吉良氏の菩提寺

西尾市内の五つの寺で十一日から、「西尾お寺イベント 本堂が夢ステージ」が始まる。コンサートや寄席などを予定し、テレサ・テンさんの「時の流れに身をまかせ」「つぐない」の作詞を手がけた荒木とよひささんも出演。市民有志らでつくる実行委の永井考介会長は「歴史ロマンあふれる寺の本堂を舞台に、地元アーティストや落語家の演奏、寄席を楽しんでほしい」と話す。 (角野峻也)…

お寺の本堂が夢ステージ 西尾で11日から催し、コンサートや寄席など

これは中日新聞の記事(導入部)で、続きは有料会員でないと読めませんが、西尾のお寺でイベントがあるようです。(中日新聞9月1日付朝刊掲載)

コンサートは特に興味ないのですが、続く記事の(歴史的?)部分に関心がありまして。

西尾市内の寺院数は270を越え、全国の市町村で二十番目の多さ。全国有数の「お寺のまち」であること。この資源を生かし、文化振興の風を吹かせようと企画された。

西尾にお寺が多いということは、文化財巡りをしているとよく分かります。気になったので、過去に西尾の寺院数と宗派別の取りまとめ記事を書きました。(出典;昭和60年版「愛知県宗教法人名簿」)

真言宗6、日蓮宗9、浄土宗156、浄土真宗90、曹洞宗17、臨済宗14、黄檗宗1、その他4、単立6  合計303

にしても、全国の市町村で20番目とは、やっぱりかなり多いですね。

イベントのうち、市にゆかりのある中世吉良氏、近世吉良氏、東条吉良氏の菩提寺を舞台にした「菩提寺コンサート」が9月〜11月に上町の実相寺と吉良町の華蔵寺、花岳寺で開催。市内在住のピアニストやオペラ歌手ら計15組が出演する。

長い前置きをすいません。

ここからが今回の主題。西尾にある「吉良氏の菩提寺」は、実相寺、華蔵寺、花岳寺なわけですけど、実際誰のお墓があるのか、そこを現地調査してみました。

①実相寺

吉良氏のお墓は、残念ながらありません。  昔はここの墓地か、塔頭(付属寺院)に墓があったと思いますが、戦乱やらなにやらで失われたのでしょう。  吉良氏の開祖に近い吉良満氏の創建とされています。  以前の訪問記はこちら

☆少し、松並木の松枯れが気になりました。マツクイムシじゃないといいのですが。

②華蔵寺

吉良家墓所  吉良義安から義央の継嗣義周まで吉良家六代の墓が残る・・・案内板より

具体的には、吉良義安とその夫人、吉良義定、吉良義弥、吉良義冬、吉良義央と夭折した次男次女、そして養嗣子である吉良義周のお墓があります。(末尾に吉良氏の系図を載せておきますので、参照しながら読んでください)

時代的には、徳川家康〜綱吉時代の吉良家当主とその家族。なので「近世吉良氏の菩提寺」というのですね。

ところで、上の写真をよく見ると手前2つ(写真手前左右)と、奥の方の墓の形が違うなあと思いません?

手前の2つは忠臣蔵で有名な吉良上野介義央(手前右)と、後継ぎである養子義周(手前左)の墓です。長方形の墓石の上に屋根が載っており、奥の先代各位の墓とくらべると簡素ですよね。  時代の違いかとも思いましたが、同時代と思われる、義央の夭折した次男(三郎)の墓も奥の方の形と同型なので、この説は当てはまらないでしょう。

忠臣蔵の悪役にされましたので、世をはばかって形式を簡素なものに変えたという可能性はどうでしょうか?討ち入りのあと、吉良家は断絶させられており、資金難で簡素なものしかできなかったのかも。

あるいは、これは当時のものではなく、後世に遺徳を偲ぶために建てられた記念碑的なものかもしれません。領地吉良では、義央は名君として後世まで慕われていましたし。

そもそも、義央の遺体はここではなく江戸の萬昌院(移転統合して、現在は東京中野区にある萬昌院功運寺)に葬られました。江戸常駐の高家職である義央は、生涯に一度しか領地に戻っていませんから、それほど吉良の地に執着していたとは思えません。また、養子義周は赤穂浪士討ち入り後に諏訪に流罪とされ、諏訪湖畔の法華寺に葬られています。

と、書いてて思いましたが、高家となったのは義央の祖父である吉良義弥の代からですから、そもそも江戸常駐の方々の墓がここにあるは不自然ですねえ・・・

と思いいたり調べてみると、これらはすべて墓ではなく「供養のための石塔」だそうな。

慶長5年(1600)に吉良義定によって父義安の遺徳をしのぶため建立された華蔵寺は、吉良家の菩提寺と定められたという。高家に任ぜられた義弥が本堂西側の小高い平坦地に父・義定の供養のための石塔を建てて以降、歴代吉良家当主の石塔と子供たちの石塔をその周囲に建てて墓所を形づくった。このうち、義定・義弥・義冬・義冬の息女の4基は江戸の大名家の石塔によく用いられる東伊豆産の安山岩製の宝篋印塔である。・・・この墓所は義弥が墓所を定めて、国元の菩提寺として以来の景観を今にとどめており歴史的価値の高いものである。

華蔵寺吉良家墓所      西尾市

まあ国元の菩提寺。 言われてみれば、そういうものなのでしょう。でも、これ「墓」って書かれると、誤解すると思うけどなあ。

華蔵寺の訪問記はこちら、と池大雅の襖絵についてはこちらです。

③花岳寺

墓があるのは、  吉良尊義、吉良満義、吉良持廣三人です。  墓なのか、供養の石碑なのかはわかりません。      案内板によると以下の記載があります。

尊義公・・・父満義公とともに東條に入り東條吉良氏を興す。(花岳寺)塔頭霊源寺の開基也、霊源寺殿と号す。

満義公・・・京都館にて卒去、寂光寺殿と号す。

持廣公・・・華岳寺殿と号す。

号から、尊義と持廣は実際ここに葬られたのかもしれないですねえ。ですが、この二人は東条吉良家の初代と七代ですんで、その間の人々の墓はどこにあるんでしょう・・・  最初の方は京都(室町幕府)駐在もしていたでしょうが、応仁の乱以降は、領地にいたと思うんだけれど・・・

花岳寺の訪問記はこちら。関連記事、寺宝の天皇宸筆と東条松平氏の記事です。

歴代吉良氏の家系図を貼っておきます。緑が華蔵寺、赤が花岳寺に墓のある人々です。

西尾の文化財(7)  華蔵寺(高家吉良家菩提寺)

今日は、江戸時代に再興された、高家旗本の吉良氏の菩提寺、華蔵寺の紹介です。

室町時代以降、吉良氏は東条吉良氏と西条吉良氏に分かれ、内紛を繰り返していました。戦国時代末期に統一吉良氏になりますが、徳川家康と敵対したためいったん滅びました(吉良義昭)。

しかし、義昭の兄義安は、徳川家康と仲良しだったことから、徳川家につかえます。その子義定が慶長五年(1600)年に、父の菩提を弔うため領地に造った菩提寺が華蔵寺です。その子義弥は、徳川家康が征夷大将軍になり幕府を開くのに協力したし ってことで「高家」という名門旗本になり家を再興します。

華蔵寺門構え

なかなか立派な門構えです。

なお、駐車場はこの前に広場があり、そこに停められます。トイレ有り。

門をくぐると、急な石段があります。危険なので、左右の坂を使うよう書いてありますが、階段を上ると、石段の上の門には「華蔵世界」の文字が。だから華蔵寺なんですね。

急な石段

華蔵世界の入口

さてと、このお寺の文化財としては、吉良義央公の木像(県指定文化財)その他池大雅の書等があるようですが、非公開です。外から眺められるのは、木造を納める御影堂と、お経を納めた経堂くらいかな。

御影堂

経堂

あ、それから、吉良氏の墓がありますね。高家旗本吉良氏の系図と、葬られている人の墓を写真で示します。 葬られている人が太字、吉良氏の家督を継いだ人を□で囲っています。

吉良義央さんは、米沢の上杉氏と太いパイプを持ってるんですね。上杉綱憲としてみたら、実父と実子が吉良家の当主になってますから、援助しないわけにもいきませんなぁ。でも、義央のあとを継いだ義周さん、かわいそうすぎ

大老酒井忠勝や、薩摩の島津家ともつながっています(娘はのちに離縁)。 ここには書いていませんが、四女の菊姫は再婚で公家の大炊御門経音(大納言)に嫁いでいます。この人の高祖父は、吉良義安の娘を妻にしていますから、大炊御門家とは、深い親戚になるのかな。

 

あ、せっかく華蔵寺を拝観したなら、そのまま隣の花岳寺にも行きましょう。途中に感じのいい散歩道が続いています。

案内看板

小道1

小道2

追伸:もう一つ見どころを忘れてました。吉良氏一族の墓に、「キリシタン灯篭」あるいは「織部灯篭」があります。写真はこちら。

キリシタン灯篭

典型的なキリシタン灯篭ですね。小さく矢印で示してありますが

・竿の部分の膨らみが十字架に見え、中央にローマ字にも見えそうな不思議な記号が彫られている。・一番下の像がバテレン(あるいはキリスト)にも見える。

千利休の娘はキリスト教徒でしたし、利休の高弟(七哲)もほとんど教徒でした。吉良氏の一族も、教養として茶道はしっかりやってたでしょうし、禁制になる前は、或いは誰かが信者だったのかもしれません。たとえ信者でなくても、「西洋文明は当時の最新ファッション」みたいな感じでしたから、流行のキリシタン灯籠を導入したのかもしれません。それがなぜかここにある。

茶道は禅宗とのつながりが強いのはもちろんですが、特に織部焼には西洋の燭台やワイングラスの影響が見えるものもあり、茶道への西洋文化(あるいはキリスト教)の影響はある程度あったんでしょう。で、このキリシタン灯篭は、信仰と関係があったのかどうかはわかりませんけど、

そういえば、吉良邸討ち入りの日は、茶会が開催されるため、その日に確実に義央が在宅するので、決められたんじゃなかったかな。ちなみに、彼は千宗旦の晩年の弟子だったそうです。

 

ところで・・・忠臣蔵、松の廊下の刃傷沙汰(浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた事件)の原因は何だったんでしょうか?

よく言われる理由として、塩田にまつわる確執があります。

吉良の富好新田にも塩田があったという伝承から、入浜式塩田技術の先進地であった赤穂に技術指導を求め、断られたので、朝廷の使い(勅使)の饗応役を命じられた内匠頭を、指導する立場(高家)だった吉良上野介がいじめ、逆切れした浅野君が切りつけたという説です。

もっともらしいですが、地元吉良饗庭塩の里の資料によれば、

・幡豆郡(吉良を含む地域)では領地が村ごとに混在しており、赤穂藩のように領主が大規模な塩田開発を奨励したとは考えにくい

・赤穂塩が廻船によって江戸をはじめ全国に流通したのに対し、吉良の塩(饗庭塩)は岡崎や知多以外は信州伊那谷に流通した程度で、生産量は瀬戸内産に遠く及ばなかった

という点から、この塩田確執説は成り立ちにくいんじゃないか としています。

うーん。僕の意見としては、たぶん浅野君が、ちゃんと賄賂を渡さなかったので、上野介君はやっぱ浅野君をいじめたんじゃないかと。

時は元禄時代。バブルの時代です。吉良さんはずっと江戸にいます。上野介は仕事ができた人でしたし、華麗なる家柄と有力大名や公家を親戚を持ち、話題のディスコも行かないかんし(笑)、付き合いには金が掛かったでしょう。上野介は仕事ができる人でしたし、その仕事は大名に儀式典礼を教えることと、幕府と朝廷の間を取り持つ役割。どうしても天狗(ストレートに言えば「上から目線のヤな奴)になりやすい環境だったと思います。でも領地は大した産業もない4200石しかありません。

とすると、教養を磨くためにも、大名に先生役で教えるにしても、(贅沢な暮らしをするためにも)先立つものが大量に必要だったはずです。

公然の秘密として、「指導料」を高く取らないとやっていけなかったことでしょう。でも浅野君は生真面目だったらしいから。袖の下が足りなかったんじゃないでしょうか?

地獄の沙汰も金次第って言うし、筆頭家老の大石さんは忠臣でしたけど、できれば主君が生きているとき、今はやりの「忖度」(笑)をしてそこまで気を配ってたら、あの事件はなかったかもしれませんな。ま、国元からではなんともできませんけど。

 

 

 

 

 

系図