なかなか立派な神社でしょう? ここは西尾城下の総鎮守総氏神である、伊文神社です。 祭神は素盞嗚尊と大己貴命、文徳天皇。
前二柱は、スサノオノミコトとオオクニヌシなんで、これはまあ珍しくない。が、文徳天皇って珍しいですよ。 文徳天皇・・・第五十五代。在位850〜857年。 在原業平とかの時代ですな。
文徳天皇と伊文神社とのかかわりはこんな感じ。
「伊文神社は今よりおよそ1,500年前の平安文化華やかなりし頃、人皇五十五代文徳天皇の皇子八條院宮が三河国渥美郡伊川津の地より当地へ御轉住の折に、随遷し奉祀されました。八條院宮は、文徳天皇の皇子とも弟とも云われ、朝廷の命により、吉良の地を根城にしていた兼光・兼森という兄弟の逆徒討伐の為、西尾の地に赴かれました。その際に屋敷の東西に御祀されていた、天王社(現伊文神社)と八幡社(現御劔八幡宮)を随遷されたと伝わっております。」
西尾はかつて「吉良荘」と呼ばれました。この荘園の始まりは清和天皇の娘孟子内親王が、吉良の地を一身田として与えられたこと。 そして清和天皇は文徳天皇の子。なので、 賊を討伐したご褒美に、その皇族ゆかりのものにその地を与えたと考えれば、つじつまはあいますなぁ。
ともあれ、誰だがよくわからんけど、八條院宮が遷した二社は、天王社は伊文神社として現存し、八幡社は後に西尾城本丸に城の鎮守として移設され、御劔八幡宮となり現存しています。
でもさあ、せっかく縁があって西尾に遷された天王さんと八幡さんなのに、いつも離れてたらかわいそうです。同情した村人は、年に一回くらい合わせてあげよう ってことで、天王さん(伊文神社)を神輿に載せて、八幡さん(御劔八幡宮)に会いに行かせることにしました。
これが、七月第三週に開かれる「西尾祇園祭」でございます。今や大名行列が有名ですが、祭のメインイベントは今も「二神の御対面」だそうでございます。
経緯が経緯なんで、神輿(担ぐのは藩士ではなく町人)がこの日は西尾城本丸に入ることが許されたのです。本来は要塞の中枢なんで、西尾藩士以外は入れなかったのでは。
と、天王さんと八幡さんの関係、なんか七夕の話と重なってるよね。あ、だから祭が七月第三週とか、七夕の近くに設定されてるのかな。 毎年この祭りのときは、たいてい雨、もしくは夕立なんだよね。むかしからやる時期が悪いと思ってたけど。
それから、この伊文神社には「義倉」が建っております。(西尾市文化財)
時は幕末。災害や凶作、飢饉が続きますが、もはや幕藩体制はその終焉期で、民を助けるような余裕はございませぬ。 ええい、お上がやらぬのなら仕方がない。城下の裕福な町人衆は、災害時に備蓄米を配布する慈善団体を造りました。米を備蓄する蔵は安政四年に伊文神社に建てられたもの。 大正時代の「米騒動」のときも義蔵米は活用されたそうです。
そのほか境内には、子安泉(水は地下からくみ上げか、水道水っぽいが、石はなんかよさそう)や、岩瀬弥助が岩瀬文庫設立を記念して寄贈した石灯籠があります。社殿は焼失してしまい、コンクリート造りの立派なのが建ってます。
それからねぇ。この神社の境内は、台地の端っこで、西尾城総構えの端っこにもなります。なので、境内の前に「天王門」と「桝形」がありました。 「桝形」って敵が城下に一気になだれ込まないよう、道をくいっと曲げてあるんですな。
下の写真、分かりますかな。 ずっと上り坂になってますな。で水色のフレームが「天王門」。道の右側の木が生えてるところから先が伊文神社の境内。そして正面に見える黄土色の民家の前で、街道がくいっと90度左折し(赤矢印)城下町中心部へ続きます。
つまり伊文神社は、いざというとき城を守る砦の役割もあったんでしょう。 たぶん城外(坂の下)と3〜4mくらいの比高差があったんじゃないかな。よく地相を見てます。