豊川宿泊~映画と読書と銭湯と~

キャッスルイン豊川」に泊まってきました。 平日限定のおひとり様プランとして、朝食付きで広い部屋に泊まれて8,100円。オッサン1人の休暇に、かなりおススメ。

部屋ではソファーコーナーに寝転んで積読解消読書。 このホテル、ビジネスホテルの位置づけらしく、部屋の灯が明るく読書しやすいです。シティホテルだと雰囲気を出すため灯が暗く、本を読むのに不便な場合もありますんで、本を読みたいならいいホテルです。

牧野邦昭「経済学者たちの日米開戦」新潮選書 読破。

面白い本でした。これは、日米開戦前に陸軍省が設置した「戦争経済研究班(通称・秋丸機関)」として集められた経済学者が、もし開戦したら結果はどうかを予測研究したことを調査した本です。

という話をすると、あれ、それって「総力戦研究所」の話じゃね?と思われるかもしれませんね。(「総力戦研究所」については、ちょっと前に、NHKが戦後80年ドラマ「シミュレーション~昭和16年夏の敗戦~」で取り上げ、内容が酷いと物議を醸しました。)実は総力戦研究所は、この秋丸機関の研究に関わった人員も関わった「教育・研修機関」的位置づけだったようです。

秋丸機関にせよ総力戦研究所にせよ、日米の経済抗戦力の巨大な格差を指摘し「高い確率で負け」 という常識的な結論を出したにもかかわらず、なぜ無謀な開戦を防げなかったのでしょう?

この本では、著者の牧野さんが「必敗濃厚な状況にあることを承知の上で、当時の指導者は開戦を決定した理由はなんだったのか」を、経済理論(行動経済学・プロスペクト理論)を援用して推論しています。

詳しくは書きませんが(読んでください)、それを読みながら、僕は米内光政の「ジリ貧を避けようとしてドカ貧にならぬよう、ご注意願いたい」という発言を思い出したりして、非常に説得力のある、興味深い推論だと思った次第です。

閑話休題。実はこのホテル、コロナワールドという遊技場の上層階にありまして、場内にファミレス(Joyful)、入浴施設(コロナの湯と食事処)、映画館、ボーリング場が併設されております。ホテルフロントでは新聞閲覧とコーヒーのサービスもあります。

さらに、先ほどの宿泊料金には、入浴施設の料金も含まれてます。温泉ではないけれど、朝夕広い露天風呂に使って、おっさん幸せだ~。

夜は・・・そうだ、映画見よう!

映画も高くなりまして、一般2000円のところ、本日月曜日につき1300円。すごい値引きです。

まず見たのは「雪風 YUKIKAZE」です。なにせ建造中なもので。

我が家の海軍工廠はロフトにあり、夏は暑すぎて作業は中断してます・・・

期待してたけど・・・駄作でした。 戦時中の軍人を「平和な現代に暮らす我々現代人と同じ思考・価値観の持ち主」として描いてどうすんの?これは映画で、NHKの「連続テレビ小説」じゃないんだよ・・・

僕の目には、彼らが「コンプライアンス違反なく、戦争業務を粛々とやる」会社員っていうイメージを受けました。俳優さんたちは頑張ってますが、シナリオがダメ。 「戦場の狂気を描かない戦争映画」って、なんなの?

 軍艦マニアとしても、あんまり参考になるビジュアルがなかったっす。これなら「男たちの大和」の方が見どころあったな。

翌朝もう一本。 朝一の上映は1400円に割引。「国宝」。

この映画は・・・すごかった。  良い映画を見終わると僕の場合、ある種の衝撃を受け見た後しばらく放心することがあるんですが、この映画がまさにそれでした。 大学時代に「覇王別姫」を見て以来かな。(似たジャンルの話だし、僕がこの手の映画が好きってことかも・・・)でも、もしまだ見てないなら、ぜひ映画館での鑑賞をおすすめします。   

にしてもまあ、3時間もある映画を、よくインターミッションなしで上映しましたね。いや、いい映画なら個人的には集中して見てるので、それを切らさないよう一気に上映してほしいですけど、駄作なら3時間って苦痛ですもん。 監督は内容に自信があったんでしょうね。 俳優さんもみんなすごくうまかったしね。

夕食はJoyfulで食べました。レモンサワー入れて1400円くらい。宿泊には食事処で夕食付きの設定もありますが、ファミレスで食べた方がコスパはいいです。

コスパを考えるなら、朝ごはんもJoyfulとし、素泊まりにするのが一番ですな。次からはそうしよう。

なお、風呂あがりに思わず「ちょいのみセット(1000円)」を頼んでしまったけれど

これも悪くないんですけど、宿泊客は「300円以上の食事を頼むとビール一杯サービス券」もらえるので、600円の「鳥珍味3種」なんかをアテに一杯やったほうが得でした。次からはそうしよう。

ということで、近いうちにまた本を持って再泊する予定。 もしかしたら、「国宝」をまた観るかもしれないな・・・

西尾の文化財(5) こ、国宝 金蓮寺弥陀堂

ついに国宝が出ました!。 愛知県にある建築物の国宝は三つ。「犬山城天守閣」、茶室「如庵」そして吉良町饗庭にある、金蓮寺弥陀堂なのです。

五月の日曜日は、毎週堂内の公開が行われ、「吉良あないびとの会」の方の解説付きで200円です。来週の日曜日(5月28日)も10時から16時までやってますので、この機会にどうぞ。 それ以外の時期も、外観は自由に見ることができます。

金蓮寺の駐車場は、車が8台くらい停められます。 堂内公開の間は結構混んでますが、それ以外の日は余裕で停められると思います。

では、写真をどうぞ

弥陀堂

うーん、きれいなお堂ではあるけれど、これが国宝なのか〜と思いますよね。ほぼ同時代の阿弥陀堂で一番有名なのは、10円硬貨の裏に書かれている、宇治平等院鳳凰堂ですかね。あれも阿弥陀堂なんですが、同じ国宝でもずいぶん落差があるよね〜。いわきにある国宝白水阿弥陀堂(1160年)とは、ちょっと雰囲気が似てる気がする。

平等院は時の最高権力者である関白藤原頼道が建てたもの。(永承7年(1052年))頼道パパは「この世をば 我が世と思う望月の 欠けたることの 無しと思えば」と歌った、元祖ゴーマニズム宣言の藤原道長ですから、金に糸目はつけないわさ。 白水阿弥陀堂だって、黄金の国、奥州ジパングの藤原清衡の娘が建てたんだから、パパからイッパイ援助もらって造ったんだよ、きっと。

こちらは、文治2年(1186)年に、源頼朝が、三河国守護の安達盛長に命じて造らせた、「三河七御堂」の一つ(と言われています※)。やっと政権奪取のめどがついた、質実剛健の鎌倉武士の作ですから、質素なのは仕方がないんか。

(前年の1185年は源氏が平氏を滅ぼした壇ノ浦の合戦の年。この年各国に「守護・地頭」を置く権利を認められ、現在では1192年(「イイクニツクロウ鎌倉幕府」)ではなく、この年が幕府成立の年ともいわれています。)

三河に七つのお堂が立ったらしいのですが、現存するのはここだけ。愛知県最古の建造物ですから、まあ国宝なんですね。

 

ちなみに国宝に指定されたのは、昭和30年。その前2年かけて解体修理されましたが、それ以前の建物の写真はこちら(金蓮寺パンフレットから)

解体修理以前の弥陀堂

うーん、解体修理前と全然顔が違うんだが、本当に建造当時、この形だったんか?きっちり調べてあるんだろうか?

とりあえず・・・建造当時に戻すため、屋根を瓦から檜皮葺に戻して、東側(建物右側)に小部屋を復元。(これは、阿弥陀堂内に引きこもり修行する際の生活するところらしいよ) 修理が終わった昭和30年に国宝に指定。

復元したものを国宝にするプロセスもあるのか・・・※、まあ優美っちゃあ、優美ですけど。

一応パンプによると、建築学上の特徴としては、平安時代の貴族の住居の雰囲気を残しつつ、鎌倉時代の新技法も取り入れた建物なんだって。

・平安時代の建物の特徴

舟肘木と疎垂木

肘木の形(船肘木)・・・梁にかかる荷重を、柱にうまく伝達するための枕木ですな。

軒の垂木・・・内側の垂木の間隔は狭いけど、外側の垂木の間隔が荒い「疎垂木」

蔀戸

扉が蔀戸・・・格子状の板戸で、上下2つに分かれる。部屋を開放するときは、上は外に押し上げて金具で固定。下は外すと開放的な空間になる扉。

・鎌倉時代の新技法

鎌倉時代の技法

四天柱の前二本を省略・・・それ以前の建築物だと、仏像を置くところ(須弥壇)の四隅に柱を立てるのがお決まりだったけど、前に二本柱があると仏像を拝むのに視野を遮るものは(上写真の赤の線の箇所)廃止。※

格天井・・・仏像を置くところ(須弥壇)の天井を周りより一段高く上げる。矢印部分を比較。

うーん、超マニアック💛。好きな人でないと、どーでも・・・

※この形態から、建造は鎌倉初期ではなく、鎌倉時代中期ではなかろうか?と考えられているそうです。 そうすると復元形状は・・・?大丈夫なんか~?。

 

ちなみに、金蓮寺の本尊は、ここに祭られている阿弥陀如来ではなく、秘仏の不動明王です。(いまは曹洞宗だけど、昔は真言宗だったらしい) それで「饗庭のお不動さん」という名称で、地元では知られているかな。 本来、弥陀堂と金蓮寺は別々のものだったのでしょうが、お隣だし、いつの間にか一体のものになった って感じじゃないでしょうか。だからこそ、今まで建物や仏像が残ってきた っていうところじゃないかと。

そうそう、忘れていましたが、弥陀堂内部に安置された阿弥陀如来と脇持仏(観音菩薩と勢至菩薩)は美しいので必見。鎌倉時代?の作だそうです。

そういえば、饗庭って、ずいぶん変わった地名ですよね。金蓮寺の裏山に「饗庭神社」がありまして、神社の縁起に由来が書かれていました。

饗庭神社縁起

一説には、足利尊氏がここを新田として開墾し、伊勢神宮にそのうち2反を寄進したので、もてなすところ「饗庭」と書き、アイバと呼ぶようになったとか。昔の言葉で食べ物でもてなすことをアエと言い、それがアイに変わりアイバになったとか。

いやー、足利尊氏はこんなところに来ないとは思うけどね、それでも西尾市史でも「饗庭御厨」が伊勢神宮領って書いてあった記憶があるので、そのあたりの由来なのは確かなのかもしれません。

興味ある方は、弥陀堂の裏から道がありますので、少し歩いてみてください。

 

※11月1日追記 「三河七御堂」って言うくらいだから、7つあったんだろ?あとはどこよ?やっと見つけました。出典は岡崎市史2です。

  • 丹野御堂(宝飯郡・現在蒲郡市)
  • 財賀寺 (宝飯郡・現豊川市)
  • 長泉寺 (宝飯郡・現蒲郡市)
  • 法言寺 (八名郡・現豊橋市)
  • 普門寺 (渥美郡・現豊橋市)
  • 鳳来寺 (設楽郡・現鳳来町)
  • 金蓮寺 (幡豆郡・現西尾市)

金蓮寺以外は東三河にあったようです。宝飯郡が多いのは、三河守護所が、宝飯郡の「国府」にあったからですね。

また別の伝承では、幡豆郡司の伴氏が、この寺の建立に関わったという説もあります。伴氏は藤原氏による他氏排斥事件のひとつとされる「応天門の変」の主人公、大納言・伴善男の後裔とされています。