三河十二本寺  +(その立地と舟運との関係は??)

以前の記事で、西尾にある寺院数と宗派を調べたことがあります。結論は下のグラフになります。これは西尾市と全国にある、宗派別の寺院数をパーセント表示したものです。

明らかに、西尾は浄土宗、特に西山派の「西山深草派」の寺が多いです。

参考記事:西尾の文化財(20)西尾の寺院 寺院数と宗派 日本の寺院 寺院数と宗派

西山深草派って、全国的に見たら寺院数は少ないです。浄土宗系の中でも浄土宗(浄土宗鎮西派)が優勢なんですが、西尾市に限ると、西山深草派の方が浄土宗(鎮西派)より圧倒的に多いんです。

この宗派は京都に総本山・誓願寺がありますが、西尾を含む三河地方に中本山の格式の寺院群「三河十二本寺」があるんです。つまり西尾と周辺地域(主に岡崎)は、西山深草派の一大拠点(?)という特徴があるんですね。 ちなみに三河十二本寺は以下の通り。

1. 不退院 (西尾市上道目記町)
2. 法蔵寺 (岡崎市本宿町)
3. 安楽寺 (蒲郡市清田町)
4. 桂岩寺 (西尾市上矢田町)
5. 崇福寺 (岡崎市中島町)
6. 圓福寺 (岡崎市岩津町)
7. 浄珠院 (岡崎市上和田町)
8. 養國寺 (西尾市寺津町)
9. 養寿寺 (西尾市下矢田町)
10. 恵験寺 (西尾市上道目記町)
11. 大林寺 (岡崎市魚町)
12. 梅園誓願寺 (岡崎市梅園町)    wiki三河十二本寺より

ほとんど岡崎と西尾ですね・・・12カ寺のうち、5寺が西尾市内にありますが、先日まで巡ったので、写真を貼ります。中には記事にしたお寺もあるでよ。

1. 不退院 (西尾市上道目記町)

記事:西尾 不退院 と鳥居忠吉 へリンク

4. 桂岩寺 (西尾市上矢田町)

8. 養國寺 (西尾市寺津町)

記事:西尾の文化財(26)寺津散歩 西尾で鐘楼門のある寺院

9. 養寿寺 (西尾市下矢田町)

西尾の文化財(17) 養寿寺

10. 恵験寺 (西尾市上道目記町)

 他のお寺は、いかにも寺らしいけど、恵験寺は民家みたいな風情でしたね。長い歴史の中で衰退していったのかな・・・

お寺を5つ回って、とある共通点に気が付きました。それを確かめるべく、三河十二本寺の位置を地図に落としてみました。さらに江戸初期の海岸線(干拓地を除いた)と、矢作川の旧河道を書き込んでみますと・・・

12のうち10寺は、海岸線もしくは矢作川から遠からぬ位置に立地しているようです。言うまでもなく自動車や電車ができる前は、舟運が交通の大動脈でした。交通の便が良い場所に人が集まり、大集落があったとか、布教に便利だったから とか理由はいろいろ考えられると思いますが、

水運と古の大寺の立地に関係があったかも って、ちょっと面白そうじゃないですか?

※と言っておいてなんだけど・・・この地方最初の道場は法蔵寺近くにあったと言われています。法蔵寺は、矢作川から離れた2寺のうちの一つなんですよね。とすると、イマイチ説得力に欠けるかしら・・・

※現地へ行っても、不退院と恵験寺あたりの矢作川旧河道(弓取川)は埋め立てられ、現在は大河が流れていた痕跡は残っていません。細い用水が残るだけ。

 

 

 

 

 

西尾 不退院 と鳥居忠吉

西尾市上道目記にある、授法山不退院を訪れました。浄土宗西山深草派。

パッと見た感じ、特にどうと言うことのないお寺です。が、このお寺は、三河地方の戦国時代の歴史に、いろいろ関わっているのです。

戦国時代の三河の英傑と言えば、まあ徳川家康でしょう。 家康の小さいころ、徳川家(当時はまだ松平家ですね)はガタガタでした。先代の当主広忠が横死し、幼君家康は駿府の今川氏の人質状態。岡崎を中心とする松平氏の所領は、ほぼ今川氏の植民地と化していました。

その当時の松平家臣団を取りまとめていたのは、鳥居忠吉という人物でした。

天文18年(1549年)に清康の子で主君・広忠が暗殺されたため、その後は新たな幼主・竹千代(後の徳川家康)の身柄が駿府に預けられ、岡崎城は今川氏の管理下に置かれた。

この間、岡崎の治世は今川氏から派遣された城代による統治よりも、忠吉と阿部定吉らとの実務によって成り立っていた。だが、収穫などの富は今川氏への分配が多く、松平党は日々の暮らしにも困窮する。そんな僅かになった収穫であっても、家康が帰参するであろう将来に備えて倹約・蓄財に心血を注いだ事で知られる。阿部が死去すると忠吉の下に、松平家臣団は一段と結束する。貧しさに苦しもうとも、いざ合戦となると、命を惜しまぬ戦いぶりを見せつけた。その忠誠心は後世まで「三河武士」として名声を高めるが、当時の彼らの姿勢や意識は、家康を想う忠吉によって植えつけられた。  wiki鳥居忠吉より

テレビドラマで、桶狭間の合戦後若き家康が岡崎城に戻った際、老臣に蔵に案内され、蓄えていた財を見せられ、「じい。今川の占領下の苦しい中、よくこれだけの蓄えを蓄えてくれた!」と泣くシーンがありますが、この老臣が鳥居忠吉です。家康は、その財をもとに三河統一を果たすという・・・

鳥居家の領地は岡崎市渡町。一説には「矢作川の水運で栄えた水陸交通の要衝のため、船や馬などの経済活動でかなりの富を蓄えていた」とされます。

話が不退院から飛んでしまいました。長々と鳥居忠吉の話をしてしまいましたが、その鳥居忠吉の墓が不退院にあるのです。忠吉の次男がこの不退院の第六世住職だった縁です。

さらに、徳川家康の異母妹・市場姫は、西尾・八面山城の城主 荒川義広に嫁いだのですが、近隣だったこともあり?荒川義広と市場姫の墓もこの寺にあるそうです。まあ家康も、妹の墓が忠臣の縁者のお寺にあれば、安心したということもあるのかな。

いずれにせよ、徳川家と縁の深いお寺と言うことで、江戸時代は徳川家から寺領を貰っていた、由緒あるお寺だったのです。

徳川家、荒川家、鳥居家の関係を図にしてみたぞ。□で囲った太字の人物の墓が、このお寺にあるのだ〜。

しかーし。実際に訪問してみてもどれが誰の墓やらさっぱり分からん。

お寺の墓地って通常、一番奥待ったところに歴代住職のお墓があるんだけど、鳥居忠吉さんは、住職の縁者だから、その並びにあるんじゃないかな? ってことで、これに比定!(違ってても知らんよ〜)

ずらり並ぶ歴代住職の墓。一番奥の塔が忠吉さんじゃない?

その近くの古そうなお墓を、荒川義広と市場姫に比定しました。周りは荒川一族や家臣の墓じゃないかと。

荒川一族の墓?

ちなみに、鳥居忠吉の三男が、有名な鳥居元忠です。重臣の子として、人質時代から家康の近臣として使え、最後は伏見城の城代として、関ケ原の合戦に先立ち戦死しました。

で、この鳥居元忠くん、遠江国の弘忍寺を移築し、上町にある実相寺を再興しているのです。

実相寺は、吉良氏の菩提寺として建てられたのですが、織田信長の焼き討ちにあい焼失しています。主家である徳川氏は、三河統一の過程で吉良氏(荒川氏)とも争うものの、近しい姻戚関係&いろいろ助け合った仲でした。さらに荒川義広は不退院で、元忠の父・忠吉の近くに眠る近しい間柄??なわけ。

そんなこんなで、元忠くんは、実相寺を再建してくれたのかもしれないのですね。