなく禅の公案集ですから、声に出して読む  にはそぐわないでしょうねえ・・・

提唱

禅宗で、大衆に宗旨の大綱を説き示すこと。提綱。

コトバンク

なるほど。  ここは教育機関なので、「大衆に」というより、「修行僧に」ということでしょうけど、そういう意味なのね。

僧堂を開単したのは、1928年(昭和3年)三島龍沢寺の山本玄峰を拝請した時である

wiki

山本玄峰・・・僧侶としての業績は知りませんが、終戦時の詔勅「耐え難きを耐え、しのぎ難きを忍び」という表現の一端を担った  と言われている方ですな。ま、龍沢寺時代のことだから、瑞泉寺と直接の関係はないんだけれども😂。

八月の確か十二日頃であったと思いますが、朝雨の酷い日に、一人の青年が朝早く龍沢寺を訪ねて来ましてね―その当時、私は玄峰老師の侍者をしておったんですが、「是非玄峰老師に直接お会いしたい」と、そういうものですから、老師のところへ案内をしましたところが、老師は、早速手紙を書き出しましてね、「この人はすぐこれから東京へ帰らんならんから、朝早いけれども、朝飯を食べさしてあげてくれ」そう言って、老師は自分で手紙を―当時大事な手紙は老師は自分で書かれましたが、まあほとんど私や宗淵(そうえん)老師が代筆をしておりましてね。しかし老師は自分で手紙を書かれて、それまであまり自分の手紙を人に見せたことはなかったんですが、老師は、「これは非常に大事な手紙で、もしあまり字が間違ったり、文章の意が届かないと悪いから、お前、一度見直してくれ」と、そう言って私に見せられましてね。それで拝見してみますと、「忍び難きをよく忍び 行じ難きをよく行じ」という言葉がありました。話は前後しますが、これは結局、鈴木総理が四元さんを介しまして、「老師がご心配くださっておりました、いよいよ戦争終結をすることになりました」と言って、十二日ぐらいでしたね、書簡を松岡という青年が持って来られた。それに対する返事を老師が書かれて、そしてそれを拝見していますと、「いよいよ戦争終結することになって結構なことだ。しかしあなたの本当のご奉公はこれからであるから、まあ忍び難いをよく忍び、行じ難きをよく行じて、一つ身体に気を付けて、今後の日本の再建のために尽くして頂きたい」そういう手紙でございまして、それを四元さんを介して鈴木(総理)さんのところへ届けられたわけですね。それですから、四月に玄峰老師が、鈴木貫太郎大将に、「あなたがひとつ出て、大関らしくあっさり負けて、そして負けて勝つということを考えなさい」この言葉が非常に鈴木さんの力になり、頼りにしておられて、それを戦争終結を一刻も早く玄峰老師に知らせたい。そう思って老師のところへ寄越された使者だったんでしょうね。果たしてこの言葉が終戦の詔勅にそのまま使われたかどうか知りませんけれども、まあおそらくこれは鈴木さんにとっては、非常に意義の深い、感銘の深い言葉であり、それが影響したと言ってもいいと思いますね。この言葉は、玄峰老師が創られた言葉ではなくって、達磨さんの言葉に、「忍び難きをよく忍び、行じ難きをよく行じて、修行をせよ」という有名な言葉があるんです。それを引いて玄峰老師が手紙の一節に書かれたわけですね。これが巷間(こうかん)伝えられておるところですね。

忍び難きを忍び―山本玄峰の禅―

閑話休題

本堂の前庭も、きっちり維持されています。枯山水の庭園って美しいんですけど、雑草一つなく維持するには、恐ろしいほどのコスト(人手)がかかるはずです。修行僧によってそれが維持され、我々はそれを無料で拝観できる、ありがたいことです、合掌。

いわく有りげな鐘楼。  背景の小山には、犬山城天守閣が見えています。

鐘楼は明応3年(1494年)建立と伝えられ、三猿は左甚五郎の作と伝えられる。

wiki

うう、やっぱりなあ。でも写真を見てもどこに三猿(日光東照宮で有名な「見ざる、言わざる、聞かざる」のこと)がいるのかわかりません・・・

裏手に、突如そこだけ岩が露出した不思議な一角があります。  岩山の上は門と塀に囲まれています・・・門の先(進入禁止)には小さな池があります。その奥には、写真に写っている「窓の大きな展望室のような建物」とそれに連なる建物群が。だいぶ荒れていますが瀟洒で、寺院建築っぽくはないです。昔は宿坊でもあったのでしょうか?

池はこれでしょうね。

犬山たび  物語の巻  犬山市文化遺産活用実行委員会

地図を見ると、寺のある山が犬山の町から東にあるから、「青龍」山(青龍は四神の一つで、東を示す)という見方もできそうですが、それはそれで・・・あ、東の青龍は、流水を意味するそうだから違うか、失礼しました。

地相からみて、天の四神に応じた最良の土地柄。すなわち、左方(東)は青龍にふさわしい流水、右方(西)は白虎の大道、前方(南)は朱雀の汚地(おち)(=くぼんだ湿地)、後方(北)は玄武の丘陵を有すること。官位・福祿・無病・長寿を合わせ持つ地相で、日本の平安京の地勢はこれにあたるという。四地相応。

コトバンク  四神相応

先程の岩山?から続く階段をのぼると、寺の裏手の山にある墓地群に出ます。いい眺めです。

中央に流れるのが木曽川(右から左に流れる)です。見にくいですが、左上の川に突き出た丘(山ではない)に築かれたのが犬山城。  攻めにくい要害であるとともに、木曽川を監視できる位置にあることがわかります。

にしても、凄まじい数の墓石ですね。このあたりのお寺は、瑞泉寺の塔頭が多く、それらの共同墓地みたいな感じになっているのです。永代供養墓(宗派問わず)も売ってましたよ。この風景を眺めながら永眠  というのも悪くありません。

写真には写っていませんが、右側の鉄橋を渡った対岸の丘に鵜沼城という城跡もあります。犬山城と対で、当時の交通の大動脈である木曽川を上り下りする船をバッチリ抑えられます。

と思い出すのが、ドイツのライン川下りですな(強引)。あそこも川を使った輸送が盛んで、領主が通行税を取るためにボコボコ城を作ったのが観光施設として残っています。小領主が乱立していた  という面もあるけれど。

ライン川のクルーズ船はマインツからケルンまで約185kmを往復しています。でも、一番のおすすめはリューデスハイムから乗船し、ビンゲン・アム・ライン~コブレンツ間の「ライン渓谷中流上部」を下る、直行すると約1時間40分のルート。古城はもちろん、「ローレライ」「ラインの大蛇行」「ドイツの角」と、ライン川を代表する見所のつまったコースです。
ビンゲン・アム・ラインを出発してまもなく、左側に見えてくるラインシュタイン城はライン川で最も美しいとされる古城のひとつ。13世紀後半にライン川の通行料を徴収するために建造されました。その後戦乱による破壊と修復を繰り返し、19世紀にはプロイセン王国によって復元され、王族が夏に滞在したといわれています。現在は、ホテルとして宿泊でき、なんと結婚式を挙げることもできます。

ドイツ世界遺産を縦断!ライン川クルーズで古城巡り    ANA

それもあって?  このあたりの木曽川の峡谷は、日本ライン  と呼ばれています。

日本ライン(にほんライン)とは、岐阜県美濃加茂市から愛知県犬山市にかけての木曽川沿岸の峡谷の別称。 風景がヨーロッパ中部を流れるライン川に似ていることから、1913年に志賀重昂によって命名された。

日本ライン

志賀 重昂は、大正から昭和初期の地理学者です。  愛知県岡崎市出身。攻玉社を経て札幌農学校卒。海軍兵学校の練習船に便乗して世界を巡りました。著書「日本風景論」で有名です。他に雑誌「日本人」を発行。wiki

明治の大ベストセラー。明治期の地理学者による、日本を地理学的に解説した初期の書籍であり、詩情豊かな文章でこの国の風土を讃えるものです。科学的・実証的な論述でありながら、日本文学の古典を豊富に引用し、明治画壇きっての名手である樋畑雪湖・海老名明四の挿画とあいまって、日本の自然の美しさを述べた古典的名著です。日本人の景観意識に重要な変革を与えた記念碑的作品です。

(講談社学術文庫)

日本風景論、講談社学術文庫で発行されています。決して読みやすい本ではありませんが、風景論?で有名な和辻哲郎の「風土」と比べると(こちらは日本と海外との比較論ですから比較は難しいけれど)、和辻が哲学者、志賀が地理学者というベースの違いもあり、理系の人にはこちらのほうが興味深いかもしれないです。もっとも、時代的な素養もあり、かなり古典も引用した漢文調ではあります。

この人、登山もお好きだったようで、火山が日本の風景を形作った要因の一つだとして、日本全国の主要な火山に言及されていますし(当時の知識水準において)、登山ガイドやら「登山の気風を興作べし」という一文も付録されています。

解説によれば、小川琢治☆は「進化せる名所図会」と評価していたそうです。一読した感じでは、「言い得て妙」だと思います。    

☆日本の著名な地質・地理学者。日本人でノーベル賞受賞第一号の物理学者・湯川秀樹の父親。

と、ところで(脱線しまくり)、瑞泉寺には非公開だけど何点か寺宝があり、その中に「血達磨図」というのがあります。

犬山市

名前に引っかかって調べてみたのですが・・・(「達磨図」は珍しくないけど「血」達磨となると)足利氏あるいは細川氏と縁のあるものという表記が散見されました。

 細川氏は足利氏の一族ですし、足利幕府(室町幕府)の管領職ですから、足利・細川両氏に縁がある可能性もありますが、 本当に細川氏と縁のある血達磨図なら、有名なこれ・・・の可能性もあるんかと・・・

講談。肥後熊本の細川家に伝わる名宝の由来譚。主人公の名をとって《大川友右衛門(おおかわともえもん)》とも題する。細川綱利侯に仕えた大川友右衛門は,江戸屋敷類焼の際,切腹して主家の重宝達磨の掛軸をみずからの腹中に収め,命にかえてみごと,お家の宝を守り通したといわれる。この血に染まった達磨が,細川の血達磨と呼ばれ,長く友右衛門の忠節がたたえられた。いわゆる武勇物,忠義物の一つであるが,その他友右衛門が綱利の小姓と男の契り(衆道)を結ぶ話や,妖刀村正のたたりなど面白いくだりがある。

コトバンク

ま、本物なら、公的なホームページでデカデカと紹介されても良さそうなものですけど、それは見つからないですねえ。 それに瑞泉寺と細川氏との関わりも出てきませんし。コレではないかな・・・  不明です。

晴れていたら、連山の奥の寂光院まで足を伸ばしたかったんですが(個人的には途中にある犬山国際ユースホステルも覗いてみたかった)、雨がひどくなったので、山を降りて帰りました。    

 このお寺、色々みどころがあるし、妄想の連想もできて、なかなかよい場所でしたよ。何より無料ですしね!