教育勅語、会津藩の什の掟、道徳教育・・・

先日、とある講演会を聞きに行きました。講演の題からやや離れて「武士道や会津藩什の掟マンセー」というような話がしばらく続き、(そのくせ什の掟の説明が無い。)私は知ってたが故に内容に不満があり、途中で退席してしまったのですけど・・・

最近の国会論争や、新聞の新刊本の宣伝等を見ていると、安上がりな道徳教育重視とか(最近はやりの教育勅語を道徳に使うことは是か非かとか)、は表面に見える美しさ(のようなもの)重視、あるいは「日本は素晴らしい」という本が社会に流れすぎているように感じています。

とはいえ、幼稚園児が教育勅語を暗唱する時代ですから、いい年の大人は、それらを理解してから対応すべきで、頭ごなしに拒否してはいけないですね。2つほど勉強してみたいと思います。(教育勅語と会津藩什の掟)

ちなみに日本美化について、私は「秘すれば花」「実るほど頭を垂れる稲穂かな」が日本の誇るべき品格(おくゆかしさ)だと思っているので、いちいち宣伝したり、自らに言い聞かせるのはかっこ悪い と思っています。 外から褒められたら、「ありがとうございます」とほほ笑んで、以前と変わらずというのがかっこいいと思う!

1.教育勅語(教育に関する勅語)

朕?惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇?ムルコト宏遠?ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦?相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博?愛衆ニ及?ホシ學ヲ修メ業ヲ習?ヒ以テ智能ヲ啓?發シ德器ヲ成就シ進?テ公?益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵?ヒ一旦緩?急?アレハ義勇?公?ニ奉シ以テ天壤無窮?ノ皇運?ヲ扶翼?スヘシ是ノ如キハ獨リ朕?カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺?風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道?ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺?訓ニシテ子孫臣民ノ俱ニ遵?守スヘキ所?之ヲ古今ニ通?シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕?爾臣民ト俱ニ拳?々服?膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶?幾?フ

 

明治二十三年十月三十日

御名御璽

------意訳します------

私(明治天皇(の名を借りた政府))は、私の先祖である歴代の天皇が、日本の国をはるか昔に開かれ、徳を持って治められたことは非常に貴いことだと思っておる。もちろんおまえたち臣民の先祖も、よく忠孝を尽くしてくれ、みんなが心を一つにしてその成果をあげてきたことこそ、我が国が最も誇るべき国体の本義であり、教育の意義もここに源があるのだ。

お前たち臣民は父母に孝行し、兄弟仲良く、夫婦はお互いを思いあい、友達は信じあい、自らは慎み深く律し、隣人を愛し、学問を修めあるいは仕事を習得することで、知識を増大させ、徳行を積み自らを磨き、公共の利益を増大させ、有益な仕事をし、いつも憲法を重視し、法律を遵守し、いったん国難があれば勇気を出して皇室に尽くし、この上もなく素晴らしき皇室をお助けせねばいけない。※これはただ、私に対して忠良の臣下であるだけでなく、先に触れたおまえたちの祖先の残してくれた美風を継ぐものである。

この考え方は、まさに私の先祖である歴代の天皇が残してくれた教えであり、子孫である私も、おまえたち臣民もともに遵守すべき道なのだ。この道は、古代から現代に至るまで正しいものであり、たとえ諸外国で実施したとしても誤りあるものではない。私もお前たち臣民とともに納得の上従うから、お前たちもその意を汲んで従ってくれることを切に願う。

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皇国(天皇が統べる国)で臣民に与えた文書という前提を除いたら、そんな悪くないこと言ってる感じ。  それでも「一旦緩?急?アレハ義勇?公?ニ奉シ以テ天壤無窮?ノ皇運?ヲ扶翼?スヘシ」のところがひっかかる。守るべきは「「皇運?」ではなく「皇祖皇宗が肇?めた」ではないの? 昭和天皇の聖断はその流れだったと思うけど。

それにしても、江戸時代の幕藩体制から、主に自衛のため急増で皇室を中心にした帝国を急増するため、にわかに仕立てた臣民に充てた心得(・・・こいねがう と、文末に小国家の悲壮さを感じるというか、実際必死だったんでしょうね、たぶん)を、民主主義国家である現代日本に持ち出すなよ、恥ずかしいな〜というのが感想です。

 

※これ日本語か?長いし、あちこち飛ぶし、内容も飛躍しすぎの悪文じゃないか。順番を変えてセンテンスを短くすべきだ!)

 

2.会津藩什の掟

同じ町に住む六歳から九歳までの藩士の子供たちは、十人前後で集まりをつくっていました。この集まりのことを会津藩では「什 (じゅう)」と呼び、そのうちの年長者が一人什長(座長)となりました。

毎日順番に、什の仲間のいずれかの家に集まり、什長が次のような「お話」を一つひとつみんなに申し聞かせ、すべてのお話が終わると、昨日から今日にかけて「お話」に背いた者がいなかったかどうかの反省会を行いました。

一、年長者(としうえのひと)の言ふことに背いてはなりませぬ(1)
一、年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ(2)
一、嘘言(うそ)を言ふことはなりませぬ(3)
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ(4)
一、弱い者をいぢめてはなりませぬ(5)
一、戸外で物を食べてはなりませぬ(6)
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ(7)
ならぬことはならぬものです

※什により、一つ二つ違うところもありましたが(「戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ」はすべての什にあったわけではないようです)、終わりの「ならぬことはならぬものです」は、どの什も共通でした。

そして、「お話」に背いた者がいれば、什長はその者を部屋の真ん中に呼び出し、事実の有無を「審問」しました。事実に間違いがなければ、年長者の間でどのような制裁を加えるかを相談し、子供らしい次のような制裁を加えました。         http://www.nisshinkan.jp/about/juu

会津藩校日新館のHPより引用しました。便宜的に(1)〜(7)の番号を付けました。

時代背景からすれば、(7)はやむを得ないですね。現代社会では論外ですが。(6)はまあかっこよくないけど、忙しい現代社会ではやむを得ないですね。(3)(4)(5)あたりはまあ道徳としては良いことです。豊洲の移転問題に揺れる、東京都の元幹部たちに煎じて飲ませてやりましょう。

(1)「年長者の言ふことに背いてはなりませぬ」 これはダメだろ。当時の会津藩士は、会津藩の為政者であったことも忘れてはいけません。この教えを叩き込まれた会津藩の最後はどうだっかかというと・・・徳川家に義を尽くしたけれど、最後は見捨てられ、江戸が無血開城してしまったので、新政府軍の振り上げた手の下し場にされてしまいました。結果として会津藩は取り潰し(後日、知行を大幅に減らして再興を許される)戊辰戦争で会津城下を焼き尽くす敗戦に終わりました。・・・

歴史にifはなかったとしても、藩家老の西郷頼母は、先々を見越して京都守護職就任から反対だったのですから、時代を見る目はあった(異端の士だったのか、最後は開城前に追放された。でも五稜郭の戦いまで従軍し、武士の筋は通してる)。自由闊達な議論が許されたら、あるいは若い世代の意見も自由に出せたら、敗戦を避けられたかもしれないし、白虎隊のドラマは生まれなかっただろうね。

東京都の豊洲問題や、東芝、福島第一原発を思い出してしまった。会長とか顧問とか、老害におとなしく従ってたら、会社や国が亡ぶかも。

そういう面では、政治や政略、戦略においては嘘言や卑怯な振舞、弱い者をいぢめをせざるを得ない と割り切れた薩長、特にその巨頭であった西郷隆盛は凄い。

一方でこの人は個人としては会津の什によく似た薩摩藩のの郷中教育を愛し、晩年は新政府ではなく郷中に殉じて死んでいくのだから。歴史の面白さというか皮肉ですかね。