中山靖王・劉勝の末裔

僕は三国志が好きで、時々ゲームでも遊んでます。

曹操の建国した「魏」孫権の建国した「呉」劉備の建国した「蜀」が鼎立した「三国」時代。最初彼らは王国であり、名目上だけですがまだ漢帝国(後漢)の献帝が皇帝として在位していました。 魏王の傀儡だけど。

後漢(ごかん、中国語: 後漢、拼音: Hòuhàn、25年 – 220年)は、中国の古代王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた

wiki

ですが魏は曹操の息子が献帝から位を譲りうけ、ここに漢(後漢)帝国はほろびます。「魏帝国」の成立です。

そして、献帝に禅譲を迫って皇帝の座に即位した。ただし、表向きは家臣たちから禅譲するように上奏し、また献帝から禅譲を申し出たのを曹丕は辞退し、家臣たちに重ねて禅譲を促されるという形を取った。2回辞退したのちに、初めて即位した。ここで後漢が滅亡し、名実ともに三国時代に入ることになる。

wiki

が、一つの見方によれば、この時後漢はほろんでいません。蜀の君主劉備は魏に対抗して皇帝となったのだけれど、自らが漢皇室の末裔だとして、国の正式名称を「漢」と宣言したからです。 まだ漢はほろんでないぞ!と。 その国を周りの国が「蜀」と呼んだり、後世の人々が「蜀漢」と呼んでいるのです。

蜀漢」は後世の称であり、正式な王朝名は「」である。これは魏の文帝・曹丕が後漢を滅ぼして即位した時に、劉備が漢の正統を継ぐと宣したためである。従って同時代に「蜀漢」を自ら名乗った訳ではない。漢の後継であることを認めない魏・呉の立場では当時から「蜀」と呼ばれた。

wiki

その後、三国で一番国力の劣る蜀は国力に見合わぬ北伐(魏を撃つこと)を繰り返し、三国の中で一番早く滅びるわけですキが、彼らの見方からすれば、これはただの進攻戦争ではなく、漢を簒奪し、国土を奪った魏に対する「レコンキスタ」なのです。

レコンキスタ(スペイン語: Reconquista)は、718年から1492年までに行われた複数のキリスト教国家によるイベリア半島の再征服活動の総称である。イスラム教に奪われた土地を再度キリスト教の土地に取り返す(リ・コンクエスト)運動。
日本語においては意訳で国土回復運動(こくどかいふくうんどう)や、直訳で再征服運動(さいせいふくうんどう)とされることもある。

wiki

だから国力疲弊が分かっていても、大義名分論として、北伐をおいそれとやめるわけにはいかなかったんですよね。 

閑話休題。さて、劉備は本当に漢帝室の末裔だったのか、そしていわゆる蜀漢の正当性(漢の継続性)はあったのでしょうか?

三国志演義だと劉備は「中山靖王・劉勝の末裔、漢の景帝の玄孫」ってことで、献帝から叔父として認められ、以降劉皇叔(りゅうこうしゅく)と呼ばれることになってます。

が・・・

劉備が後漢の献帝(第14代皇帝、劉協)に初めて謁見した時、献帝は劉備が前漢の中山王劉勝の末裔で自分の親族にあたることを知り、臣下に劉氏一族の系譜を調べさせました。その結果、劉備が劉勝から数えて17代目の子孫で、献帝の叔父にあたることが判明しました。それ以来、献帝は劉備を叔父として礼遇し、人々も彼を敬って「皇叔」と呼んだ、というのです。

【研究こぼれ話vol.001】劉備はなぜ「皇叔」と呼ばれるのか 就実大学

景帝(前漢6代皇帝)から数えて18代目の子孫。一応「劉」姓ではあるけれど、この程度の血筋の劉氏は掃いて捨てるほどいたはず。歴史を見ている現代のわれわれから見れば、血のつながりで蜀漢の正当性を主張するのはかなり厳しそうです・・・むしろ血筋は添え物で、実際は劉備個人の素質や実力による偉業と評価すべきでしょう。 

が、現代においても、蜀漢帝国並みの「薄い血統」をもとにした正当性を主張する王朝存続論が沸き起こる国もあります。それが日本の「旧皇族の男系男子の子孫を皇族復帰させる」案です。

でもその「旧皇族の男系男子」が皇室と血縁分岐したのは、なんと南北朝時代。 

 昨今、皇位継承問題でさかんに言及される「旧皇族」とはいったいいかなる存在か?
「昭和22年10月に臣籍降下(皇籍離脱)した11宮家」というのでは正解の半分でしかありません。正解のもう半分(より重要な半分)は「大正天皇の皇子である秩父、高松、三笠の三宮家(直宮)以外の宮家であり、それらはすべて伏見宮系皇族である」です。こうした初歩的な事柄を押えないままに、あれこれ論ずる向きもあるようですが、すべては「事実」を知ることからはじめるべきです。
 伏見宮家と天皇家との血縁は、実はきわめて遠く、その分岐は南北朝時代までさかのぼらなければなりません。

伏見宮─もうひとつの天皇家  講談社

北朝第3代天皇である崇光天皇(在位1348~1351)の皇子が家祖ですから、第97代後村上天皇(在位1339~1368)と同世代。今上(令和天皇)は第126代ですから・・・

「旧皇族の男系男子養子説」はざっと考えれば、「18世孫の劉備が漢帝位の正当性を堂々と主張する」のとレベル変わらないんじゃないかと・・・劉備の血統正当説を笑えませんねえ。

ちなみに、中国には「易姓革命」という、血統主義を覆す便利な王朝交代正当化論もありますので、劉備の血統正当説はあんまり盛り上がらないと思います。

易姓革命(えきせいかくめい)とは、古代中国において起こった孟子らの儒教に基づく、五行思想などから王朝の交代を正当化する理論。
前王朝(とその王族)が徳を失い、新たな徳を備えた一族が新王朝を立てた(姓が易わる)というのが基本的な考え方であり、血統の断絶ではなく、徳の断絶が易姓革命の根拠としている。儒家孟子は易姓革命において禅譲と武力による王位簒奪の放伐も認めた。

・・・これは西洋、とりわけ古代ローマの後継である東ローマ帝国を除いた、広範な西ヨーロッパ社会において、君主の血統が最も重視されたことと対照的である。西ヨーロッパの諸国では、ある国の君主の直系が断絶した際、国内に君主たるに相応しい血統の者が存在しない場合には、他国の君主の血族から新しい王を迎えて新王朝を興すほど血統主義が支配的であった。

wiki

投稿者:

モト

元河川技術者、現在は里山保全の仕事をしているおっさんです。西尾市在住の本好き歴史オタク。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください