西尾の文化財(3) 正法寺古墳

今日は、吉良町乙川にある古墳です。(国指定史跡)   西三河最大の古墳でございます。

場所は吉良でもずいぶんと海に近いほうにあります。

内陸部のほうから接近すると、向こうに小山が見えてきます。あれが古墳か〜  すげーでかいじゃん。     駐車場:古墳の北側に小さな空き地があり、数台くらいは停められそうです。あるいは、南側の正法寺の隣の公民館に数台停められそうです。

古墳のある丘

・・・残念ながら違いました。あの丘の上に古墳があるのでございます。丘ではございますが、写真を撮っている場所、地図を見ると「富好新田」等の地名が近くにありますから、古墳時代、丘は海に突き出た岬だったのでしょう。 写真では独立峰に見えますがgoogle mapでも分かるように東側(写真だと裏側)から続く尾根の先端です。安土城とかと同じ立地ね。

施工当時は木も生えておらず、側面は石が葺かれ、埴輪が並んでいたから、太陽を反射し光輝いて見えたことでしょう。 灯台の役割もしていたかもね。

なお、前方後円墳の言葉通り、前方が方形、後方が円形でございます。

前方の方形部
後方の円形

前(正面)は海を向いてます。と言っても、樹木がわんさか生えて展望利きませんがな。

海が見えてる・・・はず。

少し下りてみるとようやく眺望が開けます。

干拓地の向こうに海

はい、当時はこの正面は海でした(白浜新田ー白浜小学校とか吉良高校のあるところ)。ただし、古墳君はこっちを向いてるのではなく、上の写真の右側の方向を向いているように思います。茶道のように、茶碗の向いてる方向が重要です?伊勢方面でないかと、思うのですが。

ま、そんなことは案内看板には書かれておりません。 全長94mと。それから、埋葬施設は未調査で内容は不明 だそうです。 出土した埴輪と墳丘の形態から、古墳時代中期前葉(四世紀後半)と推定。被葬者は、三河湾、さらには伊勢湾に通じる交通路を配下に置く強大な勢力を有した地方豪族だろうとのこと。

案内看板

まだ調べてないなら、ひょっとして、結構な有名人が眠ってる可能性は・・・ない?(笑)。

ここから、私の妄想です。

もう少し南の幡頭神社は、日本武尊が東征に出たときに、旗頭を務めた建稲種命が駿河で遭難し漂着したところをこの地に葬った のを祭神としてますから、この古墳は建稲種命の墓である可能性は、ないのでしょうか?  ご主人の日本武尊の墓だとされている、三重県亀山市の能褒野王塚古墳を向いてる・・・とかね?

能褒野王塚古墳(のぼのおうつかこふん)は、三重県亀山市田村町にある古墳。形状は前方後円墳。能褒野古墳群を構成する古墳の1つ。実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「能褒野墓(のぼののはか)」として第12代景行天皇皇子の日本武尊の墓に治定されている。別称を「丁子塚(ちょうじづか)」とも。伊勢北部地方では最大規模の古墳で[注 1]、4世紀末(古墳時代前期)の築造と推定される。 (wiki)

だいたい時代もあってるしさ。「地方豪族の墓」より、こっちのストーリーのほうが、観光にも力が入って木を刈ってくれそう(笑)。いずれにしても、埋葬施設も早く調査してほしいものですね。

※追記:吉良町史によれば、地元ではこの古墳が建稲種命の墓であるという言い伝えもあったようです。

正法寺古墳模型(吉良饗庭塩の里展示)

 

 

古墳の東側には、古墳の名前の由来となった?正法寺があります。薬師堂拝殿、薬師如来像、阿弥陀如来像、今川義元の朱印状等が、市の文化財です。拝殿の役物は、結構立派な彫り物がありましたよ。

薬師堂拝殿
彫り物

が、薬師堂は傷みが激しいです。どこも維持は大変ですね。

 

 

さらに下りますと石段の脇に、明治二十二年と、昭和二十八年の高潮被害の水面を記した氷柱が立っていました。天端に「水面」とありますから、この高さまで水がついたのですね。高潮なので「これより下に家を造っちゃなんね」 とは書いてありません。ここは標高も低いですし、昔は海だったのでしょうから、このような警戒標識があるのはよいことだと思いました。向こうの家と比較すると、一階は床上浸水の可能性がありますね。

高潮表示標

 

 

西尾の文化財(2) 後奈良天皇宸翰般若心経

宸翰(しんかん)というのは、天皇直筆の文書のこと。

般若心経(重要文化財)

西尾市立図書館の岩瀬文庫へ行くと、無料で見ることができます。ただし「複製」ですけど・・・先ごろ、皇太子殿下が名古屋に来られたついでに拝観されたそうで、その時は本物を見られたことでしょう。   駐車場:西尾市図書館の駐車場が使えます。

後奈良天皇は、第百五代の天皇で在位1526〜1557年。この世はまさに世紀末。虐げられた人々は救済を求め、北斗神拳が・・・いやちがう、戦国時代の真っ只中でして、朝廷が非常に貧しかったころです。次代の正親町天皇の時に、ようやく織田信長や豊臣秀吉が覇王あるいは魔王として出てきて・・・だから違うって、パトロンとして出てきて、かなり潤ったのですが。後奈良さんの時は困窮の極みでございました。どんな感じかというと・・・

皇室がいかに窮していたかは、天皇の直筆がたやすく売り買いされていたことからも察せられる。御所の簾に紙を結び、銅銭などを添えて天皇の直筆を手に入れていたとはまさに皇室の財政的衰退がいかばかりであったかが、容易に推測されるであろう。               こうした荒廃した時代にあっても、天皇は自己の役割を十分に踏まえて、疫病流行の際には般若心経を諸国の神社に納めるなど、民衆の平安をつねに祈願した。      笠原英彦「歴代天皇総覧」中公新書1617

とあります。この後半部分の「般若心経を諸国に納め・・・」の部分、天文9年(1540年)参河国に納められたものがこの写真のもののようです。直接伝わっているわけではなく、 岩瀬文庫が明治40年代に京都の古書店から購入したものだそうですが。三河国と言っても広いですから、どこに奉納されていたんでしょうね?

あ、岩瀬文庫ってのは、西尾の実業家岩瀬弥助が明治41年に無償公開した私設図書館です。大正年間には児童館を併設したりしましたが、戦争や三河地震の被害で存続の危機を迎えましたが、昭和29年に西尾市が買い取り(いろんな大学や愛知県が買い取るという話もあったみたい)、今も市立図書館の一部になっています。

いま、岩瀬文庫では、6月25日まで岩瀬文庫の古書から「縁起の世界」という企画展をやっています。ここでいう「縁起」は、寺社仏閣の起源、伝説や歴史を描いたもの のようです。 歌舞伎で有名な道成寺の縁起とか、京都の北野天満宮の縁起(左遷され怨霊になった菅原道真の霊を祭る)が展示してありました。

一番興味深かったのは、併設されていた和装本のコーナー。そこに百万塔陀羅尼が展示してありました。

百万塔陀羅尼とは

天平宝字8年(764年)に藤原仲麻呂の乱を平定した称徳天皇は、戦死した将兵の菩提を弔うと共に、鎮護国家を祈念するために、6年の歳月を掛けて宝亀元年(770年)に『無垢浄光大陀羅尼経』に基づいて、陀羅尼を100万巻印刷し、小型の塔に納めて10万基ずつ大安寺・元興寺・法隆寺・東大寺・西大寺・興福寺・薬師寺・四天王寺・川原寺・崇福寺の10大寺に奉納した。(wiki)

その時の「百万塔」と塔の中に納めた「無垢浄光大陀羅尼経」が展示してあります。塔は法隆寺から譲り受けたものだそうです。

百万塔
経詳細

ちなみに、この経典は神護景雲4年(770)年印刷の、日本最古の印刷物だそうです。710年平城京752年奈良の大仏開眼とほぼ同時期ですな。永らく現存する世界最古の印刷物とされてきたのですが、近年韓国の慶州仏国寺から、それより20年ほど古いとされる陀羅尼経が発見されたそうで、残念ながら現在は世界最古ではないようです。