西尾の文化財(5) こ、国宝 金蓮寺弥陀堂

ついに国宝が出ました!。 愛知県にある建築物の国宝は三つ。「犬山城天守閣」、茶室「如庵」そして吉良町饗庭にある、金蓮寺弥陀堂なのです。

五月の日曜日は、毎週堂内の公開が行われ、「吉良あないびとの会」の方の解説付きで200円です。来週の日曜日(5月28日)も10時から16時までやってますので、この機会にどうぞ。 それ以外の時期も、外観は自由に見ることができます。

金蓮寺の駐車場は、車が8台くらい停められます。 堂内公開の間は結構混んでますが、それ以外の日は余裕で停められると思います。

では、写真をどうぞ

弥陀堂

うーん、きれいなお堂ではあるけれど、これが国宝なのか〜と思いますよね。ほぼ同時代の阿弥陀堂で一番有名なのは、10円硬貨の裏に書かれている、宇治平等院鳳凰堂ですかね。あれも阿弥陀堂なんですが、同じ国宝でもずいぶん落差があるよね〜。いわきにある国宝白水阿弥陀堂(1160年)とは、ちょっと雰囲気が似てる気がする。

平等院は時の最高権力者である関白藤原頼道が建てたもの。(永承7年(1052年))頼道パパは「この世をば 我が世と思う望月の 欠けたることの 無しと思えば」と歌った、元祖ゴーマニズム宣言の藤原道長ですから、金に糸目はつけないわさ。 白水阿弥陀堂だって、黄金の国、奥州ジパングの藤原清衡の娘が建てたんだから、パパからイッパイ援助もらって造ったんだよ、きっと。

こちらは、文治2年(1186)年に、源頼朝が、三河国守護の安達盛長に命じて造らせた、「三河七御堂」の一つ(と言われています※)。やっと政権奪取のめどがついた、質実剛健の鎌倉武士の作ですから、質素なのは仕方がないんか。

(前年の1185年は源氏が平氏を滅ぼした壇ノ浦の合戦の年。この年各国に「守護・地頭」を置く権利を認められ、現在では1192年(「イイクニツクロウ鎌倉幕府」)ではなく、この年が幕府成立の年ともいわれています。)

三河に七つのお堂が立ったらしいのですが、現存するのはここだけ。愛知県最古の建造物ですから、まあ国宝なんですね。

 

ちなみに国宝に指定されたのは、昭和30年。その前2年かけて解体修理されましたが、それ以前の建物の写真はこちら(金蓮寺パンフレットから)

解体修理以前の弥陀堂

うーん、解体修理前と全然顔が違うんだが、本当に建造当時、この形だったんか?きっちり調べてあるんだろうか?

とりあえず・・・建造当時に戻すため、屋根を瓦から檜皮葺に戻して、東側(建物右側)に小部屋を復元。(これは、阿弥陀堂内に引きこもり修行する際の生活するところらしいよ) 修理が終わった昭和30年に国宝に指定。

復元したものを国宝にするプロセスもあるのか・・・※、まあ優美っちゃあ、優美ですけど。

一応パンプによると、建築学上の特徴としては、平安時代の貴族の住居の雰囲気を残しつつ、鎌倉時代の新技法も取り入れた建物なんだって。

・平安時代の建物の特徴

舟肘木と疎垂木

肘木の形(船肘木)・・・梁にかかる荷重を、柱にうまく伝達するための枕木ですな。

軒の垂木・・・内側の垂木の間隔は狭いけど、外側の垂木の間隔が荒い「疎垂木」

蔀戸

扉が蔀戸・・・格子状の板戸で、上下2つに分かれる。部屋を開放するときは、上は外に押し上げて金具で固定。下は外すと開放的な空間になる扉。

・鎌倉時代の新技法

鎌倉時代の技法

四天柱の前二本を省略・・・それ以前の建築物だと、仏像を置くところ(須弥壇)の四隅に柱を立てるのがお決まりだったけど、前に二本柱があると仏像を拝むのに視野を遮るものは(上写真の赤の線の箇所)廃止。※

格天井・・・仏像を置くところ(須弥壇)の天井を周りより一段高く上げる。矢印部分を比較。

うーん、超マニアック?。好きな人でないと、どーでも・・・

※この形態から、建造は鎌倉初期ではなく、鎌倉時代中期ではなかろうか?と考えられているそうです。 そうすると復元形状は・・・?大丈夫なんか~?。

 

ちなみに、金蓮寺の本尊は、ここに祭られている阿弥陀如来ではなく、秘仏の不動明王です。(いまは曹洞宗だけど、昔は真言宗だったらしい) それで「饗庭のお不動さん」という名称で、地元では知られているかな。 本来、弥陀堂と金蓮寺は別々のものだったのでしょうが、お隣だし、いつの間にか一体のものになった って感じじゃないでしょうか。だからこそ、今まで建物や仏像が残ってきた っていうところじゃないかと。

そうそう、忘れていましたが、弥陀堂内部に安置された阿弥陀如来と脇持仏(観音菩薩と勢至菩薩)は美しいので必見。鎌倉時代?の作だそうです。

そういえば、饗庭って、ずいぶん変わった地名ですよね。金蓮寺の裏山に「饗庭神社」がありまして、神社の縁起に由来が書かれていました。

饗庭神社縁起

一説には、足利尊氏がここを新田として開墾し、伊勢神宮にそのうち2反を寄進したので、もてなすところ「饗庭」と書き、アイバと呼ぶようになったとか。昔の言葉で食べ物でもてなすことをアエと言い、それがアイに変わりアイバになったとか。

いやー、足利尊氏はこんなところに来ないとは思うけどね、それでも西尾市史でも「饗庭御厨」が伊勢神宮領って書いてあった記憶があるので、そのあたりの由来なのは確かなのかもしれません。

興味ある方は、弥陀堂の裏から道がありますので、少し歩いてみてください。

 

※11月1日追記 「三河七御堂」って言うくらいだから、7つあったんだろ?あとはどこよ?やっと見つけました。出典は岡崎市史2です。

  • 丹野御堂(宝飯郡・現在蒲郡市)
  • 財賀寺 (宝飯郡・現豊川市)
  • 長泉寺 (宝飯郡・現蒲郡市)
  • 法言寺 (八名郡・現豊橋市)
  • 普門寺 (渥美郡・現豊橋市)
  • 鳳来寺 (設楽郡・現鳳来町)
  • 金蓮寺 (幡豆郡・現西尾市)

金蓮寺以外は東三河にあったようです。宝飯郡が多いのは、三河守護所が、宝飯郡の「国府」にあったからですね。

また別の伝承では、幡豆郡司の伴氏が、この寺の建立に関わったという説もあります。伴氏は藤原氏による他氏排斥事件のひとつとされる「応天門の変」の主人公、大納言・伴善男の後裔とされています。