西尾の文化財(13) 伊文神社と西尾祇園祭

なかなか立派な神社でしょう? ここは西尾城下の総鎮守総氏神である、伊文神社です。 祭神は素盞嗚尊と大己貴命、文徳天皇。

前二柱は、スサノオノミコトとオオクニヌシなんで、これはまあ珍しくない。が、文徳天皇って珍しいですよ。  文徳天皇・・・第五十五代。在位850〜857年。 在原業平とかの時代ですな。

文徳天皇と伊文神社とのかかわりはこんな感じ。

「伊文神社は今よりおよそ1,500年前の平安文化華やかなりし頃、人皇五十五代文徳天皇の皇子八條院宮が三河国渥美郡伊川津の地より当地へ御轉住の折に、随遷し奉祀されました。八條院宮は、文徳天皇の皇子とも弟とも云われ、朝廷の命により、吉良の地を根城にしていた兼光・兼森という兄弟の逆徒討伐の為、西尾の地に赴かれました。その際に屋敷の東西に御祀されていた、天王社(現伊文神社)と八幡社(現御劔八幡宮)を随遷されたと伝わっております。」

伊文神社

西尾はかつて「吉良荘」と呼ばれました。この荘園の始まりは清和天皇の娘孟子内親王が、吉良の地を一身田として与えられたこと。 そして清和天皇は文徳天皇の子。なので、 賊を討伐したご褒美に、その皇族ゆかりのものにその地を与えたと考えれば、つじつまはあいますなぁ。

ともあれ、誰だがよくわからんけど、八條院宮が遷した二社は、天王社は伊文神社として現存し、八幡社は後に西尾城本丸に城の鎮守として移設され、御劔八幡宮となり現存しています。

でもさあ、せっかく縁があって西尾に遷された天王さんと八幡さんなのに、いつも離れてたらかわいそうです。同情した村人は、年に一回くらい合わせてあげよう ってことで、天王さん(伊文神社)を神輿に載せて、八幡さん(御劔八幡宮)に会いに行かせることにしました。

これが、七月第三週に開かれる「西尾祇園祭」でございます。今や大名行列が有名ですが、祭のメインイベントは今も「二神の御対面」だそうでございます。

経緯が経緯なんで、神輿(担ぐのは藩士ではなく町人)がこの日は西尾城本丸に入ることが許されたのです。本来は要塞の中枢なんで、西尾藩士以外は入れなかったのでは。

と、天王さんと八幡さんの関係、なんか七夕の話と重なってるよね。あ、だから祭が七月第三週とか、七夕の近くに設定されてるのかな。 毎年この祭りのときは、たいてい雨、もしくは夕立なんだよね。むかしからやる時期が悪いと思ってたけど。

 

それから、この伊文神社には「義倉」が建っております。(西尾市文化財)

義倉

時は幕末。災害や凶作、飢饉が続きますが、もはや幕藩体制はその終焉期で、民を助けるような余裕はございませぬ。 ええい、お上がやらぬのなら仕方がない。城下の裕福な町人衆は、災害時に備蓄米を配布する慈善団体を造りました。米を備蓄する蔵は安政四年に伊文神社に建てられたもの。 大正時代の「米騒動」のときも義蔵米は活用されたそうです。

そのほか境内には、子安泉(水は地下からくみ上げか、水道水っぽいが、石はなんかよさそう)や、岩瀬弥助が岩瀬文庫設立を記念して寄贈した石灯籠があります。社殿は焼失してしまい、コンクリート造りの立派なのが建ってます。

い、泉?
灯篭

それからねぇ。この神社の境内は、台地の端っこで、西尾城総構えの端っこにもなります。なので、境内の前に「天王門」と「桝形」がありました。 「桝形」って敵が城下に一気になだれ込まないよう、道をくいっと曲げてあるんですな。

下の写真、分かりますかな。 ずっと上り坂になってますな。で水色のフレームが「天王門」。道の右側の木が生えてるところから先が伊文神社の境内。そして正面に見える黄土色の民家の前で、街道がくいっと90度左折し(赤矢印)城下町中心部へ続きます。

西尾城 攻め手視点(天王門口)

つまり伊文神社は、いざというとき城を守る砦の役割もあったんでしょう。 たぶん城外(坂の下)と3〜4mくらいの比高差があったんじゃないかな。よく地相を見てます。

絵図

 

 

「百姓伝記」巻七防水集は、治水工学の教科書(関東流)じゃない?

追記:勝手に全部現代語訳しました。よろしければご覧ください

 

 

マニアックでございます。最近、百姓伝記を手に入れ、パラパラ読んでおります。百姓伝記とはおおざっぱに言うと「江戸中期の三河から遠江にかけての東海地方を対象にした農業書」でございます。 岩波文庫として出されておりましたが、すでに絶版。中古品を手に入れることは可能です。この地方の慣行農法について研究するため購入しました。えーん嘘です。ホントは農業好き+郷土史好きの兼用趣味。

文化財の関係で言いますと、この本の「底本」は西尾市岩瀬文庫が所蔵しています。原本は失われてありません。校注された古島敏雄氏は、「伝承・書写年・書写者不明であるが、旧来の二種の刊本。祭魚洞文庫本に比して書写態度が依拠本に忠実であると判断して、これによった」とあり、なかなか貴重な写本のようです!すごいよ弥助さん

ついでに、古島敏雄は、岩波新書で名著「土地に刻まれた歴史」を書いた農業史家です。すごいよ敏雄さん

さて、農業書なんですが、7巻に「防水集」ってのが入っております。私は前職が河川管理業務 だったので、ここが一番興味を引くところ。 しかしなんで農業書に防水を入れたか・・・

本朝の大河には池・堀のかこひ、普請の仕かた善悪、見及び聞伝えたる所を、余、ひそかに書付、坊水集と名づけ、百姓伝記の類巻にのする。堤・井溝・川除普請は、世に耕作初りし上代よりこのかた、土民の役たり。末代も猶油断ありては、子々孫々水災にあふべし。

水防活動は地元住民(からなる水防団)が担っているのは現代もそうですから、農民に防水の技術を伝えるのは、まあ筋が通っています。ですが、中身を読んでいくと農民が知っておく知識をはるかに超え、当時の治水技術者向けの治水工学の教科書だと感じました。「密かに」とあるように、当初は秘伝だったでしょうが。

内容はもうすこし勉強してみますが、江戸初期の治水術「関東流」の香りがプンプンします。

百姓伝記の作者は不詳ですが、「現在の静岡県から愛知県あたりの人で、おそらく武士と考えられ、老農からの聞き書きであるが、著者本人も農耕に従事したと思われる」とされています。

しかし防水集の内容を読むと、農業分野の記述のうえにさらにここまで全国の河川の状況や治水技術に詳しい人っているのか?って感じを受けます。あんまり聞き書きにも見えないし。それで

私の独断と偏見では、七巻の防水集だけ作者が違い、屁理屈をこねて農業書の中に入れたんじゃないか。さらに防水集の著者は「関東流」治水術宗家、関東郡代伊奈家関係者じゃないかと思うです。

関東流とは?    関東をはぐくんだ歴史的水路網(関東流と紀州流)から抜粋

新田開発の代表例は、死水化した古利根川を用排水路として利用した、葛西用水(4代目忠克によって開削)でしょう。上流の排水を下流の用水に使う「溜井(ためい)」というシステムは関東流の典型です。また、彼らは洪水処理にも、霞提(かすみてい)、乗越提、遊水池といった河川を溢れさせて流れの勢いをそぐといった独特の工法を用いています。

こうした関東流は自然の流れを上手に受け入れる技術であり、現在でいうところの自然型工法に近いものがありますが、人口が増えてくると水に浸かる土地も多く、江戸の洪水被害が増えたり、乱流地帯も多く残るなど新田開発には限界がありました。さらに用水兼排水の利水形態では、常に下流の用水確保が上流の排水困難をまねき、開発が進むにつれて上流と下流の対立が顕在化します。ここにきて関東流による新田開発は、技術的限界を迎えることになりました。

このころに登場するのが8代将軍吉宗です。吉宗は「享保の改革」推進のために新田開発を奨励します。これ以降、関東平野の開発は紀州から連れてきた天才技術者・井沢弥惣兵衛為永(いさわやそべえためなが)を祖とする紀州流にとって代わります。 為永は乗越提や霞提を取り払い、それまで蛇行していた河川を強固な堤防や水制工(水の勢いを止める構造物)で固定し、連続提によって直線化しました。これにより、遊水池や河川の乱流地帯は必要なくなり、広大な新田が誕生することになります。

当時はコンクリートや重機はないので、関東流が水を溢れさせ、紀州流は連続堤で河道を固定化さました とぎっちりと分離できるほどの技術力まではなかったと思いますが、治水哲学が違うようですね。紀州流の考え方は現代にまで続いてます。

関東郡代(代官)は代々伊奈家が世襲しておりました。代々治水や利水事業に巧みだったことから、「関東流」は「伊奈流」とも言われています。

関東の新田開発の歴史説明文を引用しましたが、ここに出ている「止水化した古利根川」が生じた原因は、もともと江戸湾に流れていた利根川を太平洋(銚子)に流すべく人工的に東遷させたためです。この事業は「家康は伊奈忠次を関東郡代に任じ、関東周辺の河川改修にあたらせた。以後、忠治、忠克と伊奈氏3代により、利根川の常陸川河道(銚子河口)への通水が行われた。」ものです。

防水集には、常総国ふかわ新田の記載がありますして、注釈には、利根川本流移設工事のころのことを記すか?とあります。利根川東遷そのものの記載はありませんが、「大河の堤をつく事(大河の堤をば二重つきたるがよし)」「みよとめ堤(水脈止め堤)を付事」など、大規模な河川改修の仕方が書かれており、さらに「田畑用水のため井堀をほらずしては不叶もの也。」「為用水、雨池をかまえる事」と等の小見出しがあり、関東流の治水・利水の特徴を良くとらえているように思います。

さらに。百姓伝記の防水集には、慶長十年(1605年)の矢作川新川開削がかなり詳しく記載されています。この工事の様子はあまり他の書には詳しく書かれておらず、著者はこの工事を見ていたのか、関係者に詳細まで詳しく聞いたものと思われます。

初代関東郡代、伊奈忠次は短期間ながら西尾の小島城主を務めました。付近のお寺には、彼の連名安堵状や位牌が残っています。(西尾市史)

小島城は今や工場用地として跡形もありませんが、城と矢作川の位置関係は下図の通りです。

元々の矢作川本流は東から西進し、小島城下で急に南へ流れを変え、現在矢作古川と呼んでいるところを流れていました。西進する流れが急縮・急旋回し南流するため、洪水時に水がしょっちゅう詰まり、氾濫していました。そこで小島城西側の平地を開削し、本流をスムーズに西へと流し、早く海へ導いてあげるのが、矢作川新川開削工事の狙いでした。

この工事は、米津清右衛門が奉行として指揮を執ったといわれています。しかしはっきり確定してはいません。米津清右衛門清勝という人は記録が少なく、素性が良くわからないのです。(部下の不祥事の責任を取り処刑されたとも、切腹したとも。そうなら不名誉だからあまり記録が残ってないのでしょう)

また、「伊奈備前守および米津清右ヱ門奉行して、矢作川の川筋を変更せしむ」(「三和村誌」)と、忠次が指揮してたという説もあります。

いずれにせよ、施工個所は、伊奈家の旧領として勝手知ったる場所であり、治水に長けた忠次は洪水発生のメカニズムもよくわかっていたでしょう。直接奉行じゃなくても 、忠次は慶長6年に三河国検地を実施していたので工事の詳細を把握していたと思います。検地への影響はでかいですからね。

そんなこんなで、伊奈家の関係者(家臣とか子孫を含む)が防水集書いたんじゃないかなとおもうんですが、どうでしょうね?